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斉藤三平さんに関するMemorandum.

上磯町歴史散歩/上磯町地方研究会編<改訂版>より

特別寄稿 渡来の鉄山師斉藤三平 会田金吾

はじめに

 本稿は三平が蝦夷地で果たして製鉄したか、どうかを文献や、函館市鉄山町で採集した鉱滓などから、考察を加えたものである。

 最近、北海道の製鉄調査のため来道する人たちが増えている。東北大学選鉱製錬研究所、日本鋼管、また三平の血を引くという岩手県の郷土史家の佐々木晃氏などである。

 三平は南部の鉄山師(製鉄業者)の家に生まれ、のち盛岡藩の士籍で国産掛を勤めたこともある。

 安政四年(一八五七年)四月、江戸で函館奉行のお雇いとなり、函館銭座解説に伴う計画等に参画した。また、米人オーエンドという者を雇い蝦夷地開拓を計画し、同六年(一八五九年)一月渡来し、しばらく函館の船魂明神社付近に間借りをした。渡来月日や間借りのことは、北海道新聞(以下道新)紙上に発表され、初めて明らかにされた。

 三平は前々から、病気がちであったため渡来後も常に塩田順庵の治療を、また函館奉行に願い出て露医の診察を受けている。

 茂辺地村の一の渡には、越後、秋田の農夫を入植させ、開墾を手掛け、また諸開発事業を計画し、実行もした。この間、中島郷(現・七飯町大中山の一部)の開拓指導者・関定吉とも会い開拓話などをしている。

 定吉は越後生まれで、渡来し、木古内の開拓に当たり、安政六年(一八五九年)、開拓担当幕史(ママ)中島辰三郎に招かれ中島郷に来た。

 三平は惜しくも文久元年(一八六一年)五月、一の渡で病死した。

 (一) 三平の蝦夷地資料

  本州での三平の製鉄事績は、最近、東北大学の岡田広吉教授、佐々木晃氏によって会誌「ときわ路」などに発表され、次第に明らかにされている。

  一方、北海道の従来の資料と言えば、道立図書館にある「斉藤三平小伝」くらいなもので、その一説は「・・・三平函館にいたり鉄山を管し、茂辺地村及び三谷村を開墾し、大いに馬鈴薯を作り・・・焼酎を製し・・・瓦を焼く等計画する所多し。文久元年五月六日茂辺地に病死す。日記四巻あり」で、その鉱山関係を語る記事は僅か五行にすぎない。直筆日記四巻は、いつ、どこへいったのか全く不明だという。

  鉄山町地元の伝説は、某山師が製鉄したらしいというのみで、地名鉄山と鉄の関係は深い謎に包まれていたのである。

  鉄山の地名は、明治初期ころまで非公式には鉄山、その後「野広場」と呼び、近来、公式に「鉄山」・「鉄山町」と移り変わった。

  地名鉄山だから、多分鉄鉱床があるだろうと思うかもしれないが、実はその存在は確認されていない。

  以上のような資料不足の状態であったが、五十七年五月十四日の道新の発表(金田忠雄編集委員執筆)により三平にようやく日が差してきた。今道立図書館の河野常吉文庫に収められていると三平日記写本を取り寄せてみたところ、その鉱山関係分は、

①二十二日(安政六年三月)金四十五両人足雇入用並鉱山手当として嘉兵衛へ相渡。

②八月二十三日、金八郎着に付鉄山模様承、至極宜、二枚吹三百四貫、三百八十貫出、大風雨にて炭釜不残落、八筒残、新釜九月十五日迄に揃九月二十日より吹談旨申出、此度鉄四百貫積来。

訳より抜粋

三平の息子の金八郎が箱館に着いた。鉄山の様子を聞くに、非常に具合がよい。二つの炉で吹いたが、一つは三百四貫、もうひとつは三百八十貫目が出た(注 重量から製銑と推測)大風雨で炭焼き釜は崩れたが、残ったのは八つ。新釜は九月十五日までに揃えて二十日より吹きますから承知願いたい。このたび銑(鋳物鉄)四百貫目を積んできた(注 大量の鉄を一度に運ぶのには船が一番便利。野広場から交通路のあった石崎「港」から積出した、と推測)。

③十一月十二日、小林森之助来、鉄山見込申聞ル(ママ)。

④二十二日、小林森之助来、茅部郡鉄山場所の儀申談、同意に付早春取方。

⑤安政七年三月五日、栗原来、高炉吹方の儀申談の処、三田への内話可致申。(万延改元は三月十八日)

⑥二十日カビ(蛾眉野か)鉄山より飛脚来云々。

  以上の意味と解するが、三平渡来とともに金八郎や、タタラ大工の梅吉などの配下が来ている。(同大工名は南部地方の技術長。出雲地方では村下「むらげ」と呼ぶ。)

 余談だが、万延元年(一八六〇年)の春、鉄山の畜産計画として牛三十頭を放牧している。一頭一分二朱。鉄山牧場のはじまりか。貴重ゆえ載せた。

 (二)鉄山町付近の鉱床

  「工業技術院地質調査所」の報告によると、

紅葉山

 「紅葉山鉱山と称して黄鉄鉱、閃亜鉛鉱、・・山腹に沿って延長百米、幅二十~四十米の範囲に多くの良質な褐鉄鉱石の転石が認められ・・かつての貯鉱が見られる。・・鉄山停留所があるが、ここにみられる鉄鉱石の貯鉱は、金堀沢のものと思われ、現地の鉄鉱床は期待薄である。」

