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愛が足りない

こんにちは。おつかれ気味というか、エラー多発ぎみマリエです。生きてるだけで精一杯。今日も生きててよかった。あわよくば明日も生きていたい。(年の瀬です)

なんていうか、愛が足りない

愛が足りないわよ、アンタ。愛が足りない、もしくは、自己愛が強い。

己を愛する = 周りを愛する
でございませぬか。

何かを批判したいわけじゃない、でも、愛が足りないと言いたくて堪らない。愛ってタダだし、いつからでも、どこからでも使えるのに、なぜ使わないんだい?仕事も、プライベートも、全部愛だよね!?!?!?

いろいろ言いたいことがあるけど、個人が特定されそうなので控える。愛のある仕事がしたいと、私はいつも思う。愛のある仕事が大好きだ。

もらわないと、あげられない

愛が足りない人は、愛を受け取ったことがないからか?とも思うが、たぶん一理はあっても、すべてじゃない。たぶん、「愛を受けとれてない」だけな気がする。

愛って、「受け取り力」も影響すると思う。

たとえば、雨が降ったら
「ちっ、雨降りやがって、クソが」
と思うのと
「大地のお恵み雨さまあぁぁぁぁあ!!!」

と思うのとでは、愛の受け取り方がちがう。愛の受け取りのプロは、愛のないところからすら愛を生み出す。愛は生み出したもん勝ちだ。

この世界は勘違いがすべて

こんなこと言うと、勘違いした人が大暴走しちゃいそうなんだけど。まじで、他人に迷惑かけない限りは、法に反しない限りは、「勘違いは有効」だ。

実際はどうかはさておき
「私はかわいい」と思ってるのと
「私はブサイクだ」と思ってるのとでは
圧倒的に人生に差が出ると思う。

万が一これが誤解を生み、
「私はかわいいおまえはブス」
みたいな比較とかマウントにつながるとカス理論になるのだけど、『ただ自分が思っている』限りにおいては大変健全な精神を与えてくれる。

相手を信じることも愛

なんていうか、この世に悪い人はたくさんいるんだけど、その悪い人は自分なりの正義で生きてると私は思ってる。

「こいつ何考えてんだクソだな^_^」
などと、思う人ですら、その人にはその人なりの理屈や背景があったりする。

その背景を知ると、「クソかよ」と思ってた自分が恥ずかしくなることもある。
よく知らない相手を批判するまえに、まず「信じる」という前提に立って向き合いたい。

でも、簡単に騙されないで

ここも難しいところなんだけど、前提条件として「相手を信じる」とすると、ネットワークビジネスとか怪しい情報商材とか、簡単に騙されてしまいそうである。

この瀬戸際がむずかしい。どうしたら、伝わるんだろう。

慎重に伝えるとすれば
「相手のことを信じても、自分を変える必要はない」
だろうか。
(これでも伝わり切らないと思うけど…)

たとえば
「このサプリメントいいよ!おすすめだよ!買いなよ!」
と言われても

「あなたはそのサプリメントを気に入ってるんだね。とてもいいサプリなんだね。参考にするね。」

と、相手を受け入れつつも自分の行動をそこで変える必要はない。

自分がまた必要と思ったときに買えばいいし、そのサプリメントがいいかどうかは個人差があると思うので、自分の体質に近しい人からも情報収集したほうが理に適ってる。

こんな感じで、相手のことを受け入れつつも、自分の心情や行動は変容する必要がない。ここあたりを、もっと整理して伝えてゆきたいな。

みなさま、よいお年を

「よいお年を」という挨拶は、「新年を迎えること」が前提にある。「あたりまえに新年を迎えますけど、よいお年をお迎えくださいませね」ということだが、本当に新年を無事迎えられるかは、そのときまでわからない。

だから、「よいお年を」というたびに、「迎えられるようにお互い生き延びましょう!」と付け足してしまう。また来年も、お互い会えますように。

本年もありがとうございました。

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