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激重Agust Dペン、Agust Dの終わりに思う

Agust Dのワールドツアーが終わってから、もうすぐ3週間。
ある程度こうなることは予測はしていたのだが、正直わたしは未だ全然平気じゃない。
ずうっと胸の中にはスースーすきま風吹いてるし、何かから目を逸らすようにして暮らしている。
心のやわっこい部分をちょんと突つかれたら雪崩が起きそうな予感もあるので、そこを刺激してくる恐れのあるものには一切近付けない。
結果、やたらとドンパチが派手なスパイ映画ばかり観たり、しばらく聴いてなかったような発散系音楽(たとえばNIRVANAとか)を大音量で聴いたりして、なんとか平穏を保っている。
自分が思い込みの強い人間だと知ってはいたけれど、ここまでとは思ってなかったので、新たな自分の発見でもある。


それにしたって、よ?
そもそもわたしは万全の準備をして臨んだチケッティング(いや血ケッティングか)にもこっぱみじんに玉砕したので、Agust D終末のその現場には立ち会えなかった身だ。
遠く離れた日本から、オンラインストリーミングで観ただけ。
なのに、そんな画面越しの参加ですら、これほどのグラグラ状態。
あの魂のステージを生で観てしまったファンの方々は、3週間経つ今一体どんな気持ちでおられるのだろう??
みんな普通に暮らせているんだろうか…?
いや無理無理、無理じゃね?
むしろ無理で当たり前だろうとわたしは思っている。
それくらい、歴史に残るような凄まじいライブだったもの。



少し時を遡ってみる。
アルバム『D-DAY』発売前のこと。
ユンギさんはIUさんのYouTubeコンテンツ〝IU's Palette〟にゲスト出演された。
その際、IUさんがずばり端的に質問してくれた。
『Agust Dは、今回のアルバム〝D-DAY〟で終わるのか?』と。
さすがご自身も音楽を創る人であるIUさん、そこの部分にフォーカスして下さった。
D-DAY発表前に『Agust D三部作の終わりのアルバム』というキャッチフレーズ(?)を目にして以来、わたしもそれがずっと気になってたまらかった。
意味としては、たとえばバンタンにとっての〝花様年華期〟みたいなもので、Agust Dとして次のチャプターに向かうということだと思いたかった。
だけど、ユンギさんはIUさんのその問いに対し、『今のところ終わるつもりだ』と明確に答えた。



成り立ちから考えたら、そうあるべきなんだろう。
Agust Dは、とりまく世界への怒りを抱えた今よりだいぶ若き日のユンギさんが、SUGAという名前では表に出すことができなかった感情を吐き出すために生まれた。
それは、ユンギさんが精神的にも健全に生きていくためには絶対的に必要な、〝もう一人の自分〟だったのだろう。
そうして時が経っていろいろなことを経験し、立場の変わったユンギさんは、かつて自分の怒りの対象だったものたちを『許してしまった』と表現されていたことがある。
つまり、怒りを原動力にしたAgust Dという存在は、ある時点からのユンギさんにとっては、生きるために必要不可欠なものではなくなったのだ。
そうして彼はバンタンのSUGAとして、ミンユンギとして、純粋に好きな音を楽しめるようになっていったのかもしれない。



それはユンギペンを自認するわたしにとって、喜ぶべきことだったはずだ。
だけどとても厄介なことに、わたしは何よりもAgust Dとしてのユンギさんの感情を強烈に愛していた。
単純に音楽としてだけでなく、そこに籠められている魂、ひいてはもがきながらも美しい心を失わない創り手Agust Dというプラスαの要素までひっくるめて、本当に心から愛していた。
だから、それが過去のものとして収束していくことがどうにも切なくて、悲しくてならなかった。

結局わたしは、Agust Dには怒っていて欲しかったのだと思う。
もちろん、ずっとじゃなくていい。
怒りを抱くことは苦しくて、ある意味自分を内側から壊すような行為でもあるから。
彼の創る穏やかな幸せを感じさせる曲だって聴きたいし、気力を失って諦めたくなる心を受け止めて優しく流されるままになっているようなのだって聴きたい。
だけどやっぱり、中心には怒りを抱えてて欲しい…。
こんな言い方を許してもらえるのなら、ユンギさんにはずっとSUGAでありつつ、怒りをガソリンに突っ走るカッコいいスポーツカーみたいなミュージシャン・Agust Dを内包していて欲しかったのだ。



