疑心暗鬼うまれ、疑心暗鬼そだち、その名もマリエ
大好きな脳の放出タイムでございます。
よろしくお願いします。
(相馬菓子舗の小倉バターサンドは神です)
ちょっと余談
自分でいうが、わたしが運営しているSchuzlmithernic Lifeというお店は、素敵なお客さまが多すぎる。一人ひとり紹介して周りたいくらい、みんな爆裂にやさしくて面白くてハッピーだ。なんなんだ。目の錯覚か?わからない。素敵なお客様には素敵なおともだちがつながっているから、紹介でいらしたお客様もそれまた素敵だ。素敵の連鎖だ。これは革命かもしれない。素敵が素敵を呼ぶ。素敵革命。わたしの勘違いかもしれなくても、それもまた素敵です。
おれの名前は疑心暗鬼
そう、歩く疑心暗鬼(ぎしんあんき)ことマリエ。毎日が疑心暗鬼の繰り返しである。
わたしは疑心暗鬼がすごく好きだ。「~かもしれない」の要素が残っていることが大好きだ。たとえば、わが家の3歳がきいろい物をみて「ミドリだ!」という。
一般的な大人なら「それはきいろだよ」と教えるだろうか。わたしは、わたしに見えている黄色が本当に黄色かわからない。疑心暗鬼タイムが生じる。自分の感覚や価値観がすべて正しいとは思えない。だから「そうか、あれはミドリかもしれないのか!」となる。1+1=2だって、条件を変えれば2じゃなくなることはいくらでもある。自分が知っているルールだけで現象をとらえたくない。
疑心暗鬼な仕事がしたい
「精一杯やりきったね~!」「大成功だね~!」
そんな風に言える仕事は、とてもやりがいがあるかもしれない。
でも、マリエはそんなポジティブな言葉では物足りなくなることがある。
「本当に大成功か?」「もっとよくできたんじゃないか?」
そこを考えることが何倍もたのしい。
今に満足したくないである。
仕事で失敗が起きても、
「今回はしょうがないね」「やれることはやったよね」
と慰め合う関係は、個人的にはつまらない。失敗とちゃんと向き合って、なぜ起きたのか?どうやったら次よくなるか?を話し合いたい。傷のなめ合いはいらないの。(ぴえん
大体の人は、何も言わずに去る
わたしたちは、日々あらゆる人とやりとりをし、当りまえにコミュニケーションをとるが(引きこもりを除く)、自分にとってネガティブなことほど、誰も指摘してくれない。モチのロン、わたしだって変に指摘して関係をこじらせるよりも、それとなく見過ごして波風立てないほうが楽だと思っている。
だから、自分に喝を入れてくれる人はほぼ自分しかいない。もし、周りに恵まれて厳しく向き合ってくれる人がいるなら、その人は絶対に大切にしたほうがいい。大体の人は、何も言わずに去っていく。
そこで、疑心暗鬼は非常に有用である。己が己に問い続けるからだ。
浮かれるな、足元を見ろ
わたし曰く、人間には以下3つの傾向のある人が多い気がする
自分は「ふつう」だと思っている
でも「特別な何か」をもっている気がしている
他者に自分を否定されるのが怖い
ちょっとわかりにくいかもしれないが、たとえば
「普通に考えればわかるよね?」と他人に対して思う、とか
「私を凡人といっしょにしないでよ・・」と思う、とか
「役立たずに思われたら自分の価値下がっちゃうな・・」と思う、とか
でもこれが
自分は「ふつうじゃない」と思う
自分は凡人だと認める
他者の否定に自分の存在が左右されない
ようになると、自分の成長がエンドレスになってどんどん進化し続けられると思う。もう腹割って「異端児かつ凡人のろくでもない私のくせに、がんばってるな」くらいの自己認識がちょうどいいような気がする。(しらんけど
だめだ、文字を書いていたら楽しくなってしまった。まったく目的のない駄文である。もしお読みいただいた方がいらっしゃいましたらありがとうございました。もし「ちゃうやろ!」みたいなご意見ありましたらどしどしお聞かせください。いつもありがとうございます。ごきげんよう。
サポートいただきましたら、私も誰かをサポートしエンドレスサポートトゥゲザーします。