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【劇場版ハイキュー!!ゴミ捨て場の決戦】 スポーツアニメのリアリズムを追求した至極の一作

 85分の尺の中で、一つの試合と、その背景にあるストーリーが錯綜する。「負けたら即ゲームオーバー」の次がない試合。「劇場版ハイキュー!!ゴミ捨て場の決戦」は一試合3セットの流れを重要視していた。本稿では烏野高校と音駒高校による春の高校バレー全国大会(通称:春高)で特に印象的だったカメラワークに注目したい。

 「ハイキュー!!」は古館春一により2012年から2020年まで『週刊少年ジャンプ』連載された。今回筆者が視聴した「劇場版ハイキュー!!ゴミ捨て場の決戦」はちょうど単行本の33巻から37巻にあたる烏野高校と音駒高校の試合をアニメ映画化したものである。

古館春一『ハイキュー!!』集英社、33巻から37巻

 本題に入る前に、この駄文はあくまで私が劇場版を見た勢いそのまま、ノリノリで書き殴った感想文であることを理解されたい。なにせこれを書いている現在、映画を見終わってたったの30分ほどしか経っていないのだ。

 今作では音駒高校2年生の正セッター、孤爪研磨に特にフォーカスされた。主人公、日向翔陽のライバルとして明確に位置付けられているからだろう。第3セットの試合終盤、研磨の一人称視点のワンカットは大迫力だった。観客がスクリーンから感じ取れるのは研磨の視界と息遣いと、シューズが床と擦れる音、人体同士がぶつかる鈍い音、仲間の掛け声、そしてほとんど聞こえない歓声。現実の試合中に選手が外界から感じ取る刺激をそっくりそのままスクリーンで表すならこうなるのだろうなと、あまりの迫力と衝撃に眩みながらぼんやり思った。まるで自分が春高の舞台に立っているかのように錯覚させられたのだ。その迫力をもたらしているのは、ボールを追おうとする研磨の細やかな視線の動き(すなわちカメラワーク)と彼の注目する周辺の動体(ボールや仲間や対戦相手)の生々しい描かれ方だろう。研磨が「負けたら即ゲームオーバー」の試合でセッターとして、そして主人公のライバルとして、何を見て、どう動こうとしているのかヒシヒシと伝わる効果的な表現だ。

 こうした一人称視点のワンカットのみならず、今作ではカメラワークにこだわりがみられた。特に強調したいのは鑑賞者の視線を置いてきぼりにして動体の速さを無視する、定点カメラのような(もしくはその場の観客の視界のような)引きのフィックス撮影(*1)だ。どういうことか。

 実際のバレーの試合を思い出してほしい。去年の12月に行われた世界バレー2023が記憶に新しいだろうか。私は当時テレビの前で観戦していたが、ボールとプレイヤーを定点カメラによって俯瞰できる立場にいながらそれらを完璧に目で追うことができなかった(ちなみに筆者は小学校の体育以外でバレーをやる機会がなかったため未経験も同然である)。高い打点から力強く打ち落とされる瞬間に時速100kmを超えるようなボールを簡単に捉えられる方が難しいだろう。大抵の球技の試合で直前のプレーがスロー再生されている時点で自明である。

 さて、このような試合をアニメでどう表現するか。現実の試合ではボールはコートに立つ選手たちの思うがまま、打たれ飛ばされ跳ね返される。ラリーが続く限り、そこには選手の身体以外にボールのスピードを変化させるものは存在しない。一方アニメでバレーを描くとき、ボールを含めた動体のスピードは制作側の意のままに変化させることができる。動体のスピードに緩急をつけて複数のカットにメリハリをつけたり、特定のシーンを印象付けたりする効果があるだろう。さらには一般人の目では追えない速さのボールや同時に動く複数人の動きを、スピードを落とすことで把握しやすくすることもできる。嘘のつけるアニメならではの表現方法だ。しかし今作では定点カメラのような(もしくは観客の視界のような)アングルから試合全体を俯瞰できるカットが多分に採用されていた。それは実際行われている試合を側から見るようなリアリティを持っていた。先述した鑑賞者の視線を置いてきぼりにして動体の速さを無視するカットとはまさにこのことだ。ここでは誰か特定の人物やボールをカメラが追いかけるわけではなく、試合全体が画角に収められ、注目の対象は鑑賞者に委ねられている。さあ何に注目するかはあなたの自由です、あなたが選んであなたなりの楽しみを見出しなさいと見放されたかのようである。ボールを見逃したのならそれまで。まさしく現実の試合観戦と同じ状況。選手だけでなく、鑑賞者である我々にとっても、試合に「もう一回」などないのだ。

