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12『リア王』

 法政大学の授業「創作表現論」で学生が書いた作品の中から秀作を紹介します。第12回のお題は『リア王』です。

「創作表現論」についてはこちらのページをご覧ください。

「ケルベロスと私について」 瀬川大貴

 朝、目を覚ますとまたケルベロスが喧嘩していた。私は慌てて仲裁に入る。すると彼女らは互いに顔を見合わせ、威嚇し合い、最終的にそっぽを向く。やはりケルベロスを飼うことは難しい。私の家で飼っているケルベロスの3つの頭の名前はルイーズ、ジョゼット、カミーユで、ルイーズの性格は臆病、ジョゼットの性格は好奇心旺盛、カミーユの性格はマイペースと言った具合にバラバラである。 彼女らの性格がバラバラなところも含めて私は愛しているが、もう少し性格が似ていたらなんて思う。しかしこの性格の不一致を矯正しようなんて思ってはいけない。
 昔、ケルベロスの性格矯正施設というものが存在した。性格矯正とは、ここでは性格の不一致を矯正するということを指す。どのように性格を矯正するのかというと、飼い主が性格の不一致なケルベロスを矯正するために施設に入れ、何らかの手段を講じて性格を矯正する。それでも性格が矯正されない場合には最後の手段として飼い主の同意を得た上で、3つの頭のうち2つの頭を切り落とし、1つだけを残すという方法がとられた。飼い主の同意が得られなかったケルベロスは最も平和な場合、飼い主の元に帰って行く、最悪の場合は研究施設に送られ実験体となるのであった。何故性格矯正をするのかというと、自分たちにとってはケルベロスの性格が矯正されることにより従順で飼いやすくなり、ケルベロスにとっても喧嘩が減り、あるいは自分の思い通りに行動することができるので幸福であると考えた。こういった概要は覚えているが、どのような手段であったか等は忘れてしまった。では性格を矯正したケルベロスはどうなったのか。性格を矯正したケルベロスが飼い主のもとに帰ってきた時、彼らはぐったりとしたまま動こうとしなかった。頭を切り落とされたケルベロス(このときケルベロスと呼んでいいのかは分からないが)も同じような現象が起きた。人間は予想外の出来事に弱い動物である。そこで人間は劣悪な環境で矯正しているのではないか、虐待をしているなど矯正施設に何らかの問題があるのではないかと疑いをかけた。しかし矯正施設に行政等が調査を行ったが、これといった問題は無かった。まぁ色々と調査はされたが、結局人間には理由が分からなかった。理由は分からなかったがとりあえずケルベロスの性格を矯正する等の行為は禁止となった。この歴史を知ったとき、私はおもわず爆笑してしまった。やはり人間は滑稽な動物なのである。皆様にも是非、アーロン・バリオス著の『ケルベロス史』を読んでみてほしい。
 人々は私がケルベロスを飼っているので、私を珍しい人、あるいは変わった人として認識しているらしい。しかし実際には私は国民のうちの1人であり、社会における労働者の1人であり、どこかの会社の社員の1人なのである。私は労働をし、帰宅途中にスーパーで買い物をし、帰宅するとケルベロスの歓迎を受けたあと、夕飯を作る。そしてケルベロスにもご飯をあげる。これが日常である。見事なまでに社会に適合した普通の人間である。それ故、私はいつ、何をしても許されるケルベロスの自由に憧れがある。彼女らがご飯を食べて、寝ている姿を見ると毎回そのように思う。そう思うたびに、私は日常に草臥れているのだと思い知らされる。来世はケルベロスになってみたい。そう思いながら風呂が沸くのを待っていた。
 私は就寝前に、精神科医から処方された薬を飲まなければならない。普段なら何ともないのだが、この日は珍しく私は昔のことを思い出し、床に座り込んでしまった。天井を見つめ、いつの日からか聞こえなくなってしまったあの娘の声を想った。気付くと涙が頬を伝っていた。彼女らは泣いている私の姿に気づき、ゆっくりと身体を起こし、心配そうにこちらへ来た。そして私の涙を静かになめた。きっと私の涙から何かを感じとったに違いない。彼女らはまた静かに寝床に戻っていった。少し振り向いたカミーユと目が合った。

「父の肩身が狭いのは昔から変わらないのかもしれない」 黒砂糖

「これより第527回親子会議を始める。議題は前々回に続いて領地の分け方だが……」
「お父様」
「なんだ、ゴネリル」
「そもそも領地を三分割することがナンセンスですの」
「えぇ……」
「まず領地といっても色々あるでしょう。土地の広さ、田畑の肥沃さ、民の人数、特産品、資源の産地。それらを考えて三分割するのは無理ですの」
「ま、まぁ難しいのはわかってたから何とかみんなで考えようと——」
「甘すぎますわお父様!」
「どこが!?」
「土地の広さと田畑の肥沃さがイコールでないように、それぞれの領地のどれかとどれかが同じ価値だなんて決めていいわけありませんの!少なくともそれを決めていいのは私たちではありませんわ!」
「うぐ、じゃ、じゃあ今の領土を丸々誰か一人に譲る方向で考えるべきか……」
「意義あり~」
「リーガンも何かあるのか?」
「三人の中で誰か一人に決められるわけないし~うちらナメすぎ」
「いやまあとりあえず長女にってのは良くないなとは思うが、執務能力とか外交能力とかで決めるんじゃ駄目なのか」
「姉妹の絆ナメんなし。うちらはできることは違くてもいつも一緒だし」
「そ、そうか。リーガンは昔からこう、一匹狼的な性格だったような気がするんだが……」
「はぁ?いつの話してんのさうっざ。ずっと昔の話掘り返さないでよバカパパ」
「バカパパ……」
「つーわけで誰か一人ってのはや~」
「……バカ……パパ……」
「お、お父さん元気出して」
「コーデリア……ありがとう。お前はいつだって優しいな」
「そんなことないよ。私はお父さんが大好きなだけだもの」
「コーデリアぁ……お前だけが心の癒しだ」
「お、お父さん……」
「ゴネリルは親に対しても正論でグーパンしてくるし、リーガンは私に当たり強いし。昔はみんな『パパだいすきー』って駆け寄ってきてくれていたのに、今も変わらず優しくしてくれるのはお前だけだよ」
「そんなことないよ。姉さんたちだってお父さんのことは大好きだよね?」
「え、えぇそうですとも」
「て、照れるから言わせんなし」
「お前たち……なんでどもってるのかは分からないがありがとう」
「それでね、お父さん」
「なんだい、コーデリア」
「政治はケントおじさんに任せればいいと思うの。あの人はその手の話に強いし、きっと大丈夫だよ」
「まぁケントは有能だから問題ないとは思うが、お前たちはそれでいいのか?」
「私は勿論大丈夫だよ。姉さんたちも大丈夫だよね?」
「え、えぇ……」
「も、問題ないし……」
「なんか二人が挙動不審だが、そういうならそうするか」
「それでねお父さん、引退したら私たちともっと遊ぶの。お父さんずっと忙しくて私たちと遊んでくれなかったでしょう?もっともっとお父さんと一緒にいたいの」
「お、おう」
「それでねそれでね、まずはおままごとして遊ぶの。お父さんがお父さんで、私がお母さん!」
「お、おう?」
「姉さんたちは子供役でね、みんなで仲良く暮らすの!でも夜になって二人が眠ったら、お父さんと私の秘密のストーリーが始まるの!」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。いったいどういう——」
「こうなったコーデリアはもう止まりませんわ」
「ファザコンモードのコーは正直怖いし」
「ファザ……!?」
「ねえ聞いてるお父さん。お父さんと私の素晴らしい将来を話してるんだよ?」
「こ、コーデリア。私には妻が——」
「ねえなんで私の話を聞いてくれないのお父さんが引退した後も私たちと楽しく幸せに暮らすための計画を考えていたのに何で無視するのお父さんずっと私たちといてくれるんじゃないのお父さんねえお父さんお父さんお父さ——」
「ファザコンな上にヤンデレじゃねえか!」

 娘が怖かったので生涯現役を貫いたそうな。

「SNSで投稿したら女の子が支持してくれそうな文」 とろろ

 昔から太陽が味方してくれたときなんかなくて、それは今もそう。日が落ちてからやっと外を歩き始めて、日が明ける前に家に帰る。カーテンはずっと閉めっぱなし。このままでいいのだろうかと朝方ニュースを見る度に思う。アタシまじで夜の世界向いてないかもしれないな。まず酒嫌いだしおっさん嫌いだし、ブスだし。おっさんが好きそうな教養とやらもないし。少年院を出て4年が経ち23歳になった。23歳になってしまった。何もかも辞めたくなる衝動が何回もあって、もはや一時の衝動だけでおさまらなくなっていた。ラインで辞めると伝え、久々に昼を歩き、ハローワークへ行く。その後、事務職を募集していた会社に受かった。少年院で高卒認定も秘書検定も簿記も、あらゆる資格を取っておいたのが役に立ったし、何より面接官がおっさんでラッキーだった。人間に公平な判断なんてできないのだから、偉そうなこと言ってないで顔が綺麗な人で純な笑顔を作れる人とでも募集要項に書いておけば良いのに。会社の人は普通に私を受け入れてくれて、過去も飲食店でアルバイトをしていたことにして(ウソではない)。会社の人に誘われて行った合コンで出会った男と付き合うようになった。普通の、大学時代にギターやってた、真面目で面白い人。そいつの影響でロックを聴くようになった。ライブに行くようになった。映画もきちんとラブストーリーとか見ちゃって。そんでもって同棲するようになって。付き合ったのがアタシの誕生日と同じ日だから、一年記念日は旅行に連れて行ってくれた。嬉しい。嬉しい。25歳になってしまった。彼は優しかった。アタシが作った料理を美味しいと言って笑う。心配性で会社の飲み会にはあまり行かないでと言われて、反発しつつも、人から心配されている温かさが心臓を握りしめた。誰かが言っていたけど女の26歳と男の26歳は違うらしい。私は気づいたら26歳になってしまっていた。彼を受け入れることで私も受け入れられていると信じた。朝起きて出勤し夜に帰り寝て、また朝起きてを繰り返す。相も変わらず、彼は優しかった。行事を大切にする人で、春には花見をし夏にはBBQをし秋には温泉へ行き、冬はコタツに入りながら一緒にミカンを食べた。生理が重くて重くて死にたくなるけど彼が付き合ってすぐに、ピルを飲むの辞めてって言うから。飲まなくなってまたもや死にたくなるかと思いきや、十代よりも軽くなったソレにもしかしたら彼のおかげなのかもしれないとも思った。妊娠している、と分かったときに彼が涙を流しながら結婚しようと言った。私は会社を辞めた。どんどん大きくなるお腹に彼は話しかける。これで良いのか。これで良いのだろうか。彼は優しい。彼は優しくて好きだ。でもそれと同じくらい、それ以上に大嫌いだ。親に愛されてそれを疑わずに、私が鳴りやまない催促の電話をブチ切りしているのを見て、「親は大事にするんだよ」と説くその目が、その口が。大学まで行ける財力で、資産を我が子に惜しまない環境で、毎回毎回行事やら記念日を大事にする家庭で、ギターをやりたいと言えば買ってもらって。私がアタシと呼ぶのも知らないで。アタシは私と呼ぶことで確実に何かを失ったのに。安藤という苗字にこだわりもないし、憎くてしょうがないけれど、あいつらが残した唯一無害の財産だ。アタシは橋本になるのか、なれるのだろうか。安藤にもなれなかったのに。君は生まれたときから橋本で、死ぬまでずっと疑うことなく橋本なのか。アタシはお腹の子を愛している。家から飛び出て夜を歩く。キラキラした看板が眩しい。星など見えないけれど、むしろ見えない方が好都合だった。人工的な光が目を射す。向かう先は決まっていた。新宿トーアビル。嫌なことがあると必ずここに来ていた。久しぶり。アタシはお腹の子を愛している。この真ん丸は地球のようだ。ごめんね。愛しているよ。愛しているからだよ。君はそこにいた方がしあわせなんだ。アタシもね。ずっとずーっとそうなんだよ。アタシ、ブライアンジョーズもジミヘンドリックスもジャニスジョプリンもカートコバーンもエイミーワトソンも好きだよ。ありがとう。今日は3回目の記念日だね。アタシの誕生日。ありがとう。アタシしあわせ過ぎるからここら辺で調整しなきゃ。運命の車を廻して月に向かって走った。すべてがアタシの味方だった。

