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ザツダンです。

字が書きたい、字が書きたい、と毎日思っているのに、気付いたら寝ていて、気付いたら朝である。おはようございます、1日10h寝がちな大五郎です。
今回はZATSUDANです。どんな文字が散乱するか、まったく予想がつきません。

恋がしたいと思ってたのに、口に出したらその想いは消える

春のうららかな気候のおかげか、このところ「恋がしたいぜぇ~!」と思っていたのに、先日友人に「恋がしたい」と話していたら、話しただけで気持ちがスッキリしたのか恋がしたい気持ちが昇華してしまった。クソ。話さなきゃよかった。(おい

感情は鮮度だな、と思う。怒りたいときに怒らないと、その気持ちはどっかいってしまうし、喜びたいときに喜ばないと、その気持ちはなかったことになってしまう。恋をしたいときに恋しないと、その気持ちはみごとに去りゆく。鉄は熱いうちにサムシングだわ、ほんと。

私たちは、どれだけ鮮度のよい状態で感情を噛みしめられるかが大事な気がする。感情を気分のままに出すのはアレだけど、感情を抑圧すると自分のなかに残った感情のわだかまりが忘れたころに疼きだして悪さしちゃったり。
感情を、ただぶちまけるではなく、抑え込むではなく、「よちよち」と抱きしめてあげるのがよさそう。何の話?

ひ弱な自分に疲弊

比較的、これまでの人生をガッツで生きてきた自負があるのだが、最近の大五郎はひ弱ですぐ疲れる。ほんのちょっと家のことでワタワタしただけで、華麗にヘルペスはできるし、なぞに喘息?まで発症している。弱すぎる。ちょっと働いたらすぐ疲れる。慢性的な病に冒されていますか?
と思っていたら、まわりに喘息症状の出てる人が多そうな気配。十和田、何か飛んでます?

青森にきてから、長らく皮膚炎ともつき合っているし、万全の健康体というのがこの先こないんじゃないかと老い先憂う。健康以上の財産はない。もう少し健康と上手につきあいたいでーしゅ。

でも、そりゃあしょうがないよね

このあいだ、初めてミキティのYoutubeを観たのだけど、この動画をみると親の精神がどれだけ忙しいかがよくわかる。「そこまで考えるの?」と驚く人もいるかもしれないが、子どもが生まれてその生命を預かる役目としては、これだけ精神が忙しくなっちゃってしょうがないのである。

そう思うと、わいが疲弊しても「そりゃそうや」と言いたくなる。生きてるだけで精一杯。よくやってる、と言ってあげたいけど、自分のなかにはまだまだやりたいことがわんさかあるのに、追い付いてない現状がフラストレーション。つねに、老い先憂う私たちは、残りの人生を「どう生きたいか」考えながら、優先順位をつけて動きたい所存。
いまは、おちびとの楽しい暮らしを最優先しながら、生活を守りながら、アイデアを実現していく流れとなっております。何卒宜しく勝海舟お願いしましゅ

私が怒る理由

先日書いたnoteのなかで、私は子どもに対して「ちゃんと怒る」ことを大事にしていると書いたが、その理由がイマイチ紐解けてなかった。

そこで思い出したのが、自分とお父ちゃんとの会話だった。私は幼いころに両親が離婚して母と暮らしていたが、高校生のとき久しぶりにお父ちゃんに会うというイベントが発生した。

遠方に住むオトンのところに、一人で新幹線にのって会いにいく。私は小さなころお父ちゃんが大好きだったが、10代の思春期真っただ中で、久しぶりに会う父には冷たい対応をしたと思う。

そのときの会話で、進路について考えている現状を話したところ、オトンは
「大五郎は勉強なんかせんでええねん」
「毎日カラオケして、遊んどったらええねん」

的な発言をした。

オトンからしたら、無理に勉強なんかせず、自由にのびのび暮らしたらいいんだよということを言いたかったのかもしれないが、大五郎からすると「はぁ?」の一言である。

「どんだけ無責任やねん、コイツ」
「親として、ほんま子どものこと考えてへんな」

当時16~17歳の大五郎はこう思った。

これが怒る怒らないの話に直結するわけではないけど、私が思うのはこのスタンス。この世界には、「怒らない」タイプの親御さんもいるだろうし、子どもに寄り添って、子どものことをまるっと受け入れてあげる人もいる。
でも、それって、逆に自分がされたらどう思うんだろう?居心地がいいのかな。

ある程度成人して、分別がついて、自分で自分のことを考えられるようになったら、「ありのままでいいよ」と全肯定されるのがうれしいのかもしれない。あとは、未就学児でまずはたっぷり愛情を浴びる段階とか。ごはん食べるだけでエライ!うんちするだけで天才!だもの。

ただ、本人たちの自我が芽生えて、自分の人生を考えていくタイミングで、周りに怒ってくれる存在がいないのは、とても心が乏しいような気がする。

「怒る」というのは、「こっちは真剣に向き合ってるんだよ」という姿勢を表す要素もあると思う。
(もちろん感情をぶちまけたり、理不尽を与えるような感情的な「怒る」のことではありませんので悪しからず!!!)

そして、なぜ「怒る」という手法をとるかというと、「自分には敵わない相手がいる」という序列?を習得するためのような気もする。私たちは社会的な生き物だから、自分がお殿様の御殿に住むのではなく、誰かしらのボスがいる世界でヒエラルキーをうっすら感じながら生きるほうが社会性は身につくと思う。

だけど、逆に「社会性は身につけたくない」「あるがままの野生を大事にしたい」とかでしたら、寄り添い型の対応が望ましいのかもしれない。うまく説明になってるんだろうか。まだまだ考察中である。

みなさん、ありがとうございます。

おひつじ座の大五郎、先日誕生日を迎えました。お友だちご家族にお祝いしていただいたり、お母ちゃんからケーキが届いたり、本当にありがとうございます。
あたくし、お誕生日をお祝いされているのに慣れていなくて、いつも誕生日をお祝いしてもらえないコンプレックスがあって、あまり公にしてなかったのだけど、この度はちゃんとお祝いをしてもらってとてもうれしかったです。
いつまでも、永遠の59歳。どうぞ宜しくお願いいたします。



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