亀田鉱山

 「鱒川鉱山(下女岳鉱山)ともいい、黄鉄鉱、黄銅鉱、方鉛鉱、関亜鉛鉱と少量の金、銀を伴う。昭和二十四年の再開後、第四鉱体周縁部の硫化鉄鋼の採掘を行った。」

 右報告書から、二次的産物の砂鉄の賦存ヵ所が見当たらない(一時的産物の褐鉄鉱はある)。褐鉄鉱類は、主に高炉用であるが、タタラでは、そのまま用いるのは困難とされる。褐鉄鉱類から砂鉄を分離できるが、時間と相当な費用がかかる。


(三)発掘調査

 去る五十九年七月四日、友人堀三郎氏とともに、かねて案内を依頼しておいた鉄山町百六番地の菊池平太郎氏(明治四十三年生まれ。入植三代目)宅を訪れた。

 まず話を聞く。「祖父由蔵は、加賀の国から安政以前に渡来、上湯の川で馬に駄づけ、炭焼き、薪売り、また五稜郭工事のさい出稼ぎなどをし、生活をたてた。明治初年、鉄山に入植し落ちついたが父留次郎は、明治十三年(一八八〇年)ここで生まれた。

 祖父からの言い伝えによれば、昔、誰か判らぬが、砂鉄を石崎海岸から運び製鉄した。(道は今の鉄山橋脇から鶴野を経て石崎へ出る約八キロ。道は現在もある)。

 昔の鉄山と石崎村との関係は、湯川より石崎のほうが近いこと、道がよかったこと、などから交流は深かった。

 鉄山の山神社は、製鉄した頃の建立だろう。正面に彫刻してある立派な「やしろ」であったが、大正に亀尾の大山神社に合祀した。

 カナクソが出る所は、四ヵ所くらいであったが、何べんも整地しているので三ヶ所は殆どでない。一ヶ所はまず出るようだ。四ヵ所とは四十八番辺りに一ヶ所、百~百四十番地に三ヶ所ある。そういえば、いずれのヵ所にも傍に沢水が流れ、塞き止めれば池となる所だ。鉄山には諸鉱床もなければ、微粒砂鉄のある山も川もない。どうして、こういう所で製鉄したか、不思議でならない。炭焼きは石崎付近の鶴野あたりでも出きるものを・・・」と語る。

 案内で跡地へ。草木繁茂期とて発掘しやすい一ヶ所を選ぶ。あとの三ヶ所は歩きながら指差しで場所を聞く。三ヶ所のうちの一ヶ所は、鉱山の神でもある今の「山神社址」の碑の付近であるという。

 発掘場所は、図面とおりの百十二番地・岩井菊三郎氏の裏農地。勾配三十度ほどの斜面に、黒光するものが点在、掘ってみたら鉱滓であった。二十キロほどの大塊一つと、小塊三十片ほどを採集した。十分な量の資料ゆえ掘るのを止めた。

 炉跡らしい平地は、約五百平方米あるが、岩井氏の話だと「断続的に畠にしたので、地下に基礎の木炭層があったか、どうかは判らない」と。

 採集試料の鑑定を国立函館工業専門学校・富岡 由雄教授に依頼した。

 鑑定所見

  走査型電子顕微鏡で観察した結果は次の通り。

 一 試料には小さなピンホールが数多くあり、この内部には樹枝状晶や、析出結果が見られた。

 二 試料を破砕して化学分析した結果、本体部分は、別写真の様に主成分は、Fe(鉄)、Ti(チタン)、Si(珪素)であり、その他に少量のAl(アルミニウム)、Mg(マグネシウム)、K(カリウム)、Ca(カルシウム)、Mn(マンガン)が含まれている。

 三 ピンホール内の結晶生成物は、鉄ー珪素系の生成物である。

 以上の結果よりこの溶滓塊は

  (一)鉄滓であり

  (二)原料は砂鉄を用いた製鉄法の場合に生じたものと判断される。

 むすび

 一 三平の鉄山開発は、現鉄山町付近の鉱床をさぐり試掘したことが察知される。

 一 「三平日記」や発掘調査から、現鉄山町でタタラ吹きが行われた。吹き始めは、安政六年(一八五九年)の春。

 一 製鉄の原料は、発掘分の分析結果、二次的産物の砂鉄である。その砂鉄は、明治以前から交通路のあった石崎海岸のものと推測される。石崎の古い製鉄話は、享和元年(一八〇一年)、松前藩の一御用達が石崎村と、銭亀沢村で製鉄(浜砂鉄で)を試みた。だが採算割れで同年十一月中止した(「北海道総合経済史」鉱業ー南鉄歳著)。

 一 現鉄山町で製鉄業を興した背景には、左記がうかがわれる。

 一 函館奉行は幕閣に、蝦夷地の豊富な砂鉄をもって鋳砲したいという上申のもとに、尻岸内の古武井に高炉を造った。だが、安政六年(一八五七年)の時点、製鉄の目途がたたなかった。

 一 そのメンツと、鉄の需要度(兵器の増産と諸産業の進展などから)の急増から製鉄専門家・三平の渡来を機に製鉄を命じた。

 一 現にメンツからか、文久二年(一八六二年)、武田斐三郎の指導で、赤川村に高炉を造った。だが古武井とともに製鉄に失敗した。

 一 製鉄の場を「野広場」に定めた理由を考えるに、鉱床試掘と並行して製鉄したほうが一挙両得と考えた。その製鉄所は、試掘鉱山と余りかけ離れていない場所が望ましい。

一 具体的な場所は、平地の乾燥地帯、道路があること、引水に便なること、木炭三里、砂鉄七里の製鉄条件に合った土地、それが「野広場」であった、と推測される。(以下略) 


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