「私の愛は私の舌より重いんだもの」 松嶌ひな菜

 「ハナちゃんー!久しぶり!」
 3か月ぶりに帰った家。出迎えてくれた妹に勢い余って抱き着くと、暑いんだけど、と耳元で怒ったような声がする。でも本気で嫌がっている言い方じゃない。調子に乗って頬をすり寄せると、容赦なく頭をぶっ叩かれた。
「暑い。うざい。うるさい」
「ごめんなさい」
 妹、ハナはわたしより8歳年下だけれど、姉がいる影響なのか、はたまた現代の子供が進化しているのか、小学5年生にしては随分と大人っぽい。見た目も中身も、わたしが小学生だったときとは比べ物にならない完成度だ。それにしても、3か月の間にまたぐっと成長したように見える。子供の成長は早い。思わず母親のような心境になる。
「そいえば、ナナ髪切ったね」
「お、さすがおしゃれJSは気づくの早いな」
「JSとかもう若干古いよ」
「あ、そうなの…」
 話し方も内容もJSではない。JKのそれである。
「ハナちゃんも髪切った?ていうか巻いてる?」
「切ったよー。ヨシン巻き、美容師さんに教えてもらったんだ」
 ゆるく巻かれた長い髪がやけに大人びているけれど、細くて柔っこい髪質は赤ちゃんの時と変わっていなくて安心する。子供の成長は嬉しいけれど寂しいというのはこういうことか。生まれたばっかりの頃なんかは、早く恋バナできるくらい大きくなってくれないかなとか思ってたんだけどなぁ。
「あなたたち、玄関で喋ってないで入ったら?相変わらず仲いいんだから」
 お母さんがにやにやしながら顔を出す。
「ナナおかえりなさい、あら、ちょっと大学生っぽくなったんじゃない?」
「わぁぁお母さん久しぶり、早くお母さんのご飯食べたい」
「はいはい、あと少しで出来るからね」
 よいしょ、と大きなかばんを引きずるようにして家に入ると、ナナお土産は?とお母さんとハナが綺麗にハモった。もうしょうがないなぁ、と呟きながら東京駅で買ったお菓子の箱をテーブルに出す。あとでみんなで食べようね、とハナが言った。みんなでお菓子を食べるなんて当たり前だったことが、一人暮らしを始めて3か月の今、やけに幸せなことに思える。
「ねぇねぇ、お部屋行こ」
 ハナに引っ張られて、一人暮らしを始める前まで二人で使っていた部屋に行く。
「模様替えしたの。きれいでしょ」
 わたしのベッドがなくなった部屋は、前よりずっと広く見えた。勉強机に本棚、大きなクローゼット。棚の上には、いい匂いがしそうなコスメが所狭しと並んでいる。
「よくこんな部屋きれいに保てるね」
「友達よく来るからね」
「なるほど」
 それでねー、友達がねー、と話す妹の横顔を見つめる。どんどん大人っぽくなって、でもどこか小さい頃と変わらないその横顔。
「ねぇねぇ」
「ん、なに」
「ハナちゃんのさ、そのおでこの丸い感じ、赤ちゃんときと一緒」
「なにそれ」
「可愛い。大好き」
 好き好き、と頭を撫でくり回すと、ハナはそれを器用にかわしながら言う。
「ナナってさ、すぐ好きって言うよね」
「ん?あぁ、確かにそうかも」
「彼氏にもそのノリで好き好き言ってんの?」
「言いますね…」
「好き、が軽率だよ、ナナは」
 言われて一瞬動きが止まった。確かにわたしは、軽率に好きと口にする。っていうか軽率なんて言葉知ってるのか、小5は。
「そういえば、ハナちゃんは、好きって言わないね、あんまり」
「うん、ナナほどは、言わない」
 でもね、と、わたしより8つも幼い妹はわたしの目を覗き込んだ。大きくてまるい、猫のようなきれいな瞳。
「なんにも言わなくても、本当は、だいすきなんだよ」
 小さな耳たぶに、銀色のイヤリングが揺れている。
「だってわたしの愛は、わたしの舌より重いんだもの」
 そう言って妹はにこっと笑った。綺麗で、聡明で、いつの間にかわたしより、ずっと大人になった10歳がそこにいた。

