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2024年3月9日🎂

3月9日、今年もわたしはアミ友でもある幼なじみと出かけた。
昼前から二人であちこちまわって、最後はやっぱり新大久保へ。


あたりをつけていたセンイルカフェと、シュチタのセットを模した撮影スポットを訪れた。
そのどちらにも、えらい行列ができていた。
行列だけを眺めて、静かに退却した。
そうして、街頭ビジョンの映像を人垣の中で観た。


とても強い北風の吹く寒い日だった。
せっかく行ったのに、ただたくさんの人を見ただけだった。
それでもわたしは満足だった。


グッズを買うわけでもないわたしが吸い寄せられるようにあの街に行ってしまうのは、結局直接この目で確かめたいからなんだと思う。
寒さをものともせずに、その空間をめざして集まる人=同志がこんなにもいるということを。


もちろん、ユンギさんのファンが世界中のあらゆる場所にとんでもないスケールの規模でいることは、ちゃんと理解はしている。
だけどこの3月9日に限っては、わたしは世界のどこかじゃなく、ネット上のどこかでもなく、実際にいる同じように彼を愛おしむ人の、生の姿が見たくなってしまうみたい。
自分の目で数えることのできる人数の列、なんなら最後尾につくことだって自分次第でできるっていう列を、この目で見たくなってしまう。



今年の3月9日、〝バンタンのSUGAさん〟は、世界のどこにもいなかった。
この時間に存在してるのは、私人である〝ミンユンギさん〟だけ。
わたしたちアミが愛してやまないバンタンメンバーたちは今、一人残らず別の仕事に就かれているから。


彼らはそんな不在期間のために、考えられないほどのたくさんのものを用意していってくれた。
不在とは思えない頻度で作品の贈り物やメッセージが次々と届けられて、受け取るたびにありがたく繰り返し味わっている。
思ったよりも情報を追うのだって忙しくて、覚悟してた状況とわりと違うなーと、嬉しい誤算に贅沢にも悲鳴をあげたりもしている。
だけども…それとはまた別の部分で、到底満たされることのない穴を抱えてしまっているのも事実。



いろんな考え方・向き合い方があると思うけど、わたしは私人である人の実生活の細かな事情については、向こう様がこちら側との共有を望まない限り、逐一知りたいとは考えていない。
単純に、知りたいことがそういうジャンルにはないからだけど。
それに、一旦こっちの世界に顔を出すなり何か発信したりすることで、心の軸がブレてしまって、ユンギさんが余計に現実をつらく感じてしまったりする可能性だって無いとは言えないんじゃないか…?なんてことも、老婆心でもって考えてしまうし。
だから、音沙汰はない方がいっそ安心だし、そういった意味では便りのない状態っていうのを我慢することくらい、本当にお安いご用なのだ。


お安いご用で我慢してるつもりだけど…だからって寂しくないってわけじゃない。
だって、寂しくないわけがないだろう?
アミとなって生まれて初めて『アーティストからあの手この手でさんざん甘やかされる』という蜜の味を知った五十路は、自慢じゃないがとても欲ばりでわがままな心を持つようになってしまった。
新譜が出てメディアに姿を現すまで、そのミュージシャンが無事生きてるかどうかすら知る術もなかった時代に育ってきた世代のくせに、だ。
いやー、本当に人は強くなるにはえらい時間と努力が必要なのに、やわやわになってしまうのはほんの一瞬だな…。


正直いって今のわたしの心の中は、なんだか利己的な寂しさでいっぱい。
利己的で、正体のつかめない寂しさ。
なんとかその寂しさの正体のしっぽでもつかもうと突き詰めて考えてみると、やっぱりそれは「ユンギさんの作る新しい楽曲を聴くことが当分できない」ってことに思い当たる。
それを聴ける日の目処がつかないってことは、年齢のいったわたしにはすごくしんどい。
したくてもできない状況にユンギさんがいるってことも、重々わかっているのに。
そのジレンマまみれの利己的な寂しさを、彼の姿を同じように追い求め続けている人々の姿を実際に目にすることで、少しでも埋めたかったのかもしれない。



そんな実際の形としては何ひとつ得たわけでもない3月9日を過ごして、それでもなにか少し励まされたような気持ちになって。
寂しさに丸まった背筋がちょっとだけ伸びるような気がして、改めて思った。
誰もがそうであるように、わたしにも多分、わたし個人で完結しないといけないことがある。
なんていうか、自分のことは自給自足で自分で埋めていかないといけないんだった。
来年の3月も今と状況は同じわけで、その時に今年とまったく同じ気持ちているのはいやだなと思うのだ。
子供たちが成人となった今、わたし個人としての新しい生き方を考えたいという決意が強まった。



好きなアーティストのセンイルきっかけで自分の人生に思いを馳せるって、だいぶアレですわな?
五十路なのにまだ先が靄に包まれてるみたいで、だからこそ理由のない夢とか希望を抱いてしまうんだな。
そういう自分が楽観的すぎるというか、お花畑が過ぎるという自覚はある。
でもこれが今のリアルなわたしなんだろう。
悲観したところで、しょーもないし。
フワフワしながら、わたしのKingの次のセンイルまで、また1年生きていこう。












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