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あなたの横でまたシャッター切る

どうして私は写真を撮るのかなと思いまして。使っているiPhoneは最新のいいものなのに、わざわざちょっと重いカメラを出かける度に持ち出して、シャッター切って、Macに入れて編集をしなかったりしたりする。印刷をしない時の方が多くて、SNSにあげない時も多くて、ひっそり1人で見ている時もあって。

純粋に写真を撮る行為が好きという説。これは正直にそう。そこではなくて、ではなぜ写真を撮るのが好きなのか?
写真を撮るという行為について考えてみる。私にとって写真を撮るというのは、「記録」でしかないと思っている。今から見たら過去なのだけれど、その時を生きた「今」を記録するためのもの。記憶の中から一枚シーンを取り出して、積層するように記録として、残せるもの、それが私にとっての写真なのかなと思う。

いいと思ったものを、いいと思ったその瞬間に記録することを心がけていて、だからカメラが手放せない。その瞬間というのは、私の記憶の中の一枚で、きっと写真を撮らなければ忘れてしまう。思いついた言葉をそのときに書き留めておかないと二度と思い出せないみたいに。しかもその瞬間は、生きていたら未来にあって、いつそれが訪れるのか今の自分にはわからない。いつ出会えるかわからない。だからひしとカメラを持っている、いつでも写真を撮れるように、いつでも記録できるように、しなければいけない気がしている。

記憶、ということで言うと、私の記憶のイメージは、それこそフィルムみたいになっている。私が生きた分のフィルムが頭の中に時系列で保存されている。自分が焦点を合わせていた部分以外の記憶は記憶された瞬間からなくなっていくと思う。自分の中心部分の色がまずなくなって、次に具体的な形がなくなる。人の顔や仕草は、今会ってみると記憶とちょっと違うのは多分これのせい(伊藤紺さんの短歌をぜひ読んでください…!)。
一番最初に色、形がぼやけてくる。その後に感覚がなくなってくる。五感にまつわるものの中でも順番があって、視覚はもうないものとして、まず味覚、次に触覚、続いて聴覚、最後に嗅覚である。これは完全になくなる、とかではなくて、同じものを今もう一度見たり感じたりしたとき、どれほど記憶との相違があるか、その幅が広いか、である。私は人の記憶に一番最後まで残るのが嗅覚つまり香りであると信じているので、そう、記憶の一番最後はフィルムには写らない香りだけが脳を駆け巡る。

少し話が逸れたけれど、つまり記憶の中で一番早くになくなるのは視覚で、それを記録して、いつでも記憶の形に相違なく思い出せるように、写真を撮るのだと思う。
思い出せるような写真、なのかもしれないし。形だけではなくて、その周りをまとっていた記憶まで思い起こさせてくれるような。場所や、ものや、人に対しても、記憶がまとわりついて離れない瞬間がたくさんあるように、それは写真でも同じなのだと思う。私の撮った写真が誰かにとってのそれになれたら、また嬉しいね。

私は風景や静物を撮ることが多いが、これは少し自分の記憶に近しくなってしまう。記録には近いのだろうけれど、静物や風景や構造体は、動かない。だから、いい、と思った瞬間を探しやすいとも言える。その楽しみもその楽しみで、動くものを撮ってみる楽しみを、本当に一瞬を引き出す楽しみを、味わってみたいなとも思う。これからは人も撮りたいなと思う。そして誰かの離れない記憶を残せるような、写真が撮りたい。

なのでおそらく私の中で写真を撮るということは趣味の一つでしかなくて。がちがちにセッティングされた環境で撮るのも疲れるし、現実離れした編集もしたくない(やろうと思えばいくらだってこれは後付けでできるし)。なるべく自分がその時その目で見た色味や形がその時のカメラの中で再現されているのが楽しくて(編集する頃には記憶の中の色味は本当の色味と違ってきてしまうから)、その瞬間をちゃんと正しく近しく引き出せるように、写真を撮る練習をするのだと思う。カメラを買ってから年々撮る枚数が増えているみたいに、カメラを通して何かと(それは生きることに近いかもしれない)向き合う時間が、増えたら素敵なんだろうなと思う。
いいと思った瞬間、美しいと思った瞬間、愛おしいと思った瞬間、素敵な瞬間で溢れていた人生の一部を記録できるなんて、写真を撮ることができて幸せだなっていつも思いながら、また。

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