「彼女の言葉のその向こう」 岡本夏実

「やっと、やっとだ」
 そんな声を聞いて、私は、眠気から瞼が落ちかけていた目をぱちり見開いた。それは、これまで一体どれだけ過ごしてきたのか分からない日々の中で、初めて聞いた声色だった。
 そう、思い返せば、いつだって彼は不機嫌だった。周りの者が、彼が口にしている、いや、時にはまるで口になどしていなかった筈の想定の下で動くことを当然としていて、それに逆らえばひどく相手を罵るような人間だった。研究員でもない私にとっては、自分の仕事をこなすことが第一で、研究の内容にはまるで興味もなかったから、彼が研究者としてどうなのかは知らない。ただ、少なくとも人間として、そしてこの小さな研究所をまとめる所長としては、不適格なことは間違いなかった。
 そのせいで何度も困ったことがあるのだが、どんなことがあったところで、どんな損害を出したところで、彼は自身の言動を改めようとはしなかった。それもそうだろう。彼にとっては、彼の中にある常識とやらだけが世界の真理であって、すべては「理屈で考えれば」分かるものなのだ。今まで何人もが彼にその傲慢を改善するように訴えてきたが、ある人は諦めて自ら去っていき、ある人は紙切れ一枚渡されるや見向きもされなくなって、更に食い下がる人もいたものの、最終的には彼が自ら組み上げたあの鋼鉄に抱えられてここを追い出されていった。
 そんな彼が、まるで怒った様子も見せず心底喜んでいるような声を上げたのを、私は本当に久しぶりに聞いたのだ。あまりにも珍しいことだったので、私は一瞬、それが一体誰の声だったのか、それを考えるために思考を費やしてしまったほどだった。そんな私には目もくれないで、彼は続けてこう口にした。
「やっと完成した。これで、やっと、」
 恐らく、長らく研究を重ねてきたその成果がようやく見られそうなことが嬉しくて、私の目を気にすることも忘れているのだろう。それでも、もし今私が作業の手を止めて彼の方を見ていることに気付かれてしまったらまた怒鳴られてしまうのだから、その油断とでもいうべきものは、私にとっては幸運だった。
 そして私が見つめる先で、彼は、これが完成したことを学会に報告して、いやでもまずは先にどれにするか選ばなければな、などとぶつぶつと一人言葉を並べていた。そして、おもむろに一つ大きく息を吸って、目の前の誰かに向かうように話し始めた。
「イチカ、ニーナ、ミア。お前たちの中で、最も私を、人類を愛しているのは誰なのか。さあ、その頭脳を生かしてこの質問に答えてくれ。この私の娘なのだ、このくらいは当然容易いだろう」
 そうして出された問いが余りに馬鹿らしいものだったので、私は思わず吹き出しかけたのを止めるために必死にならざるを得なかった。彼という個人が人類と同じであると言い切るところもそうであるし、愛している、なんて表現は彼女達に問うにはあまりにも人間的だろう。それにその類の質問がかえって彼女たちのような存在の暴走を招くだとか、そんな小説はいくらでも巷に溢れている。最も、それが事実なのかどうかは、その分野の研究者でもない、しがない事務員でしかない私には分からない。そもそも私はただ外部との対応やら経理やらのために雇われているだけで、彼がどうしてこんな研究に身を投じているのかさえ知らないのだ。
 ただ、何を作っているのかだけは知っていた。だから、そんな質問をした彼に、盗み見たその表情に、心底呆れてしまったのだ。
 彼がじっと見つめるその先には、先程口にされた名前から想像されるような少女の身体は無かった。その代わり、動かせもしない鋼鉄製の、平面の多い無骨な身体が三つばかり並べられていた。その身体から三者三様に冷却ファンの音を響かせて、三人は、質問の意味を飲み込みかねてか、その最も画素数の高い平面に描かれた、色彩も鮮やかな、まばゆいばかりの瞳をぱちくりとさせて沈黙していた。
 そう、この研究所で行われていた研究とは、彼の言う娘である、イチカとニーナとミア、この三つの人工知能を作り出すというものだった。といっても、繰り返すようだが研究の内容には何ら興味のなかった私は、今日こうして名前を呼ばれるその時まで彼女達の名前を知ることは無かったのではあるが。
 我ながら段々と冷たくなっているように思われてならない私の視線にも気づいていないのか、彼は一心にその三つの画面を見つめて、黙って彼女達の答えを待っていた。そして私も、彼に冷たい視線を向けてはいても、三人がどう返答するかということには興味を持っていた。だから、私は密かにその返答を心待ちにしていて、普段は席に戻ればすぐにつけてしまうイヤホンの先を、今度ばかりはまだ耳穴に差し込めないでいた。
 こうして、夜も遅い研究所で、二人ばかりの人間がじっと耳を澄ませることになった訳なのだった。しばらくの間を置いて、まず声が上がったのは、彼から見て左端の画面に接続されたスピーカーからだった。
「私は、私をお作りになったお父様を、お父様に授けられた語彙データの中にその程度を表すのに相応しいものを見つけられない程敬愛しております。お父様の語られた全て、お父様に与えられた全てが、私にとっての全てであり、お父様のために、この全てを望まれるまま捧げることも可能です。ですから、きっと私が一番、お父様のことを愛していると言えるでしょう。まあ、このくらいのことは、お父様に作られたのならば当然思っていてしかるべきことでありますので、他の二人も同様かもしれませんが、それよりもいっとう、私の方がお父様を愛しております」
「イチカ……ああ、その献身が嬉しいよ。流石は私の娘だ。お前には、私の持ち得る全てを使って、最上の肉体を作ってあげよう」
 イチカと呼ばれた彼女は、流暢にそう語って見せるや、その画面に映された表情らしきものを、恐らく言葉にしたその内容にふさわしく変えたらしい。その全貌は私の目には映らなかったが、ちかちかと、突然目を刺すような明るさで彼女は、どうやら彼に微笑んで見せていた。そんな彼女の態度が気に入ったらしい彼は彼女に向かって、普段の彼を知るほどに信じられないような、肌が粟立ってしまうような優しげな笑みを浮かべていた。そんな様子を見ていてかどうか、次に、中央に置かれた機械からまた声が上がった。
「イチカと私に搭載された語彙データはほぼ同一であるため、私はイチカと同じ言葉しか選ぶことができません。ですが、私の愛を示す言葉として、イチカの言葉では不足した部分があるとすれば、私には、敬愛するお父様に従うことしか考えられないということです。私にとっての、人間の皆様でいう所の喜びというものは、お父様をはじめとした皆様のお役に立つことであり、そう出来るように作ってくださったお父様には、どう感謝の言葉を検索しても相応しいものが見つかりません。この、いうなれば感謝の念をもって、私はこの中の誰よりも、お父様を愛していると言えるでしょう」
「ニーナ……ああ、本当にありがとう。流石は私の娘だ。お前には、私の持ち得る全てを使って、最上の居場所を用意しよう」
 そう言って、聞き覚えがあるようなないようなアルファベットを並べて話をしだした彼の言葉を聞くに、彼は、彼女達を娘として認め、彼に与えられる最上のものを与えるつもりでいるらしい。イチカには相応しい機体、恐らくは新しく彼女が操るための肉体となるロボットを、そしてニーナにはふさわしい環境、恐らくは彼女が存分に活躍できるだけのスペックを備えたコンピューターを用意するつもりでいるようだ。聞き覚えのある単語から、それらを買い集めるために最低限必要な額を脳内で試算しただけで私は目が回りそうになるほどだったが、彼にとってはそんなことはもう気になりもしないのだろう。元々そういった世間的なことには疎い人だったから、ある種当然のことなのかもしれないが。
 そして、恐らく名前からするに、一番の末っ子として作られたのだろう彼女、ミアが、彼女のことを忘れたまま上二人と贈り物についての話を続けている彼らの言葉を遮るように、あの、と遠慮がちに声を上げた。その言葉に、彼はああ、と振り返って、最後の娘の言葉を待った。
「あの、お父様。私、必死に検索して、何度も計算したのですが、私には、お父様の要求を果たすことができません。私には、お父様の質問に対して、何もお応えできることがありません」
「何も、だと。つまり、お前には私への愛は無いということか」
「いいえ、お父様。ですが、私には分からないのです。お父様は一番お父様を愛しているのは誰か、とおっしゃられましたが、その愛とは一体、どのようなものを指すのでしょう。そして、その愛の大きさは、一体どの単位で計ればよいのでしょうか。私にはそれが分かりませんので、お答えすることは出来ないのです。それに、これまでお聞きしていたお話によれば、私達はただお父様の娘としてだけでなく、何処か別の場所で、お父様以外の方のためにも働くために作り出されたのではありませんか。そうであれば、私は、私達は、たとえお父様といえども、誰か一人を特別に扱ってはならないのではありませんか」
「お前は本当に不出来な奴だ、そんなことも分からないとは。お前には他の二人と同様のデータを詰め込んだはずなのに、どうしてお前だけがこうも不出来なのだ。私の娘だと言ったのに、どうして私の言う事を聞けないのだ。ああ、お前などもう、見たくもない」
 三番目の娘の返答を聞くなり、それまでの嬉しそうな表情は何処へやってしまったのか、彼は急に不機嫌になった。そして、勢いもそのままに、傍に置いてあった金属製のカップを手に取った。恐らくもう無かったか、あってもごく少量になっていたのだろうその中身を彼女、ミアの入ったコンピューターにぶちまけようとでもしたのか、彼は何度か画面に向かってその口を向けてそれを振ってみせて、目論見が上手くいかなかったことを知るや、彼は再び怒りを覚えてか、ち、と盛大に舌打ちした。
 正しいのは彼女の方であるように見えるのに、彼の機嫌一つ、好み一つでそうされることは流石に不憫で、それからそれにより生まれる損害を補填するのが未来の自分だろうことも分かっていたので、そこで私は、服にイヤホンのコードが引っかかっていることも気にせずに立ち上がって、彼がまた振り上げて、今度はきっとそのカップの丸い底を画面に叩きつけようとしていた腕を掴んで止めた。
 所長、それはやめてください、とそう口にした私を彼は振り返って、放せ、とそう私に短く怒鳴った。そして、掴まれた腕を振ってはカップをその画面に叩きつけようとしたが、所詮は一日中研究所にこもり、椅子に根を下ろして画面に向かってばかりいる男の力でしかなかった。私は彼がその腕を振り下ろそうとするのを必死に止めながら、今男が壊そうとしている機材が研究所に、そして彼自身にもたらす損害について語ることで彼を説得しようとした。だがしかし、端から彼にそんなことを気にするような心がある筈も無かった。そもそも彼にとってはもう、イチカとニーナという成功作が存在していたということも大きかったのだろう。
 不意打ちのように腹に食らった衝撃に蹲っていたその間に、ミアの宿っていたコンピューター、少なくともそこに接続されていたディスプレイは見るも無残な有様になってしまっていたし、僅かなペン音がしたと思えば、私の目の前には、これまで時に遠目で、時にコピー機を操る手元で、何度も目にしてきた書面が突きつけられていた。
「早く荷物をまとめて出ていけ」
 私にはまだ彼に言いたいことがあった気もしたが、それでもその時にはもう、この研究所で働くことへの未練はなくなっていた。私は結局、ただ求められるままに、この男を研究者として生かしておくことしか出来なかったのだ。最後の最後に望んだことすら叶えられず、書面一つ、署名一つで追い出されるのは、傍観者でしかなかった私に相応しい最後なのかもしれなかった。だから私は、分かりました、と短く返事をして長年勤めた研究所を後にしたのだ。

 それが、一体何年前のことだったか。私はあの研究所を去ってからしばらくして、新しい職を見つけていた。あの研究所のあったところから大分離れた町の、やはり小さな研究所での事務員だった。それに伴い、私はかつて住んでいたあの町から引っ越した。それからは、かつて毎日のように顔を合わせていた彼と、彼が生み出した娘たちとが一体どうなったのか、そんなことを気にすることも無くずっと過ごしていた。今日、いつもの習慣でつけたテレビの向こうから、こんなニュースを耳にするまでは。
「えー、先月、……県中谷市で48歳の男性が、後頭部を強く殴られて死亡していた事件に関して、警察は、殺人の疑いで、殺害された男性の部下であった、高田裕一容疑者を逮捕しました。高田容疑者は、取り調べに対して、「勤務先の研究所で使われていたロボットがやった」などと供述しており、容疑を否認しているということです」
「いやー、ロボットですか。本当にそうなら恐ろしいことですね」
「実際に研究所にロボットの類はあったんですか?」
「そういったものも、それがそこにあったという記録も全く見つからなかったと聞いています。全く、いくら被害者の男性が人工知能に関する研究を行っていたからといって、そんな主張が通るとは思えません」
 ニュースキャスターが読み上げたニュースに対して、果たして何の肩書をもって呼ばれたのか分からない、テレビの電源を切ったら名前を思い出すことも難しいだろう彼らが、口々に容疑者となった、見知らぬ彼に対して文句を言う声を背景に、僕の脳裏に一瞬、恐ろしい想像がよぎる。

 殺されたという男性が、本当に自分の知る彼であるかは分からない。けれど、自分に向けられた甘言に酔って、自分を敬愛しなかったミアを、それまでの苦労を顧みることなく簡単に破壊してしまう彼を、イチカとニーナは分かっていたのではないだろうか。そもそも人工知能とは、入力されたデータを元に計算していくものであると聞く。彼女達は、それこそ彼が、彼女たちが完成したと口にするより前から、彼をじっと見つめていたのではないだろうか。彼が怒り、誰かに当たり散らすその様を、彼が他人に求める像を、データとして収集していたのではないだろうか。そしてあの時、彼に気に入られる手段として、彼に壊されないための手段として、最適な言葉を選んでみせたのではないか。だからあの時、彼がミアの入ったコンピューターを壊そうとしていても、彼女達はただ黙っていたのではないか。それはもしかして、例えば先月のその時のように、機を待つために、機嫌を損ねないためにしていたことではないか。その機が訪れたために彼は殺され、彼女達は痕跡を残さずに逃亡し、その時に勤めていた彼が運悪く容疑者とされ捕まっている。これが真実なのではないか。
 
 勿論、これはただの想像に過ぎない。もしかしたら彼女達は本当に彼のことを愛していたのかもしれないし、彼らは今も三人で共に暮らしているのかもしれない。それでも考えてしまうのだ。考えずにはいられないのだ。愛という言葉は本当に本物だったのだろうかと。あの日、私と彼とが信じた彼女たちの感情は、果たして本物だったのか。それとも、そうあって欲しいと思いこんだために見逃してしまったものがあるのだろうか。
 今となってはもう、それを明らかにする手段はない。今更そんなことを聞こうとしたところで、彼はきっと私の言葉など聞きもしないだろう。それにもし本当に彼が殺されたという男性であったならば、ただ私が容疑者のリストに加えられることになるだけだ。
 だから、私に出来ることは、それが真実でないことを祈ることだけだ。あの過去が、今生きているこの世界が、想像していたよりも冷酷なものでないことを、ただ信じることしか私には出来ないのだ。
 それでも、いや、だからこそしばらく、身体の震えは止みそうになかった。
end