古館春一『ハイキュー!!』集英社、33巻、2018年、p.147

 アニメにおけるリアリティについてはさまざまな議論があり、一口になぜリアリティのあるカットが必要になるのか、何を以てリアリティ(近年では「リアルなアニメ」という言葉もある)と言えるのかここで答えを出すことはできない(というかこれは感想文なので容赦してほしい)。しかし少なくとも言えるのはリアリティのあるカットは必要だから挿入されていた、ということだ。何度も繰り返すが、試合に「もう一回」はない。制作側の意図を完璧に読み取ることはできないが、今作で繰り返しでできたキーワード、

「負けたら即ゲームオーバーの試合」

「『もう一回』がない試合」

これらを鑑賞者が体験するには、現実感のあるスピードで試合を進ませることが、現実を生きる我々にとって一番易しいやり方だったのではないだろうか。

 しかしただの礼賛論に堕してしまっても面白味にかける。「もう一回」は確かに一回の劇場での鑑賞ではありえない。当たり前だが鑑賞者に映像を止めたりリプレイしたりする権限は与えられていない。何が起こっているのかわからない状況が続くというのは、見る人にとってはストーリーの途切れ、つまりはストレスになる。今作の場合は、あえてそうしたカットを組み込んでいるのだろう。しかし我々がどうこう言いようがない。我々ができることといえば、見逃しをもう一度見るために劇場に通うしかないのだ。

 最後に、これは完全なる私情だが、どうしても「ハイキュー!!」で自分が満足できる何かを書きたかったという旨だけを、今更ながらの自己紹介がわりに記しておく(大抵の場合、後から読み返した自分の書き物に満足することはないし、今回の場合も満足できていない)。私は現在学部の4年生で、来年度からは大学院でマンガ研究をするつもりである。マンガ研究をしようと思ったきっかけは、学部の3年生になりたての頃(筆者は2021年から1年間イギリスに留学していたため、およそ3年前になる)、マンガ学会の存在を知り、この世に本気でマンガを研究する人がいるのかと素朴に驚いたことだ。当時私は、マンガ研究はマンガをたくさん読んでいればできると安易に考えていたアホだったので、好きなマンガでとりあえずレポートなり発表なりやってみるかという気持ちだった。そのときにとある授業の課題で取り上げたのが「ハイキュー!!」だった。当時はマンガ研究がなんたるかもよく分からず、主観と客観の区別もまともにできず、論理もへったくれもなく、自分の思ったまま自信満々に発表をしたものだ。大好きな作品を深くも考えずに、取るに足らない"考察"をしてしまったことが少々悔やまれていた。そこで何かもっとマシなものを書きたかったのだ(と言いつつも、ここで似たようなことをしてしまっているので大して成長していないのかもしれない。自覚があるだけマシなのか……)。

 じゃあマンガに関する何かを書けよ、というのは尤もである。今回初めての試験的な投稿なのにもかかわらず、大好きな「ハイキュー!!」の映画をみて興奮したノリのまま作品論にも批評にもなっていない何かを書き散らしてしまった。筆者は自分のサガを理解しているつもりなので、今後もこういう事態に陥ることは想像に容易い。できるだけ自分の研究対象であるマンガについても色々と投稿できるように努力したていきたい所存だ。

【サムネイル】
「劇場版ハイキュー!!ゴミ捨て場の決戦」(©2024「ハイキュー‼」製作委員会 ©古舘春一/集英社)の公式広告サムネイル

【参照】
「劇場版ハイキュー!!ゴミ捨て場の決戦」(©2024「ハイキュー‼」製作委員会 ©古舘春一/集英社)(視聴 2024/2/20)
古館春一『ハイキュー!!』集英社、33巻、2018年

(*1)基本的にはカメラを固定して撮影すること。本作はアニメなので被写体が撮影されているわけではないが、本稿ではカメラワークに注目したので、カメラが実際にあるような想定で論を進めた。

 


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