自転車置場の小保方さん
どうでもいいような議論ほど紛糾しちゃう。これをコンピュータ業界では「自転車置場の議論(bikeshed discussion)」と言う。元々はコンピュータ業界の中でもFreeBSDのコミュニティで広まった言葉だそうだ。
人間難しいことを考えるのは大変だ。高度に政治的な問題だとか、複雑な利害関係がからみあう問題になるとあらゆる意見に理があるので、そのなかから正解を見つけ出すのはとても難しい。というか不可能だ。
ところが「バイク置場の屋根の色をどうするか」とか「プログラムを書くときはタブは空白いくつ」とか「いまさらティファニーのオープンハートはダサいか」なんて話になると議論が一気に白熱する。問題の難度が下がる => 議論にのりだす人が増える => そして白熱論争へ。
今回の小保方さんの騒動をみていて、オイラが思ったのは研究者(や学者)ですら自転車置き場の議論からは逃れられないのかということ。小保方さんのやったことは科学の手続きに則っているので、もう結果はYESかNOかしかない。研究のあり方や、査読の体制づくり、理研のシステム、税金の使い道といったことはすべて「コップの中の嵐」で、研究者のみなさん頑張って改善してくださいねとしかいいようがない。
それなのに未だに事態が収まらないのは、研究者たちが自転車置場の議論に熱中しているからだ。世間に名の知られた研究者が声を大にして議論すれば、オレだって何か大変なことが進行中なのかと思ってしまう。でもそれは、プログラマが「プロックは中括弧かbegin~endか」で一晩中議論するようなものだ。つまり(外側から見れば)どうでもいいことだ。
小保方さん擁護論に怒る研究者の人たちは、自転車置場の議論を笑われているかもしれないと一度立ち止まった方がいい。もしかすると科学の手続きに則らないこと(霊魂とかホメオパシーとか反ワクチン運動とか)を無視してきたから、こんなことになっちゃったのかもよ。
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