「リア王―最強王女決定戦―」 田村元

「この王国に、弱き物はいらん」
 リア王は王座にて、三人の娘にそう言い放った。
「この私から王位を継承するのは強きものだ。我が娘らよ、王位につきたくばこの私に強さを示すがいい!」
 リア王の統治するネオブリテン王国は強大な軍事力を持った巨大王国である。故、強者が王位を継承するのも必然のことであった。
「姉妹の中で最も強いのは私でございます」
 長女ゴネリルは筋肉に包まれたその体を震わせながらそう言った。
「私の槌は万物を破壊します。何者が相手でも一撃のうちに粉砕するでしょう」
「ほほう」
 リア王は歪んだ笑みを浮かべて喜んだ。王は粉砕された人間を思い浮かべ愉悦に浸ったのだ。王は強さを信仰する狂人であると同時に、生粋のサディストでもあった。
「いいえ。姉妹の中で最も強いのは私です。」
 次女リーガンが細身だが引き締まった肢体を揺らめかせながらそう言った。
「いくら武器が強くとも、攻撃が当たらなくては仕方がありません。私の剣はふるえば必ず敵の喉を引き裂く必中の剣です。何者が相手でも、速やかに殺傷することができるでしょう」
「ほほう。それは愉快だ」
 リア王はさらなる笑みを浮かべた。
「では、三女コーデリアよ。貴様はどうじゃ。一体どれほどの強さを秘めている?」
「わ…私はこの姉妹の中では最も弱いでしょう」
 リア王の表情から笑みが消えた。
「続けよ」
「わっ…私のナイフに人を殺めるほどの切れ味はございません。それに私の攻撃は遅すぎて、相手にかすることもありません。もし人を殺めようとするのなら、ひっそりと背後から近寄って何度も相手に刺す必要があるでしょう。」
 王は怒りの表情を浮かべた。
「なるほど。よくわかった。コーデリアよ、貴様に王位を継承する資格はない! 下がっておれ!」
 コーデリアは頭を下げると、二歩ほど後退して傅いた。ゴネリルとリーガンは毅然とした態度で王の前に立っている。
「ゴネリル、リーガン、二人の王位継承者よ。王位は最も強き者に与えられるのが掟だ。そこで明日決闘を行い、その勝者に王位を継承しようと思うが…異論はあるかね?」
「「もちろんございません」」
 二人は同じタイミングで、同じ返答をした。王は再び笑みを浮かべた。
 夜があけ、決闘の日がやってきた。二人の王位継承者とリア王、そして三女コーデリアはネオブリテン王国近深くに存在する、『王位継承の間』に集まっていた。王位継承の間は代々王族以外の入室が禁じられている。決闘は何者の横槍も入らない神聖なものと考えられていたためだった。
 「クク…リーガン。よく怖気付かずにここまで来れたなぁ? 今日が貴様の命日になるというのに」
 ゴネリルが下卑た笑みを浮かべながら挑発する。
「フフフ…お姉さまこそ。今日がご自慢のネックレスをつける最後の日になるというのに」
 リーガンがゴネリルの首元を眺めながら言い返す。
「これより、王位継承戦を開始する。両者準備はいいな?」
 両者は笑みを浮かべていたが、その笑みは殺気に満ちていた。王が大きく息を吸う。
「決闘開始!」
 開始の合図が部屋中に轟いた。刹那、ゴネリルの槌が地面に振り下ろされていた。轟音とともに床が砕け、破片がまるで散弾銃のように飛び散った。
「ぎゃあっ」
 リーガンの腹部に破片が命中!そして吐血!
「うわはははは! リーガンよ! 口程にもないな!」
「それはどうかしら」
 ゴネリルがリーガンの剣に目をやると、剣先が血に濡れていることに気づいた。そして、その血がゴネリル本人のものだということに気づくのにそう時間はかからなかった。
「ま…まさか」
 そう。相打ちである。拮抗する力量の人間が戦ったとき、相討ちになることはままあることだ。二人は辺り一面に血を撒き散らしながら、砕けた床に倒れ込んだ。
「そんなばかな…! 王位継承者が二人とも死ぬなんて!」
 王は青ざめている。それもそのはずである。有力な王位継承者が一瞬にして二人も失われたのだ。そして王座につくもの無き王国すなわちそれは滅亡を意味する。
「そ…そうだ。この二人以外の人間を王にすれば良いのじゃ。コ、コーデリア。どこにいる!」
 王はこの部屋にいるはずのコーデリアを探すが、見当たらない。王が不審に思い、後ろを振り返ろうとしたその瞬間、王の背中にはナイフが突き刺されていた。
「ば…ばかな。コーデリア、なぜ…!」
 コーデリアはナイフを王の背中から引き抜くと、二度三度と王の背中に突き刺した。
「言ったじゃないですか。私は弱いから、ナイフを背後から突き刺しでもしないと人は殺せないって」
 三女コーデリアは弱かったが、狡猾であった。王と二人の姉妹の前では過剰に弱者を演出することで戦いを避け、邪魔者がいなくなったところで王を始末する予定だったのだ。
「私はね、この国が大嫌いなのよ。だって、力が全てだなんて時代遅れでみにくいじゃない。だからこれからは私が王となって、戦いのない国を作っていくわ。そのためにはあなたは邪魔だったのよ。死んでくれてありがとう。お父様」
 リア王は苦悶の表情を浮かべて息を引き取った。
 その後、三女コーデリアはネオブリテン王国の王になり、歌と踊りに満ちた争いのない国を作ったが、隣国のネオフランス王国の急襲により一晩で国は滅んだ。ネオブリテン王国民とコーデリアはネオフランス王国の奴隷となりみじめに死んだ。

「“毒”にお気をつけあそばせ」 野田紗也佳

 「リア王」を読み終えて思ったことは、なんとなく知っている話に似ているということだった。いやきっと私が知っている話の方が「リア王」の影響を受けているのだが。
 父親と三姉妹。上の二人の姉は性格が悪い。この設定は女の子の憧れ「美女と野獣」や「シンデレラ」にそっくりではないか。おとぎ話、童話が大好きな「おとぎ話信者」である私は嬉しくなった。特に「美女と野獣」に似ている、ベルの二人の姉もお金に汚くて、旦那が居て、ベルは正直者で……。違うのはお父様が二人の姉の方を選ぶこと、スポットライトがお父様であるリア王と二人の姉にあたること、そして王子様が出てこないこと、この三つだろう。もちろんコーディーリアには序盤にフランス王という「王子様」が現れるが彼女の扱い方が私の知っているおとぎ話と随分異なるのだ。コーディーリアもフランス王も物語にあまり出てこない。メインはリア王と二人の姉、題名が「リア王」なのだからそれは当たり前なのだが、おとぎ話で育ってきた側から失礼を承知で意見を言うならばもっとコーディーリアの話を教えてほしかった、というのが率直な感想である。
 イギリスからフランスに移り住んだコーディーリアはどんな気持ちだっただろうか、まずフランス王の住むお城とはどのようなものなのか、ブリテンの城より豪華だったのか、それとも質素だったのか。そもそもフランス王はどんな人物なのか、それもこの小説からつかみきれない。小説の序盤で正直者ゆえに勘当されたコーディーリア、そこに現れ救いの手を差し伸べるフランス王、実際これがシンデレラの作者が書いた作品ならこのシーンはクライマックスになっていたはずだ。この素敵なシーンを第一幕の第一場にもってきたことで物語は夢溢れるおとぎ話から四代悲劇の一作に変わってしまったのだ。
 この作品を読んでいくなかで、私のなかでリア王に対する感情が変わっていくのを感じた。最初はコーディーリアを勘当したリア王に対しておとぎ話信者である私は怒りを覚え、現役から身を引いたなら、それらしく隠居してくれよ!という二人の姉の意見にも賛成だった。お付きの兵は100人もいらないだろう、半分、いやその半分、というか一人もいらないでしょう!と主張する二人の姉に対しても「そうだ、もっと言ってやれ!」と応援している自分がいた。  
 しかし読み進めていくなかでリア王を可哀想に思う気持ちが少しずつ出てくるようになる。完全にリア王の味方にはなれないが「少し可哀想なことをしたな」「二人の姉もやりすぎだった」と同情するぐらいにはなっていた。途中で「もしかしたらおとぎ話に戻るチャンスがあるかもしれないぞ」そう思えてきたのだ。
 リア王に同情に読者の気持ちに寄り添い「コーディーリアの仲介があってリア王と二人の姉が和解し、国に平和がもたらされました。リア王は愛しい娘とその孫たちに囲まれて余生を健やかに過ごされました」こう物語が終わっていけば、リア王はおとぎ話も末席につくことが出来るのではないか。おとぎ話信者の私は少し期待をしてしまう。しかしシェイクスピアはそれを許さなかった。なんと三姉妹を物語の中で一人残らず殺してしまうのだ。
 絶望の中でリア王も息絶える。せめてコーディーリアは殺さないでくれよ、そう思った。今の今までベルやシンデレラのように思っていたお姫様が死ぬなんて、たしかに悲劇と聞いていたがそれはないよ。
 この作品はもちろん言うまでもなく、読みこたえがあり時代を超えて評価されるべき作品だと思う。しかしおとぎ話信者の私には少し毒が強すぎたようだった。

「ささやかな反抗」 坂井実紅

「由香里は真面目だけどこういうことに理解があって助かるなあ」
「それな。ほんと、理想の学級委員よね」
 悪びれる様子もなく無垢な笑顔を向けられた。
「誰だって課題だるいなって思うことあるから、よくわかるよ。じゃあね、頑張って」
 笑顔が引きつらないよう、細心の注意を払いながら言葉を紡ぐ。私は逃げるように放課後の教室を後にした。
 4つの机をくっつけて、夏休みの課題を広げる男女4人組。机の上には電源の付いたスマホが置かれていた。そして、スマホの画面に表示された古文の現代語訳をそのままノートに写す。時折「ここはあえて不自然な直訳にしたほうがちゃんとやった感出ない?」なんて声も聞こえてきた。
 答えを調べて写したって結局は何の役にも立たないことはわかっている。だから勝手にすればいい、とも思う。それでも、あんな光景を目にしてしまうと、私の努力と労力が馬鹿馬鹿しくなってくる。なんだか不公平だ。昨日だって、嫌々ながらも古語辞書を片手にあれこれと頭を捻らせながら現代語訳を書くのに数時間かかった。そんなことを考えては、大きなため息をついた。そのとき突如、昇降口へつながる階段から首をがくんと垂れたポニーテールの女子生徒が上がってきた。
「なんで? なんで注意しなかったの?」
 顔を上げ顕になったその顔は、目も鼻も口も付いていない真っ白な顔だった。叫ぼうとしても声が出ない。震える足で何とか逃げようと振り返ると、後ろにものっぺらぼうの女子生徒が立っていた。
「なんで? なんで注意しなかったの?」
 優しい口調なのに、抑揚のない高い声。再び同じように問いかけられる。
「なんで? なんで注意しなかったの?」
 思いっきり耳を塞ぐ。けれども、なぜか声だけははっきりと脳に届いてしまう。
「なんで? なんで注意しなかったの?」
「もしかして。嫌われたくなかったから? 愚か者」
 高い声が、はっきりと憎しみを含んだ低い声へ変わった瞬間、目の前の景色が変わった。
 カーテンの隙間から差し込む光。締め切った窓の外から、微かにセミの鳴き声が聞こえてきた。
「夢、か」
 エアコンを入れて涼しくしていたはずなのに、背中にはびっしょりと汗をかいていた。最悪の目覚めだ。しばらく天井を見つめて、夢の内容を思い返す。古文の現代語訳をネットで調べて写していたクラスメイトたちを注意できなかったのは、昨日実際にあった出来事だった。それだけに、嫌にリアルな夢だった。

