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自己紹介

はじめまして、山口一郎と申します。広島出身1976年生まれの2児の父です。パートでお弁当の包装の仕事をしながら、自宅にある小さな作業室で木工品を作りminneや近所の雑貨屋さんで販売させてもらっています。これから自分が歩んできた道のりを書いていきたいと思います。

少年時代

小さい頃は虫が好きで、虫がいたら幼稚園などで集合がかかってもずっと虫を見ている子でした。勉強はそこそこできましたがあまりに運動神経が悪く、小学校の担任の先生の勧めで小学3年生から剣道を習わされることになりました。結局高校2年生の終わりまで続け最終的に二段を取りましたが、今思えばやらされていた部分が大きくそんなに上達はしませんでした。ただ当初の目的である運動神経の改善には効果があり、人並みには運動ができるようにはなりました。当時これといった夢もなくただ漠然と将来はサラリーマンとして働くんだろうなと考えていました。

学生時代

僕が高校生の頃から環境問題が取り沙汰されるようになり、当時砂漠化した土地を緑化するという故遠山 正瑛先生の活動に関心があったので、乾燥研究センターのある鳥取大学農学部を受験しました。ただ、大学で元々砂漠であったところは緑化できないことや、温暖化の原因として森林の減少も大きな問題であることなどを学び、だんだんと森林や林業に興味が移っていきました。実習で森林内に入る機会も多く、その美しさに魅了され卒業するころには林業に関係した仕事に就きたいと考えるようになりました。

海外で活動

ただ、人生一度は世界を見ておきたいと思い、就職活動中に青年海外協力隊に植林の職種で応募して受かりました。メキシコの南にあるグァテマラに派遣され、現地のNGOの一員として村のコミュニティに苗木の生産方法を指導する活動をしました。

森林作業委員として働く

帰国後、鳥取県で森林作業員として林業に従事しました。チェーンソーや草刈機を手に森林の手入れをしていましたが、1年半で林木をお金にかえる手段を手に入れないと日本林業はダメだと考えるようになりました。そして木工を勉強してまた林業に戻って来て、間伐材などを使って家具を作ろうとその会社を辞めました。月12万くらいしか貰ってなかったですが、仕事はきついながらも趣があり今となってはいい思い出です。一緒に働いていた山師のお爺さんたちは、「日本林業の事より自分の事を考えろ。」とか「この会社に埋もれていくよりいい。」とか、「木工よりもっといい職があるんじゃないか。」とかいろいろな言葉で送り出してくれました。当時は結構痩せマッチョのいい体をしていました。

木工修行と挫折

鳥取から岐阜に移住し、飛騨高山の森林たくみ塾というところで、無垢の家具作りを2年間勉強しました。卒塾後森林組合への就職を目指しましたが上手くいきませんでした。結局当時付き合っていた彼女が地元大阪で就職を決めたので、僕も銀行のカウンターとかを作っている大阪の家具会社に就職しました。森林組合の面接官に「こんな人間もいるんだ。」と変に感心されたことが、森林組合には林業を真剣に考える人間はいないように思えてショックでしたし、日本林業の役に立ちたいという自分の夢も終わったなと思いながら大阪に行きました。ちなみに当時の彼女というのが今の妻です。

暗黒の30代


大阪での仕事は、やはり自分で夢を諦めきれていない部分もあったのか会社に馴染めず、2年半で仕事がそれなりに出来るようになってきたころ辞めました。シャッター付きガレージを借りて、木工機械を買い入れ一人で家具を作り始めましたが、そのころから精神的な面で体調を崩し、回復まで何年もかかりました。大阪の家具会社で覚えた技術は今とても役に立っていますが、大阪時代は個人的にほんとにつらかったです。大阪で子ども2人が生まれましたが、実家の父に広島に帰って来いと言われ、2人目が無事産まれると同時に広島に戻ってきました。

広島に戻って短期の森林の調査の仕事で働いた後、木製家具製造の会社に就職しましたが、まだ体調面で回復しきっていなかった事もあり仕事についていけずすぐに辞めてしまいました。もう自分の能力にも自信を持てなくなっていたので、今のお弁当屋のパートの仕事に応募しました。大阪に行ったのが30歳のころで、精神的にだいぶ回復してくる38歳くらいまで途切れながらも何とか働いてきましたが、言わば暗黒の30代って感じでした。同時にフラフラしていてあまりテキパキ働けない自分を我慢して使ってくれ、ここまで元気にしてくれた今のお弁当屋の仕事の同僚には本当に感謝しています。

再び夢に向かって

大阪でそろえた木工機械はそのまま近所のコンテナ倉庫に眠っていましたが、妻が自分でローンを組み家を建てる際に、木工の作業ができるスペースを作ってくれました。コンテナ倉庫から機械を運び入れ、体調が回復してくるにつれ木工作業をしている時間も増え、今に至ります。離婚の危機は何度もありましたし、しんどい時期にひどい言葉を浴びせられたこともありますが、実際に支えてきてくれたのは妻であり、子どものためにももっと仲良くできればと思っています。

妻のおかげで、スギ、ヒノキなどの針葉樹の造林木を使って家具など作る夢がつながりました。(家具やクラフト類はケヤキやナラなどの広葉樹で作るのがメジャーで、その方が作品に味が出ます。僕も小さい作品には広葉樹も使います。)思えばあっという間に40代になってしまいましたが、健康に気をつけながらここからひと花咲かせたいと思っています。

かなり重たい感じになってしまいましたが、ここまで読んでくださってありがとうございまいた。自分の気持ちに正直に書かせてもらいました。しんどい思いをした分、困っている人の気持ちもよく分かるようになりましたし、これまでの経験を生かせられるように頑張っていきたいと思います。


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