備忘録02

『白熱講義 これからの日本に都市計画は必要ですか』

著者:蓑原 敬、饗庭 伸、姥浦 道生、中島 直人、野澤 千絵

   日埜 直彦、藤村 龍至、村上 暁信

じゃあ一方で、郊外から都市に人を戻さないで済むかと言うと、戻さなきゃならない時点が必ずくるわけだ。なぜかと言うと、これからは、行政サービスという意味での福祉サービスの圧倒的な需要がついてくるからです。そして供給が追いつかない。人々に生きがいというものをいつまで与えるのかというシビアな問題もあります。こういう現実的な判断を抜きにして、コンパクトシティという理想を言うのは意味がない。だから、まさに野澤さんが言うように、ある場所ではそこでのサービスが続いて、当分の間ハッピーであるなら、そこにいた方がいい、無理やりこっちに戻ってこいというのは意味がない。だけど、それで困り始めた時に、どこに移るかということは議論した方がいい。

私が関わっている奈良県の十津川村は、あと20年、30年経ったら日本の多くの街が抱えるはずの問題がすでに発生している場所です。高齢化率は40%を超えていて、80歳以上の高齢者でも一人で元気に自分の家で過ごしています。村内には、36ベッドの特別養護老人ホームが一つあるのですが、すでに80人が入居待ちをしていて、今後、財政的に特養ではカバーできないことがはっきりしています。村長さんは、非常に賢く、一人でも健全に暮らしたいという丈夫な人たちはできるだけ自宅で暮らせるようにして、一人では寂しくなったり、困ってきた時に利用できる中間的な施設をつくって当面しのごうと考えていました。僕も「ぜひやりましょう。だけど、そのうちどんどん高齢化が進んで、それでは間に合わなくなりますよ」と言っていたら、最近になって、このままではやはり間に合わないことがわかったそうなのです。そこで、こういう人を引き取る場所や、逆に、こうした場所に引き取るまで、いかにして一人で暮らせる時間を引き延ばすための中間施設的なものをつくるのかを含めて、トータルに村で考えましょう、ということになっています。この現象は、まさにこれから日本全国で起こってくる問題なのです。何が言いたいかというと、要するに時間の関数を無視して、コンパクトシティを目指すことには意味がない、ということです。


感想

1つひとつのまちには歴史や文化、風土などの物語があり、物語の主人公は誰なのかが重要。首長なのか、建物なのか、それともまち自体なのか。

私は、私も含めて「そこにいる人」「そのまちに係る人」が幸せでいるか、だと思う。なぜまちに係るのか?それは自分も仲間も幸せでいたいからなのかもしれない。誰かが困ったときに手を差し伸べることができるまちであってほしい。