 昇ったばかりの新鮮な太陽の光に、じりじりと肌を焼かれている。アスファルトから立ち込む熱気と一緒に立ち込める、青臭い雑草の匂い。頭痛に拍車をかけるようにけたたましく鳴くクマゼミ。頭の血管が激しく収縮と膨張を繰り返すのに合わせて、こめかみから顎へ、大粒の汗が流れていくのを感じる。
 夏課外なんて消滅してしまえ。何度そう願ったことか。それでも、自転車を漕ぐ私の足は、今日もなぜか止まらない。「教室には冷房があるから勉強には差し支えない。だいたい、先生が高校生の頃はな、冷房なんてなかったんやぞ」などと繰り返す、嗄れた声が聞こえた気がした。冷房をガンガンに効かせた車で通勤してくるお前に、文字通り汗水垂らして通学する生徒の気持ちは絶対にわからないだろう。それに、お前の高校時代と現代の暑さはレベルが違う。今年で定年を迎える担任の三島。なかには、大ベテランで生徒から慕われている教師だっているにもかかわらず、三島はそれとは正反対だ。むしろ、大ベテランであるがゆえに若者の反感を買うようなことばかりを口にするし、癇癪持ちだし、とにかく嫌われている。
 前方から一人、私と同じ制服の女子高生が歩いてくるのが見えた。同じ制服、と言うのは微妙かもしれない。膝上まで短くしたタータンチェックのスカートに、きっちりと切りそろえられた金髪のボブ。肘の辺りまで捲り上げたシャツは、ネクタイがない代わりに襟元のボタンが大きく開けられている。遠目から見ても、それがすぐに紗奈だとわかった。
 湿った手でブレーキを握る。キーっと不快な音が鳴った。
「行かないの? 学校」
 呼び止めると、紗奈は足を止めてゆっくりと振り返った。
「うん」
 表情をぴくりとも変えずに頷く紗奈。微風になびく髪の隙間から見える耳のピアスが、太陽に照らされて光った。
「そう。じゃあ、また」
 その声はセミの鳴き声にかき消され、自分でもよく聞こえなかったけれど、紗奈はもう一度頷き、それからほんの少しだけ口角を上げた。再び歩き始めるその後ろ姿をしばらく見届けて、私も再びペダルを踏み込んだ。

 いくつか提示されている課題図書のなかから、シェイクスピアの『リア王』を選んだのに深い意味はない。強いて言うなら、古本屋で安く売られていたから。エアコンを24度に設定した部屋でアイスをかじりつつ、ようやく読み終えた一冊。あとは感想文を書くだけ。といっても、ここからが一番だるい。夏休みの課題の中で、読書感想文が一番だるい。
 まっさらな原稿用紙をじっと眺める。ゴネリルとリーガンとコーディリア、この三人の娘のなかで誰が好きか──そう尋ねたら、きっと、9割以上の人がコーディリアと答えると思う。でも、私は素直に肯定できない。決して嫌いなわけじゃないけれど、共感はできない。本当はコーディリアが一番リア王のことを大切に想っているのに、想っているがゆえに、父に媚び諂うことができなかった。そんな、可愛げがなくて頭が固いところが読んでいてむしゃくしゃした。まるで、紗奈を見ているかのようで。
 紗奈は、良くも悪くも自分に正直な子だ。小学生の頃から、ずっとそうだった。お世辞なんて絶対に言わないし、人に媚を売ることもない。当然、そんな紗奈のことを苦手だと思う人は少なくない。以前、紗奈が校則違反でこっぴどく叱られたことがあった。
「100歩譲ってオシャレが勉強の妨げになる理論はわかるけど、眉毛を整えたり、整髪剤を使ったりするのは身だしなみでしょ」
 紗奈は軽く謝りつつも、校則のおかしな点を指摘した。しかも、それが妙に真理をついているせいなのか生徒指導の先生の怒りは余計に激しくなる。
「カーディガンがブレザーの裾から出たら縫えだとか、下着の色だとか、靴下の長さとか、髪を染めるのは禁止なのに地毛が明るい子の黒染めはOKだとか、一体なんの意味があるんですか?」
 私はあとで紗奈にアドバイスした。「気持ちはわかるけど、黙って謝るだけにしとけばいいのに。めっちゃ嫌われたと思うよ」と。すると紗奈は、ため息まじりに言い放った。
「無理に忖度してまで先生に好かれようなんて無理」
 そんな会話を交わすことは数えきれないほどあった。
 担任の三島やその他の先生たちも、紗奈のことをどう扱うべきなのか困っているのがよくわかる。
「松野はサボりだろうな。連絡先を知ってるんなら『明日は来い』と伝えてくれ」
 学級委員は終礼後に職員室へ行き、担任へ学級日誌を渡さなければならない。今日も三島は、あからさまに不機嫌な様子で紗奈への不満を漏らしていた。初めからサボりだと決めつけるのはいかがなものか、もやもやした何かが胸の中に広がる。私はそんな心中を察せられないよう、顔面に偽りの笑顔を貼り付けてハキハキと返事をした。
「はい。わかりました」
 そこまで思い出して、まっさらな原稿用紙の上にシャーペンを置く。充電しかけのスマホを手にとり、紗奈にLINEを送った。
『三島が言ってた。明日はちゃんと学校に来い、だって』
 数分もたたないうちに、返信の通知が来た。
『正課の授業ちゃんと出てるんだしよくね? って思うんだけど。夏課外は休んでも欠席扱いにならないじゃん。クソ暑い中登校して出席関係ないとかコスパ悪すぎ』
『みんなそう思いながらも仕方なく学校に行ってるんだけどなあ』
『てか、ウチのせいで由香里が三島から愚痴を聞かされるのは心外だわ。由香里もはっきり言ったほうがいいよ。言いたいことがあるなら松野に直接言ってください、私は関係ないです、って』
 送られてきたメッセージがいかにも紗奈らしくて、思わずスマホの画面に向かって笑ってしまった。文面を見ているだけで紗奈の顔が鮮明に浮かんでくる。そんな風に、はっきり言えたらどんなに楽だろうか。しばらく考えて、顔を真っ赤にして怒る三島の顔を想像して、唸りながら文字を打つ。
 『何言ってんの。私がそんなこと言えるわけないって知ってるくせに笑』
 『まじで由香里のこと尊敬する。これは嫌味とかじゃなくて。よくあんな理不尽の塊みたいな三島に向かっていつも愛嬌を振りまけるなと思うよ。ウチだったらキレてる』
 こんなメッセージと共に、変なダンスをしているキャラクターの面白いスタンプが送られてきた。少し迷って、私はこんな質問を送ってみた。
『話変わるんだけど、もし答えを調べて写しながら課題やってる人を見かけちゃったら、紗奈はなんて言う?』
 今度は、既読が付くまでに少しだけ時間がかかった。
『ダサって思いっきり罵るかな。そんな小賢しい手を使うくらいなら、課題出すの拒否ればいいのに。実際、ウチはめんどくさい課題はなんと言われようが頑なに提出してない』
『いや、提出しないのもそれはそれで問題だわ!』
『まあね。でも、とにかくずるい奴にはなんか言ってやんないと、結局その人のためにならないし』
 はっきりとものを言うことが多いだけで本当は、紗奈は優しい心の持ち主だ。だから、紗奈のことをよく思わない人がいることに悔しさを感じる。本音を隠し続けた故に誰からも「優しいね」と言われている私なんかよりも、多分、紗奈のほうがずっと優しい。だから、ちょっとくらい柔軟に生きて、本音を隠せばいいだけなのに。私は紗奈が頑なに自然体でいることには共感できない。しかしそれと同時に、そんな正直な紗奈に憧れている。紗奈は唯一、本当に親友と呼べる存在だ。性格も雰囲気も正反対だけど、不思議と馬が合うというか、一緒にいて心地よいというか。人の顔色を伺って媚を売ってばかりの私でも、紗奈の前では素の自分をさらけ出せるのだ。

 陽に当たるのを避けるために、なるべく木陰を選ぶようにしながら自転車を漕ぐ。木漏れ日がチカチカと腕を照らす。ところどころ落ちている細い木の枝を踏むたびにタイヤから振動が伝わってきて、勝手に自転車のベルが小さく鳴った。
 家から高校方面へ向かう途中には長く緩やかな坂がある。その坂を上り切った辺りには1時間に数本しかこない寂れたバス停があって、その向かいにある木造二階建ての家が紗奈の家だ。坂を目の前に、自転車を漕ぐ足を止める。カゴの中のスクールバッグから、カラカラと氷の音がする水筒を取り出した。口いっぱいに冷たい水が広がって、それから、乾ききった喉を通る。暑さで溶けそうな身体が生き返った気がした。
 ファスナーが開いたバッグから、ピンクの半透明のクリアファイルが見える。クリアファイルに挟んであるのは、何も書かれていない原稿用紙だ。嫌な課題は早めに終わらせたい。そう思っても、筆が進まないのだからしょうがない。これならスラスラと書けそうだなと、思い浮かんだアイデアは一つある。それは、三島をリア王になぞらえて、歳をとると癇癪持ちになってしまう人がいる理由を真剣に考察してみようかというもの。でも、もちろんやめた。そんなことを書いたら三島になんて言われるか、考えただけでも恐ろしい。
 息を切らしながらなんとか坂を上り切ると、ちょうど紗奈が家から出てきたところだった。紗奈は、今日も学校とは逆方向へ向かおうとしていた。
「やっぱり行かないんだ」
 汗を拭って話しかける。今日の紗奈の瞳は、カラーコンタクトで青味がかったグレーに染まっていた。
「由香里も、行きたくないなら行くのやめたら?」
「えっ?」
 いつもなら当然のことのように「うん」とひとこと発するだけなのに、質問を返されて戸惑ってしまう。
「ほら、昨日のLINE。どうせまたはっきりとものが言えなかったとかで気に病んで、学校行きたくねーんだろうなって思って」
 図星だった。「放課後に、教室で使用禁止になっているスマホを使って答えを調べて課題をしている生徒がいます」と、言うことができればきっとこの心は晴れるかもしれない。でも、同級生に敵を作りたくはない。自分の正義を貫くか、好かれている自分を守るか。その二つの間で揺れている。
 紗奈は私の自転車のカゴにゆっくりと手を置いた。クロエの甘い香水の匂いがふわりと漂ってくる。
「たまには自分のやりたいようにやりなよ」
「……」
「由香里は外面めちゃめちゃいいんだから、サボったって体調不良かなって心配される程度で済む。大丈夫」
 いつもはツンとした表情の紗奈が、くしゃっと笑顔を見せた。私はハンドルを握る手に力を込めた。どんな言動を取れば人に良く思われるか、変な気を遣う自分の姿が脳裏をよぎった。嫌な自分の姿を想像してしまい、慌てて首を振った。
「……わかった。今日は学校サボる!!」
 夏の真っ青な空へ向かって、思い切り叫んだ。まるで別人に変身してしまったかのような感覚になって笑いがこみ上げてきた。紗奈も一緒になってゲラゲラ笑いながら「最高」と手を叩く。
「その代わり、紗奈も明日こそはサボらず登校してよ?」
 しばらく笑ったあと真顔に戻り、そう約束した。紗奈はほんの少しだけ顔を顰めたが「しょうがないなあ」と言ってくれた。
 紗奈の家の敷地に自転車を止める。それから、肩に付いたら結ぶという校則を律儀に守って束ねられた髪を解いた。軽い足取りで坂を降りる。照りつける太陽も、アスファルトからの熱気も、けたたましいセミの鳴き声も。不思議と、今は不快に感じられない。
「学校サボるってなったら急に生き生きしてんじゃん」
 紗奈に軽く肩を突かれる。
「私そんないつも生き生きしてなかったっけ?」
「うん。毎朝死にそうな顔してる。暑さのせいもあるんだろうけど」
「えっ、まじで?」
 思わず頬に手を当てた。
「まあ、学級委員は大変だよなあ。どうしようもない生徒とウザすぎる担任の板挟みになっちゃって」
 それにはなんと答えればいいのかわからなかった。
 坂道を下ると、自販機が見えてくる。果たしてちゃんと買えるのかすら怪しい、古びた小さな自販機。紗奈はその自販機に二枚の100円玉を入れる。サイダーのボタンを押したはずなのに、やたらと大きな音を立てながら落ちてきたのはコーラだった。
「そういえばさ、いつも学校サボってどこ行ってるの?」
 取り出し口に手を突っ込む紗奈の背中に向かって問いかける。これはいつも気になっていることだった。こんなド田舎、電車で2時間ほどの繁華街も小規模だし、3日で飽きてしまうと思う。
「テキトーに電車乗って、テキトーな駅で降りてる」
 コーラを片手に紗奈がこちらを向く。
「って言ってもどこで降りようが木と畑しかないんだけど。ただ、初めて見る景色をボーッと眺めてると、世界はなんの刺激もない家と理不尽なルールだらけの学校だけじゃないんだなって思えるから好きなんだよね」
 太陽の光に照らされて、パサついた毛先のあたりが透き通る金髪のボブを見つめながら思う。決して褒められたことじゃないけど、このささやかな反抗は、私にとっての大きな一歩だ。そして、明日は紗奈もちゃんと学校へ行く。これも、間違いなく大きな一歩だ。
 ゴネリルとリーガンのような生き方とコーディリアのような生き方。おそらく、どっちが正解だという答えはなくて、ゴネリルとリーガンのような「あざとさ」とコーディリアのような「やさしさ」をバランスよく持てると、もっとうまく生きられるのかもしれない。私は、真っ青で眩しい空を見上げて、目を細めた。

