LAMBの感想を書くまで七日間かかったよね
物語は吹雪の雪山から始まる。
ゴーーーーフゴーーーーフっていう、不穏な音と視界もままならない雪山を「何か」がゆっくり移動している。
馬の群れが、近づいてきた「何か」に気づいてあからさまに怖気付く。
「何か」は馬には何もしない。
それは山を下り、羊飼いの住む場所へ着く。
ラジオからはクリスマスソングが流れている。
「何か」が羊小屋へ入ってきた時、羊たちは怯え、我先にと小屋の外へ出ようとするが出口が狭くてつっかえてしまう。あきらかにパニック状態。
そうこうしているうちに、奥の逃げ遅れた羊の一匹だろうか、苦しそうにヨロヨロと歩いて倒れる。息が荒い。腹が大きくなっている。
受胎したのだ。
羊飼いの夫婦は、朝食なのか夕食なのか、よく分からない食事をとっている。
夜も明るい地域(白夜)の映画は、時間の感覚を見定めるのが難しい。
食事の内容から、外は明るいけどディナーなんじゃないかな、と思ったが、新聞のようなものを広げているのを見て朝食かもしれないと思う。
「時間旅行が可能になるらしいよ」
夫が新聞を読みながらそんなことを言う。
「そうなの。過去にも行けるの?」
「まだ、実現可能には至っていない。理論上の話しさ」
そんなやりとりがあった。
何か過去にやり直したい出来事でもあるのかな、という印象を受ける。
羊飼いの仕事は羊を育て、売ることだ。
ラム、は子羊で、生後3ヶ月で出荷される。(成肉はマトン)
羊の出産のシーンがある。
生々しい。
BGMやセリフは極力少なく、淡々と羊飼いの日常が綴られる。
平和で、かわり映えのしない、おそらく何年もの間そうして淡々と日々過ごしてきたんだろう、と推測する。
そんなふたりにある日、事件が起きる。
いつものように産気づいた羊の出産を手伝っていると、その日、羊から羊ではない「何か」が産まれる。
夫婦はその「何か」を見て、驚きと動揺で顔を見合わす。
妻は冷静にそれを抱き抱え、夫は納屋からベビーベッドを運んできた。
なぜすぐそんなものが出てくるのか。
夫婦にはかつて子どもがいたのかもしれない、と視聴者が思うシーンだ。
「何か」をふたりで育てることにした羊飼いの夫婦。
産んだ母羊が、子どものいる部屋近くまでやってくる。メエメエと我が子を呼ぶ母羊が健気で可哀想になる。何度もそれが繰り返され、羊飼いの妻はとうとう母羊を撃ち殺す。
決意と非情さと残忍さが印象的なシーンだ。
それを偶然見てしまう夫の弟、ペートゥル。
ペートゥルが来てから、色々と違和感はあるもののなんとか日常を取り繕うとみんなで努力していたようにみえる。
夫婦は以前より生き生きとし、一見幸せな日々が過ぎていくようにも見えた。
一方、トラクターが謎に壊れたり、ペートゥルが兄の妻を脅したり、家の扉が閉め忘れられたり、「何か」が家を監視していたり、と不穏な雰囲気も続く。
そしてあのラストである。
因果応報、自業自得という感想も多く見かけたが、自分は何故かそうは感じなかった。
あのマリアの表情。
眼差しである。
夫が突然何者かに殺されたという状況に混乱はあれど、悲しみはそこまで深くはなく、まして後悔は全く無かったのではないだろうか。
状況を受けいれ、次にとるべき行動を模索しているように見えた。
諦観、という言葉がある。
もともとは仏教用語で、「あきらかにみる、つまびらかに見る」という意味がある。
調べると「ものごとの道理をわきまえることによって、自分の願望が達成されない理由が明らかになり、納得して断念する」とある。
最後のマリアの眼差しはまさに諦観のそれである。
自身の罪もわかっている。
愛する子を失い、愛する夫を失い、そしてまた授かった羊子を失った。
広大な土地にたった一人、自分一人っきりになってしまった。
その事実を受けいれ、原因をあきらかに見て、納得はしている。
自分の願望が達成されず、断念しているようにも見えるが、それは「手段」を諦めただけで「目的」までは諦めていないように見える。
前向きで強い姿勢を見た、ように自分は感じた。
丘の上に立ち、風の音を聴き、天を仰ぐ彼女の眼差しの先には何が見えているのか。
それは映画では語られなかった。
何を語り、何を語らないか。
何を見せ、何を見せないか。
そこに、この映画の面白みがあったように思う。