D-DAYツアーでのAgust Dは毎回、セットリストの最終曲『The Last』を歌い終えた瞬間、後ろも振り返らずに馴染みの大股・速足でステージを歩み去って行った。
それと同時に、あっけなく客電がつく。
だから観客は、身体に強い衝撃が残ったままの状態で、突如現実に放り出されることになる。
けれどもツアーファイナルの本当の最終日、会場がそのようにしてすぐに明るくなることはなかった。
胸をざわめかせ息を殺して待っていると、やがて画面に明るくなった会場が映し出され、そこに穏やかな顔をしたAgust Dの姿が見えた。
舞台奥にはAMYGDALAのMV内では開けることの出来なかったあの白いドアが現れ、Agust Dはそれを自分で開き、笑顔で手を振り、ドアを閉めてその向こうに消えた。


開けられないMVバージョン。
このドアを、ツアー最終日には出て行く😭





なにこの演出…。
Agust Dはここまでだと決め、D-DAYというアルバムを作り、ワールドツアーをすることになった時から、恐らくだけど最後のステージはこういう演出で締めくくろうと決めてたんでしょうね。
その思惑通りに、いかに諦めの悪すぎるわたしでも、ユンギさんにあんな顔でドアを開けて行かれたら、これは大団円なんだと認めざるを得なかったよ…。




わたしの個人的な願望なんて、言い換えれば煩悩ってやつで、煩悩などは無い方がいいものだと相場が決まっている(でなきゃ除夜の鐘などだれも撞きはしない)。
大好きなアーティストを消費するような形で愛でるのはわたしだって本望じゃないし、
彼の決めた、彼にとっての最善な道に沿って、並走するように見守り続けるファンでありたいんだ。
それなのに今も、頭では本当に1000%完全にそう思っているのに、びっくりするくらい心が全然追いつかない。
困った。
わたしの一番苦手な、頭と心がバラバラな状態になってしまった。




だけど、自分がそうなってみて初めて気付きもする。
この頭と心がバラバラに分離してしまった状態。
こんなしんどさを、誰であれ他者に強いるなんて、間違ってる。
尊敬するとか愛するとかって枕詞を付けて呼ぶ一方で、その相手が分離した自我に苦しみながら創るものを、もっともっと、なんなら永遠にだって与え欲しいと求め続けるなんて。
そう考えたら、心の底では全然消費する気満々だったんだな、わたし…。




…うん?
でもそもそも創作物って、作った人物と完全に一致してるってわけじゃないよね?
創作物は、あくまでそれを作った人の欠片だ。
わたしはユンギさんが差し出してくれる、Agust Dという欠片が欲しいだけ。
心に共鳴するその欠片を拾い集めたいと思うのは、受け手の楽しみの範疇として許されるのかな?
言っていいの?
いつかまたAgust Dの音楽を聴けることを、ずっと待ってるって。
いや拗らせ過ぎて訳わかんなくなってきた。
こんなことをつらつら考え続けてるから、ますますわたしは心の奥深くにどんどん潜って行く。
8月6日以降のわたしは、まるで深海魚だ。
激重ペン兼魚類にまでなってしまった。



そして。
ステージからドアの向こうに消えたその翌日、ユンギさんはバンタンメンバーが国威宣揚に貢献したとして受けていた入隊延期措置を、中止してもらう申請をした。
8月7日、weverse(ファンサイト)からそういう通知が来た。
演者一同とファンみんなのアフターパーティーだと表現されていた、ピリオドのようなその最後のライブが終わるまで待って、終わった瞬間、まるで最速で行って最速で戻ってくるための方策を取ったみたいに思える。
いかにも仕事人間のユンギさんらしい気がして、少し笑った。
それから深海魚のわたしは、本格的に深いところまで潜った。
なんも見たくない。
どんな光も感じたくない。



今日現在もとりあえず全然ポジティブな感じにはなれてないし、しょーがないから気が済むまで当分は深海魚でいようと思っている。
SNSも見てない。
公式コンテンツ諸々も見ない。
光の明るさを感じることに耐えられないから、今は闇のままでいい。
だけどわたしは五十路で、長い年月それなりにいろんなことを受け入れて生きてきたのだから、いずれ遠からず自分がこの感情を消化できるようになることは分かっている。
ここまで拗れた感じになるのは予想外だったけれど、いずれはきっとすべてなんとかなると感じている。
Agust Dがライブの最後に残した言葉は
〝Future's  gonna  be  okay〟。
恐らく言霊を信じているのであろう彼は、見通しのきかない未来をそう表現することで、本当に大丈夫な未来を約束しようとしてくれたのだと思う。
ならばわたしも彼に言いたい。
〝저도 그렇게 믿고 있어요.〟





大丈夫な未来のユンギさんがくれる欠片は、どんな色をしているんだろうか?
それを期待しながら、深海魚はその日を待つ。
そして再会の時には魚類じゃなく、今よりカッコいい人間になっていたいなぁ。



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