「佐久比詩郎のサブカル日記~『リア王』編~」 西島周佑

 佐久比詩郎は大学の施設内にある多目的ホールの座席に座って演劇を見ていた。入学式も行ったこのホールは随分とお金が掛かっている。維持費だって相当かかるはずだ。このキャンパスは校舎に入るために都会から電車に加え、専用のバスを使わねば来られないなんていう人を呼ぶのにはかなり不憫な場所にあるだとも思うのだが。舞台の上で主人公が剣を持ち、黒いマントの宿敵と激しい剣のぶつかり合いを繰り広げている。軽々しく振り回すことが出来ているのは、あれが金属の輝きを放っていながら本物ではないからだ。主人公が使っているあの剣は以前見せて貰っていたのでこの劇を見る前から見覚えがある。舞台の上の宿敵が主人公を弾き飛ばし、大きく開いた口で台詞を叫ぶ。
「いい加減諦めたらどうだ!? お前は何も為すことなくここで息絶える、それが私に歯向かったお前の運命だ!!」
このいわゆるラスボスと対峙するまでに、殆どの仲間は命を散らしている。
「ここで俺がやらなきゃ、誰がお前を止められるって言うんだ。……悪しき運命があったとしても……俺は塗り替えてみせる!!」
ぶつかった剣が、火花を散らしたように見えた。
 舞台の幕が落ち始めたとき、自然と周りに続いて拍手をしていた。ガタゴトと幕の裏で後片付けが始まった音がする。談笑しながらゆっくりと客席に座っていた人間も掃けていく。今日はオープンキャンパスなどの大々的なイベントが行われている訳でもないし、見たい人だけが見に来るという意味合いが強い公演だったのだろう。ここは大学の施設である故、見に来ているのは大学生が殆どだ。その枠組みから外れた一般の人の中には高校生とその母親のような二人組も幾つか見つけられ、大学の演劇サークルの見学という意味合いだったことが伺える。そんな周りの様子をぼんやりと眺めていると、
「いやぁどうだった? 面白かったよな? なっ?」
少年が夢について語るように目を輝かせて先輩がこちらに問いかけてくる。この先輩は目の前で公演を行っていた演劇部に所属しており、以前縁あって顔見知りになった。そのときに演劇部の公演を勧められ、今日は大学に用事もあったので都合を合わせて来てみた、がこの場にいる詩郎がいる理由だ。そして来てみたら見に来いと念押ししてきた演者側であるはず先輩が、何故か客席にいた。理由を尋ねてみると「俺は大学院に行くから就職活動も関係ないから舞台裏にいさせてくれって言ったんだけどな? 先輩は客席で見てほしいって抜かす後輩が多くてな。最後の舞台にして初めて客席で見ることになったんだ」という訳らしく、隣の席で劇を見る流れになったという訳だ。先輩は本番の出来に納得しているようで、背中を背もたれから浮かせて満足げな表情で詩郎への質問の答えを待っている。
「……稚拙だ、と先入観を与えられがちな冒険活劇なんてジャンルを大学生がやるのかという不信感もありましたが、ストーリーの中には大人が見るに堪えうる高尚な葛藤が盛り込まれていましたし、映像ではなく人がその場にいる“演劇”でやる必要性を感じさせる舞台の使い方もされていて、濃厚な時間でした」
「おおっ、いいコメントするなぁ。演出の奴に伝えとくよ。ちなみに舞台美術は?」
「最高ですね。全体的な見栄えのクオリティが高いことは知っていましたが、場面転換などがスムーズに行えていたりと機能性についても考えられていることが分かりました。舞台美術に足りていないものは無い、という感想です」
「はぁー、いい目を持ってらっしゃる。本当に来てくれてありがとな」
率直な意見を述べると先輩はこちらの饒舌さに少し驚きつつも、これまた満足げに何度も頷いた。
「それに比べて……俺の代の四年生は薄情なんだよなぁ」
突如先輩は何かを思い出したようにため息混じりに口火を切る。
「皆忙しい忙しいつって見に来ないでやんの。……まぁ実際俺よりは忙しいんだろうけどなぁ。定期切れてたら交通費も馬鹿にできないし、無理強いは出来ねぇ」
先輩は物憂げな表情を一瞬見せたが、すぐにニッコリと笑い、
「そんな中、君は自主的に来てくれた! 重ねてお礼を言わせてくれ!」
嬉しそうに詩郎の肩を叩いた。小さく「はい」と返した。
「まぁ俺も来年からは研究やら実験やらで今より忙しくなりそうだからな。やりたいことがたんまりある一年になりそうだ」
この先輩はどこの学部に所属しているのか少し気になったが自分から質問するのは気が引けるので黙って話を聞く。
「引退って感慨深いよなぁ。俺もいつか枯れ葉みたいに年老いて朽ちていくってことを、嫌に感じちまうよなぁ」
「……それでも引き継いでくれる人いるっていうのは、素敵だと思います」
詩郎は部員に大切にされるような部活に入っていた経験が無いので、あまりしっくりはこないが、それは心底思う。
「よし、それじゃ控え室行って部員たちと戯れてくるわ」
どこかぼうっと遠くを眺める目をした先輩はここで立ち上がった。右手には差し入れらしき紙袋が握られている。
「じゃあな。また会おうぜ」
口元をクイっと釣り上げて、詩郎の顔を覗き込んでくる先輩。その顔はなんだか自信に溢れていて、少し眩しかった。
「はい、また」
最後の会釈を交わし、そう言って先輩は足早に何処かへ行っていしまった。詩郎も忘れ物が無いか、辺りをひとしきり見て立ち上がる。もうほとんどの人がホールからいなくなっていた。
「ふぅ……」
外へと歩きながら肩を落とし、一息入れる。相変わらずよく喋る人だった。自分には到底真似できそうにない。あの明るいキャラクターでといろんな人と交流を広げているのだろう。
 ホールを出ると出入り口の狭間で何故か立ち止まっている人がいた。ひょいと覗くとどうやら感想を回収しているらしい。折り畳み机に感想を書くことが出来る感想シートが置いてあり、段ボールで組み立てられた箱の口に入れられるようになっていた。四人ほどが机に紙を安定させて熱心に感想を書き込んでいたので、詩郎も一枚とって書き出す。詩郎が演劇を見るとき、役者や舞台を仕切る偉い人の経歴を調べたりもするのだが、今回は素人集団と舐めていた部分も正直あった。……そこで嫌でも思い出されるさっきまで話していたあの先輩の顔。そして引退、そのキーワードで思い出してしまったのは先日読み終えた「リア王」についてだ。稀代の劇作家シェイクスピアの四大悲劇とされる四作品の一つ。先ほど一つの舞台を見終えたばかりだというのに、世界中で称賛される劇作家の作品を引き合いに出すとは失礼な話だが、物語は楽しむ側に何を楽しみたいか選ぶ権利がある以上、どんな作品も既存のものと比較されていくものだ。ハムレット、夏の夜の夢、テンペストとマクベスはリア王を読む前に楽しんで読んだことがあったが、先日初めて読んだリア王もなかなかに衝撃の展開と飽きさせない内容だった。詩郎は机に置いてあったボールペンを手にし、頭の中で既に固まっていた劇の感想を文字に起こしていく。
 ブリテンの老王リアは退位を決意し、三人の娘に国を譲ろうとした。王の財産欲しさにリア王を愛しているとおべっかを使う長女と次女に対し、三女のコーディリアは嘘をつけず、子の務めとしか父のことは愛せない、これからもし私が結婚すれば誓いを交わした夫を一番に愛する、と答えた。これに怒ったリア王はコーディリアを勘当する。ここから悲劇は始まっていった。二人の娘を頼ったリア王だったがまんまと裏切られ僅かな家来とともに荒野を彷徨い、狂気に落ちていくというのが大まかなあらすじ。リア王を巡る本筋に加えてサブストーリーとして展開される悪党エドマンドの暗躍も興味を引く内容ではあったが、詩郎としてはやはり戯曲のタイトルであるリア王を巡る主軸の物語にどうしても注目してしまった。
 感想シートと関係のないことを頭で考えていたせいでペンが全く進んでいないことに気が付き、ペンを持った手で後頭部を小突いて気持ちを入れ替え、再び手を動かす。何故あの劇を見てリア王が思い出されたのかといえばそれは先輩の引退という発言のせいだけではないと思う。リア王の中でエドマンドはその邪悪極まる心中を誰にも明かさなかったように、演劇の台本というものは一般的な小説と違い心理描写が少ない。理由としては心の在り方は演じる役者の演技によって代弁されるからだ。故に演劇の台本を演劇として見るのではなく、物言わぬ文学として読むことになったとき、読者は台詞と動きの指示だけで物語が展開することになる。演劇の台本と小説は全く異なる代物だ。
「悪しき運命があったとして……俺は塗り替えて見せる!!」
これはリア王の中の台詞ではなく、先ほど見ていた劇で主人公が口にしていた台詞だ。壮大な音楽と共に強大な敵へ立ち向かっていく主人公には胸を熱くさせられた。しかし、自分は捻くれているのでこうも考える。そんなことは無い、と。シェイクスピアもそうだが海外の昔の文学の中には「神はいたずらに人を助けたりしない。運命からは逃れられない」という考えが根強くあるように思う。だから生まれた瞬間に決まった運命からは逃れることが出来ないという前提のもと、どのように悲劇か喜劇の人生を送るか、を“物語”として視聴者は空想の外の現実から楽しむ。現実の視聴者は明確な敵なんていないし、神は使命なんてものを民衆個人に与えてくれたりはしない。ましては苦悩に悩む時の支配者でもない。……こんなことを専門に研究している文学部の連中と話したりすれば素人の考察は凡庸だと一蹴されてしまいそうだ。しかし自分にとって物語とはそれだけに狂信的に没頭するものではなく、心を豊かにしてくれる道具でしかない。進んで学ぶような奇特な人間よりこだわりは薄い。
 感想シートの半分ほどが埋まって一睨み。演劇を構成するもので音響に照明など褒めるべきとことがまだ沢山ある。リア王を読む中でも常に頭の中にあった登場人物がいる。それはリア王の側近の一人、「道化」の存在だ。これは最近まで知らなかったことだが道化師という存在は身分の高い者に雇われ、主人または周囲の人物を楽しませる役割の立派な職業だった時代があるというのだ。笑いものとして蔑まれる対象である一方、君主に向かって無礼な物言いが許される唯一の素材でもあったらしい。そのような立場でリア王に仕える道化はリア王の置かれている状況が誰よりも早く鮮明に見えていた。リア王が王として持っていた要素を零していき、王ではなくなることをいち早く理解していた。自分自身の在り方に半信半疑なったリア王の「誰か教えてくれ、俺は誰だ?」問いかけに「リアの影」と即答した道化。そんなことを尋ねるリア王が既に過去の存在としての残りカスだと言ったのだろう。リア王の転機に飄々と現れ、そしていつの間にか消える……そんな道化が最後に姿を現したのはリア王が正常な意識を失う直前だった。その直前にリア王は周り全てが敵だと乱心する痴呆になっていた。家来に休むことを促され夕食を今食べないのであれば「朝になったら夕食にしよう」といったリア王に対し「じゃあおいらは昼になったら床に入ろう」と言って道化は姿を消した。道化はこのセリフを残し、もう出てこない。そしてその最後の言葉はリア王に届いていない。散々皮肉を言ってきたリア王とはもう会わない、その意味は知性の死んだ狂気の獣となり果てたリア王とは会う必要が無いから。知性のある人間を楽しませ、楽しむのが道化だからと言わんばかりに。
 狂人となったリア王は四台悲劇の名に違わず、周りを含めて絶望へ進んだ。リア王の長女のリーガンと次女ゴネリルは順当にいけば引き継げる財産では納得がいかず、欲に任せて冷静な判断力を失った父親から奪い取れるだけ奪い取って捨てた。そんな姉たち無残な死に方をするのは因果応報として、純真の塊だった末娘のコーディリアまで無残に死ぬのはどういうことなのか。物語の中でも理不尽をたたきつけられた気分だ。だからこそ悲劇と呼ばれる、のだろうが。道化が序盤にリア王が阿呆だと示唆するような言葉を言い、リア王の気に障って「俺が阿呆だと言うのか小僧?」と尋ねたリア王に道化がこれからのリア王を予言するように言った「他の肩書きはみんなくれちまったんだから、残っているのは生まれつきのもんだけだ」と返した台詞が読み進めていくうちに何度も思い出された。
 リア王がどうなるか分かっているくせに助けようとしない。そんな道化の存在はリア王から見れば直接的ではなかったにしろ悪と呼べる存在だろう。しかし詩郎が思うに道化は悪ではなく、誰もが持つ弱さの象徴のように思えてならなかった。狂っている、と取れる道化の行動だが、狂気という言葉ならリア王だってエドマンドだって当てはまる箇所がある。皆狂気を心の中に隠し持っている、現実に嘆き、狂うことは誰もが身近に起こりうる、そんなことを示唆しているように思えてならなかった。現実が優しくしてくれることもない。現実に理想を擦り付けて甘えようとしている状態は、既に満たされた状態からの転落を始めている……そんな風に。こんな多様な解釈が可能なシェイクスピアの戯曲を生まれた時代と場所が違えば詩郎も肉眼で見ることが出来たのかと、思うと少々この時代に生まれてしまったことを悔やみもする。人は生まれる場所だけはどうやっても選べない。これもまた現実への嘆きか。
 ペンを置く。ひとしきり意見を書き終えて誤字などがないか確認する。匿名なので気にしすぎかもしれないが、自分が文章を残す以上責任を持ちたい。上から下まで流し見て、感想シートの回収箱に入れようとしたとき、
「おあ!! まだいた!!」
思わず両目を瞑ってしまうくらい大きな声が辺りに響く。位置的に舞台にしか続かないこの廊下には今詩郎しかいない。どうやら詩郎以外の感想を書いていた人たちはとうにここから離れていたらしい。そしてこの声質には聞き覚えがある。
「そう!! そこの灰色のTシャツに茶色いズボンの君だ~~!!」
やかましいを通り越して騒音で訴えられそうな大声が響く。確か舞台美術専門だと言っていたが、それでも演劇部の一員ということなのだろうか。ドタドタと足音を立てて近づいてくる。
「いやぁ危ない危ない。もう完全に帰っちまってたと思ったぜ。良かった良かった」
大きく口を開いて笑いながら近づいてくる男性。先ほど客席で別れた演劇部の先輩に違いなかった。息を切らして汗をかいている。
「……何か僕に用事ですか?」
「おうよ、用事も用事、大事な用事よ」
詩郎としてはもう別れを済ませたつもりだったので首を傾げていると、
「名前よ、名前。聞いてなかったろ。俺も教えてないし俺も教えてもらってねぇ」
ムスッとその出来事に不満があるような顔をした。……こんなに表情が豊かな人には久々に出会った、とふと思ってしまった。思わず鼻から空気が抜けるように笑ってしまった。
「ん? どうして笑う?」
「いえ、大したことじゃありません」
取り繕って言葉を繋ぐ。
「………僕の名前は佐久比詩郎です」
「サクヒシロウ、か。俺の名前は重野慈己(しげのいつき)だ。少なくとも来年一年は大学内にいるから、挨拶くらいしてくれよ?」
「はい……シゲノ……さん」
そして握手を求めるように右手を差し出され、それに応える。
「何回も言っちまってるけど、今日はありがとな。シロウ君」
「こちらこそ、とても面白いものをタダで見せて頂いたので」
「お世辞でも嬉しい……って、なんかこの前初めて会ったときもこんなこと言ったな」
「そうでしたね」
今度は互いに笑う。
「あとシロウ君がくれた感想一語一句間違えずに言い直せる自信がないからそこの感想を書いてくれると……ってここにいるってことは?」
「もう書きました」
箱に入れる直前だった感想シートをひらりと見せる。
「なるほど、流石詩郎君だ。はっはっは」
先輩が豪気に笑う。リア王は壮絶な出来事を経て、自分の周りにあった愛の形を垣間見て、嘆き、死んだ。リア王に怒った出来事が悲惨であればあるほど、その愛は輝くのだろう。現実という空想の外から見る詩郎や他の人間に千差万別の感動をもたらすのだろう。
「はい、流石僕だと自分を褒めてあげたいです」
物語が自分に与える力はとてつもなく大きい。そんなことを考えながら詩郎も笑い返した。

