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可哀想な子どもは、可哀想なまま大人になる

可哀想な子ども、ってなんだよ、って話からなんですけど。
ここで自分が話したい「可哀想な子ども」っていうのは、「自分の事を可哀想な子どもだ」と思っている人の事を言う。
例えば周りから見て可哀想、と思われている子が、必ずしも可哀想だとは限らないからだ。

そして「かつて自分は可哀想な子どもだった」
と思っている大人も、ここに含めたい。
自分自身がそう思っている人は、紛れもなく、確実に、明確に、すべからく「可哀想な子ども」である。

「ベイビーブローカー」にはそういう人が出てくる。

「可哀想(と、自分自身が思っている)な子ども」は、大人になっても可哀想なままだ。
どこかでそれを解消しないと、いつまでも可哀想なままなのだ。

「ああ、自分は可哀想だなぁ」と思う理由は人それぞれで、そう思う人というのは、その理由が解消したとしてもまた新たな理由を見つけて、自分の事を可哀想がる。

可哀想なのは許せないからだ。
自分を赤ちゃんポストに入れて、「必ず迎えに行くからね」と書いた紙を入れたまま、迎えになんか来ない。そんな母親を、許せない人はもうずっと許せないままだ。
どうして、なぜ、問いたい相手に問うことも出来ない。
考えても真実は分からない。
自分はなぜ愛されないのか。
親からの愛は、全ての子どもがもらって当然なのに、なぜ?
そこにどんな理由があったら、そんなことが起こるのか。

許したい人を許せない。
許したいのに、その対象に会えない。
それはとてもつらいことだ。

子どもを捨てる母親。
子どもを持たない選択をする女。
父親を上手くやれない父親。
家族が欲しい子ども。
自分を捨てた母親を待ち続ける男。

それぞれ全員自分勝手でわがままで、でも優しい。
自分以外の人間に興味を持って、自分以外の人間のことを知ろうとする。なんとかわかろうとする。こころのわだかまりを取り去ることが出来たら、きっともっと生きやすくなる。

どこかでそれをやらないといけない。
長い人生のどこかで、それに向き合わないといけない。
逃げてもいい、でも、逃げ続けることは出来ない。

それぞれが、自分と向き合う物語。

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