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Transparent

 自分が映る水面を眺めていた。揺れてはひろがり分かれる、薄く遠ざかるほどに透明に混ざっていく。一体どれが私なのだろうか。
 透明になりたいと思った。いつだろうか、わからないけれど。とにかく誰にも見えることなく、ふれられず、ふれることもなく。私という価値は世界の比重にそぐわず、私自身も世界に重きを置かず。流れることや、移ろうことに干渉なんてしない。 
 私は透明になりたい。
 透き通った水に指先が触れると、体温が水に奪われていく感覚が気持ちよかった。ゆっくりと頭の先から私のすべてがこの冷たさに溶けていけばいいと思った。このままずっと触れ続けたら、それも叶うのだろうか。そう思ったら涙が頬をつたった。生ぬるい涙は頬の輪郭をスタートレイルのように、あらわにした。やがて、涙は体から離れると水面に混ざり滲んでいった。
 一滴また一滴と涙が私から旅立っていく、それを引き留めることができずに私は取り残されていく。涙がひとしきり出切ると、私は色の出なくなった即席のティーパックのようだった。
私はすぐにでも透明になりたかった。
すっかりと冷たくなった指を引き、靴を脱ぐ。靴下を靴に押し付け水の中に素足を入れると私を中心に波が立った。スカートが水にぬれないよう服を指に絡めて歩く。柔らかな水の抵抗が足の先に伝わる。
私を透過して、歩んだ轍を透過して、そのままなかったことにして。そう願いながら歩く。
唐突に背中から柔らかな風が吹き、なんともなしに振り返る。水面は揺れながら少し離れた岸壁を揺らした。私の靴はまだそこにある。しばらく眺めて歩き出そうとしたとき私はあることに気が付いた。足の感覚がない。
足元見てみると、波が立たない。どんなに動かしてみても、一切立たなかった。凹凸を失った水面に私も映ることはなかった。
私は透明になった。
何にも捕らえられない、そして干渉もしない。完璧な透明に私はなった。それは、眠りと覚醒の間であり、自分と他人の狭間でもあり、朝日と夕日の中間でもあった。水に溶けて世界を包み込むこともできる。風に乗って世界をめぐることもできる。雨となり世界を潤すこともできる。そんな透明に私はなった。
 それなのに満たされないこの気持ちは何だ。煮え切らないこの思いは何なのか。私にはわからない。体は透明になったのに、心は前よりずっと濃くなっていく。
私は透明になって何がしたかったのか。なぜ透明に焦がれていたのか。そんなことを考える。空洞に音が反響するように、心臓の鼓動が聞こえ、次第に大きくなる鼓動に身が震える。一体私は何がしたい。

 重心を傾け、ゆっくりと歩き出す。元居た岸を目指して、進む。
波は立たないし、音もない。それでも岸壁に足をのせる。足をハンカチで拭い、靴下と靴を履く。そのまま振り返ることなく、進む。丘の先に太陽が顔をのぞかせ、私は目を細くした。


私を透過して

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