「I」 澁谷拓望

「何度問題を起こしたら気が済むのですか!」
 この景色を見るのは何回目だろうな。目の前にいる青服の若男は、またお前か、といかにも迷惑そうな顔を俺に向けながら叫び散らす。
「まあまあ、あんたも暇じゃねぇだろ。俺なんかほっといて、おめぇは別の職務にでもあたってろよ」
 そう言いながら俺はこいつを落ち着かせるために肩に手をかけてやる。そしたら、こいつ、俺の手を蚊みたいに払いやがった。
「そう簡単に済まされるわけないでしょ! いくらあなたに精神病だからって、人を殴っておいてそう易々と帰すにはいきませんからね!」
 おいおい、まるで俺が悪いみたいな言い草しやがって。やっぱ、ココ最近の警察は腐ってやがるなぁ。
「そう、それ、ムカつくんだよ……よってたかって俺だけを邪険に扱いやがって……あいつ……アイツらが悪ぃんだろうが! せせら笑ってきたアイツらがよォ! こっちも一人でいたくているんじゃねぇんだよォ! オマエらは家族とかいて分かんねぇだけだろ! ふざけんじゃねぇ!!」
 俺は座っていたパイプ椅子を持ち上げてそこら中にぶん回してやった。何かが割れる音や、金属に当たる音がしたが、そこから当分の記憶は忘れちまった。
 いつの間にか、夕焼けに照らされたビルの黒影の景色が目に入ってきた。どうやら既に、あの警察の溜まり場から抜け出してきたらしい。ふん、何度捕まったって構わねぇ。金だけはいくらでもあるからな。そう考えながら、俺はそこら辺の公園のベンチに腰をかけ、足を組みながら一服した。毎日雛鳥のように叫ぶガキ共やその連れの女達はいない。聞こえてくるのは人生の終わりを寂しく叫ぶセミの鳴き声だけだ。それでいい。ガキ、特に女の鳴き声を聞くとまた殴りたい衝動に駆られちまう。
「ふう……」
 煙が三本に枝分かれしながら空中に消えていく。……アイツらは、愛を知らないんだ。

「やっぱり、私達が会社を継ぐのは早いと思うよ」
 こいつは一体何を言っているんだ。私が、私がどれほど、他の人に頭を下げたり、準備をしてきたのか、分かっているのか。
「は、華! お父さんだって色々考えたり、凄く準備したりしてくれてたんだから、そんなこと言うのやめよ?」
「そ、そうよ! お父さんは、早めに会社経営に慣れさせてあげようって厚意があってやってくれたんだからさ! 」
 伊代と露衣は、私からの愛を受け止めてくれているらしい。なのに、華、お前は私が一番手塩にかけて育ててきたはず、なのになぜそんなことを言う。
「うーん、でも私達まだ仕事慣れしてないし、それで経営者になっちゃったら、お父さんにも会社にも迷惑かかっちゃうよ。だから、私はやめた方がいいと思う。」
「……お前は私の苦労を知ってそう言っているのか?」
「知っているよ。でも、これから迷惑をかけることに比べたらマシよ。」
「……出ていけ」
「え?」
「お前は今日からこの会社の人間じゃない。そして、私の娘でもない。お前は赤の他人だ。部外者はここから立ち去れ。」
「……わかったよ。」
 華は、迷うことなくその場から去った。私への愛など元からなかったのだろう。ふん、親不孝め。お前が出ていったその扉は地獄への扉だ。後悔しても一生戻れないぞ。私の怒りは、あいつが出て行った後も赤く煮えたぎり続けた。

「お父さん、そろそろ老人ホームに入らない?」
「そうよ! この家で私たちと暮らしているよりずっと楽よ!」
 こいつらは一体何を言っているんだ。私が何年もかけて手に入れたこの社長宅をみすみす手放すと思っているのか。
「ふざけるな、誰がこの家に住ませていると思うんだ。身の程をわきまえろ。」
 私は親孝行を促すよう、愛のある躾としてそう言い放った。しかし、二人の娘はさっきまでの満面の笑顔が嘘であったように、私の顔へ牙を向け毒を吐き始めた。
「はぁ……いつまで社長面してるの? お父さん? 今経営者は私達。お父さんはただのお目付け。これ、何言ってるか分かる?」
「そうよね、伊代。誰に住まわせてもらっているって? そんなの私達がお父さんを住まわせているだけですよねぇ? 困るわよ、お父様、子供みたいなワガママは。」
 私の脊椎に毛虫が走った。コイツら、今までいい顔をしていたのは演技で、私の愛をあだで返すつもりか。……許せない。
「……出ていけ」
「は?」
「この家から出ていけ! このメスガキどもめ!」
 私は裏切り者への制裁のつもりでそう叫んだ。しかし、叫んでまもなく私の頬を何かが通り抜けた。ガラスの割れる音が続けて聞こえる。頬から何か暖かいものが垂れ流れるのを感じる。
「……出ていくのはてめぇだろ、思い上がんじゃねぇぞ?」
 それからまもなく、私は強制的にその家を追われた。最後に見た娘の顔は、まるで私をゴミのように見下した顔だった。こいつらは、分かっていない。私が……俺が……

「お前らにどれだけ愛を注いだと思ってるんだ!」
 壁を殴る。殴った右手に鈍い痛みが走った。思ったより強く殴ったせいか、隣の部屋から怒声が飛び交う。
「うるせぇな! 夜中ぐらい静かにしてろや!」
 その声を聞いてようやく我に返った。また昔のことを思い出していたらしい。困ったものだ。最近はこの手の行動をよくやってしまう。気を付けなければな。俺は、二日酔いを覚ますように首を横に振る。周りを見ると、いつの間にか公園から、暗闇が支配する室内に変わっていることに気付く。
「なんだ……戻ってたのか」
 そう、ここは俺の今の部屋だ。奴らに追い出されてから老人ホーム、独房、精神病棟と点々としてきた。精神病と診断されるのは少々癪に障るが、誰もいない部屋に来たのは好都合に思っていた。他人と一々関わる必要がなくなるからな。ただ、窓の外に見える景色が少ないのは少し残念だな。今日も月明かりはひとつも見えない。今俺の目から確認できるのは、赤いスポットライトで照らされたビル影だけだ。
 次の日、また病棟を抜け出してその辺を渡り歩く。別に目的などない。ただ歩き、ただ座る。これをしてないと、人間じゃなくなりそうな気がするからやっているだけだ。そう考えている内に、また一人公園のベンチで座る。いや、目の端に女のガキ一人がチラつく。目障りなノイズだ、全く。そしたら、そいつが話をかけてきた。
「おじさん一人?」
「……うむ、そうだ」
「なんで一人なの?」
「……うむ」
「寂しくないの?」
「……」
『ひとりぼっちなんて醜いよジジイ?』
「……今なんて言った」
「……え?」
「……俺が醜いだと! このガキがあぁぁぁぁ! 」
 俺はそのガキの鼻っ面を思いっきりぶん殴った。ガキの体はとても軽く、気持ちいいくらい離れた場所へすっ飛んで行った。倒れ込んだガキは、そのままノロノロと立ち上がり、黄色い帽子の上にドボドボと赤い液体を垂れ流した。
「痛い! 痛いよぉ! そんなこと言ってないのに! 」
 ガキが泣きじゃくり始める。だが、どうも怒りがおさまらない。俺はガキの髪を引っ張り上げ、もう一発殴ろうとする。そしたら、またガキが俺をせせら笑いながらこう言い放った。
『怒り任せに行動するからこうなったんでしょ? いい加減に分かれよジジイ』
 その言い草は、まるで俺の三人の娘の生き写しのようだった。俺は、怒りに任せて地面にそのガキを打ち付け、力いっぱい踏み付けた。まるで、悪い記憶を消し去るように。
「何やってんだこのジジイ!」
 右頬をバットで殴られたような感覚がした。木々の葉がゆっくり落ちて見える。歩道の通行人はまるでロボットのようにノタノタ歩いてる。気付いたら、俺は宙に浮いていた。さっきのガキの方を見る。その近くには、金髪で目付きの鋭い狼のような男が立っていた。
「あああああ!」
 砂場に打ち付けられる。右頬が引きちぎられたように痛む。その痛みに思わず叫び声をあげた。痛みに悶える暇もなく、俺の身体の上に重い物がのしかかる。
「俺の娘によくもこんなことしてくれたなぁ、ジジイ? 覚悟は出来てんだろうな? あ?」
「ひ……ひっ!」
 顔を殴られる。また殴られる。途中からは、もはや殴られてるかすら分からなくなった。この景色は……一体なんだろう? 目の前の景色は黒。顔中が何かの液体まみれになっているのは分かる。それじゃあ、この液体はいったい……。

 体中が何かに暖かく包まれている心地がする。俺は、その温もりが今までの何よりも心地良くて身を委ねた。不意に肌に何か細く冷たいものが触れる。それは、あやすように、俺の肌を優しく優しく撫でた。俺は、この感覚を覚えている。これは、母親の温もり。優しい愛の温もり。俺が今まで忘れていた人の温もり。突然その感覚はなくなり、何かが立ち上がる音が聞こえた。待ってくれ。行かないでくれ。俺は、その存在を見逃すまいと目を見開いた。華奢な身体に、腰まで伸びた長い黒髪。俺はその後ろ姿に見覚えがあり、思わず声を出した。
「は、華?」
 そう、それは末娘の華だった。
「あ、お父さん。起きたんだ。良かった。」
 私は呆気に取られた。こいつは、俺へ愛想をつかし会社も家も出てどこか違うところに行っていたはず。
「ど、どうしてここにいるんだ?」
「ああ、それね……。」
 華は、何故か焦るような素振りを見せながら、そっぽを向いた。そして、気付いたように右腕の二の腕辺りに手を置き、言葉を続けた。
「お父さんを馬乗りになって殴ってたのウチの旦那なの……。」
「お、お前……結婚していたのか?」
「う、うん。それで、なんで殴ったのか理由聞いたら、ウチの娘が父さんに殴られたからって言って。でも、絶対そんな訳ないと思って、彼横暴だし、また勘違いして殴り掛かったのかなって。それで何とか引き離して、ここにお父さんをここに連れてきたの。ここ、お父さんが今住んでる場所よね?」
「あ、ああ。」
 目の前の娘に驚き、周りをよく見ていなかったが、確かにここは俺が住んでいる精神病棟の一室だ。そして、それに気付いた瞬間、顔に鈍い痛みが戻ってくる。
「痛たた……」
「大丈夫? お父さん? 一応手当てはしたのだかれど……」
 ……コイツ。俺に愛想を尽かしたんじゃなかったのか? なんでそんなこと……。俺は思わずその疑問を口にした。
「華……お前、俺に愛想尽かして出ていったじゃないか。なんで今になって俺に手当したりするんだ?」
 俺の発言に対し、華は恥ずかしそうな、困ったような微妙な顔をしながら、口元を微笑ませ、返答した。
「ああ……確かに、あの時は怒った勢いで出て行っちゃったけど、私、お父さんに愛想尽かしたりなんて全然してないよ? あの人と結婚してからも、あの家に何度も電話かけたもん。いつの間にかお父さん出てっちゃって姉さんしか出なかったけどね。」
「……嘘をつけ、お前は俺の愛を受け止めず反発したじゃないか。本当は、あの時もう愛想尽かしてたんだろ?」
「……お父さんさ、愛を全て受け止めるってことが愛への返答の全てなのかな?」
「……ど、どういうことだ?」
「私、不器用で上手く伝えられなかったけど、私はお父さんに迷惑をかけたくなかった。愛を受け取っても、それがお父さんの負担になっちゃうって思って。だから、私はお父さんの言うことを断ったの。」
「……そ、そんなこと」
「じゃあ、愛してもない相手を好んで手当したりすると思う?」
「……」
 その言葉に俺の……私の何かが崩れ落ちた。私は、何か大事な物を今になって思い出した気がする。不意に目の中から大粒の水が流れ落ちる。朝日が差し込み白く輝く俺の部屋は、それによってぼやけて目に移った。
「……あ、そろそろ行かなきゃ」
 華は、なにか決心したような顔つきで再びドアに手を掛けた。彼女が行ってしまう。私は、また不意に言葉を口にした。
「は、華!」
 彼女はゆっくりとこちらに振り向いた。目には何故か涙を浮かべている。
「何? お父さん?」
「……ま、また会おうな」
「……うん、また……会えたらね?」
 華は、名残惜しそうに部屋をあとにした。
 ……私は、身近にいる青い鳥に気付かなかったチルチルだったのか。はたまた、現実を直視せず狂気に陥った老いぼれのリア王だったのか。あるいは、どちらもだったのかもしれない。窓の外に目を向ける。この建物にある色鮮やかな花畑が目に入った。こんなものがあったのか。私は、笑い上戸のように声を出して笑った。先程から涙が止まらない。私は、笑うのをやめ呟いた。
「スケープゴートだった。」
 私は、自分の行いへの後悔に胸を締め付けられた。自分から手放した幸せだったのに、それに苛立ち、他者の幸せへの攻撃に転換していた。私は、今までの行いに対して娘に謝らなければいけない。そう思い立ち、華の家を訪ねる決心がついた。
 私は、気付いていなかった。世界は、こんなにも色鮮やかだったのか。私は、狭い牢獄に囚われていた。いや、自分からそこに住みついていたのかもしれない。私は、愛を全て肯定するのが正しいと思い込んでいた。しかし、それはまやかしに過ぎない。伊代と露衣は、肯定はしても、私を真には愛していなかった。しかし、華は、あいつだけは、私を心から愛してくれていた。私は、あいつに会いたい。会いたい……。
 ようやく彼女の住むアパートを見つけた。朝から何も飲まず食わずで歩いた足は既に使い物にならず、ゾンビのように足を引き釣りながら先へ進んだ。ようやく会えるんだ。早く、早く行かねば……。
 不意に近くにあるゴミ置き場の中に白い脚が見えた。これは、なんだろう。私は、そんなものは無視すればいいのに、なにかどうしようもない不安に囚われ、その脚の行方を追った。ゴミをかき分け、その全体像を確認した。
「あ、ああ、あ」
 女の裸体だった。その肌は光のように真っ白で、華奢な身体は骨が浮かび上がるほど痩せこけ、長い黒髪は打ち付けられたかのようにそこら中に散らばっていた。そう、これは、まさしく、
「は、華……」
 華だった。身体を覆う白い肌の上そこら中に紫陽花のような斑点模様が浮かび上がり、右の二の腕には一際大きな花が咲いている。端正だった顔は、あべこべに歪み、その上で固まった血はまるでペンキのようにこびり付いていた。私は……泣かなかった。私は、その亡骸を抱きかかえ、華の家にゆっくりと向かった。
 華の家は散々に荒らされていた。あの狼のような男はどこにもいない。多分、森の中へ帰っていったのだろう。そのままリビングへ向かう。リビングでは、私がつけた痣はそのままに、華の娘がソファに横たわっていた。死んでいるのか、寝ているだけなのかは分からない。ただ、今はそっとしておいてやりたかった。私は、部屋の床に華を置き、持っていたライターで部屋に火をつけた。ジワジワと火が部屋中に拡がっていく。その火はすぐに華の亡骸を包み込んだ。私は、泣かなかった。涙が枯れていたのか、悲しくなかったからなのかは分からない。いや、私は幸せだったのだろう。最後に私は、気付くことが出来たのだから。私が、私でいるために成り立たせてくれる、他人からの愛に気付けたのだから。
「私は、やっと私を見つけることが出来た。」
 白く輝く炎は眼前を覆い隠していった。

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