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「歪なリンゴ」 落合健太郎

(以下は2021年10月17日の金原のブログからの転載です)

 もう数週間前になるが、ぼくが担当している「創作表現論」という大学の授業で、桜庭一樹の「少女を埋める」を読み、さらにこれをめぐる桜庭・鴻巣論争を調べて、それをもとに作品を書くという課題を出したことがあり、そのとき提出されたもののなかからいくつか選んで、ここに載せてきたのだが、もうひとつ。

「歪なリンゴ」 落合健太郎

 本稿では、桜庭一樹と、朝日新聞の文芸時評において桜庭の著書『少女を埋める』を取り上げた鴻巣友季子の間でおきた論争について論じる。
 事の発端は、朝日新聞で連載されている鴻巣の書評でおきた。「ケア労働と個人 揺れや逸脱、緩やかさが包む」と題された文章で、ケア労働の描写を含む作品として幾つかの作品が取り上げられ、そのうちの一つに『少女を埋める』が含まれていた。鴻巣はあらすじで、主人公の母が看病しながら父を虐待し、それが弱弱介護の密室での出来事であると述べた。
 これを受けて桜庭は今年の8月に、twitterで以下の文章を立て続けに投稿した。「この記事でご紹介いただいたのですが、わたしの原稿に〝介護中の虐待〟は書かれておらず、またそのような事実もありません。わたしの書き方がわかりづらかったのかもしれず、その場合は申しわけありません。影響の大きな媒体であり、とても心配です。否定させてください。」(午前8:56 · 2021年8月25日)、「〝記憶の中の母は(略)怒りの発作を抱えており、嵐になるたび、父はこらえていた〟〝「不仲だったころもあったよね」「覚えてない」〟(p28)は健康だった若いころについての話であり、〝「いっぱい虐めたね。(略)ごめんなさいね……」(覚えてたのか……)〟(p43)もそれについてのやりとりです」(午前9:22 · 2021年8月25日)、「〝健康な夫婦の不仲〟と〝病人への虐待〟は全く違うことですので……。事実ではないデマが広がってしまうだろうととても懸念しています。」(午前11:42 · 2021年8月25日)。こうして論争の火蓋が切られたのである。
 これに対して鴻巣はEvernoteに、「8月の朝日新聞文芸時評について。」という文章を投稿し、桜庭の批判に応答した。その中で、『少女を埋める』はあくまで創作であり、また一つの小説であるから、作者の家族に関する「事実」については切り離して考える、と述べた。後半部では、小説は多様な「読み」にひらかれているということを強調した。
ここまでを見ると、議論の争点は、テクストの解釈における主体が作者にあるのか、あるいは読者にあるのかという点にあるように思える。しかし、実はその点についての考えは、両者にそこまでの乖離はない。桜庭は先述の投稿の後に、以下の文章をツイートした。「問題としているのは「評者が読み解いた解釈を、テキストにそう書かれていたかのようにあらすじ説明として断言して書いた」ことであり、それ以外の部分(読者それぞれの自由であるはずの作品への解釈など)に論点がずれないようにと危惧しています。」(午後1:37 · 2021年8月26日)。つまり両者ともに、テクストの解釈が読者に開かれているという考えは一致している。むしろ問題となっているのは、あらすじと評者の解釈が混同しているのではないかという点である。
栗原裕一郎は、週刊新潮の「文芸最前線に異状あり」でこの論争の問題点を(1)~(4)にまとめた。そのうち(1)(2)が、それぞれ(1)客観的なあらすじは可能かという問題、(2)評者が作品の空白を補った解釈をあらすじとして示すことは妥当かという問題、である。(1)について栗原は、要約は評者による取捨選択(解釈)が不可欠であるため、避けがたく批評的な面を持ってしまう、と指摘した。そして、(2)については、「あらすじと解釈は分離不可能」とする鴻巣に対し、空白に対する解釈はあらすじから分離し、評者の主観であることがわかるようにするべきだというのが桜庭であると説明する。
あらすじとはつまり、個々の具体的な出来事の連続であるが、そこには当然時間の流れがある。小説世界における時間の流れは、現実世界とは大きく異なる。現実において、「一年後」といって突然時間の流れが途切れることはありえない。読者は、小説内における時間の流れの断絶、そしてそれによって生じる空白を独自に解釈する。現実世界の時間の流れを、文章によって完全に再現することが不可能である以上、これは避けられないことである。つまり、あらすじを認識すること自体が解釈することでもあると言えるだろう。したがって、あらすじと解釈は分離不可能であるというのが妥当であるように思われる。
だが、かといってあまりにも独自性の強い解釈を書評のあらすじの中で披露すれば、それは批判されて当然だろう。そもそも読書という行為は、規則的に配置された文字列を、読者が頭の中でイメージとして想起し、解釈する行為である。同じ文字列であっても、イメージとして浮かび上がる過程で、それぞれの読者によって異なる解釈がなされる。例えば、「リンゴ」という文字をみて、人びとが想起するリンゴの形や色に若干の差異はあるだろう。だが、球形の手のひらにのるサイズの物体であるということは、誰もが共有する認識である。それを、黒い棒状の巨大な物体として解釈して人に伝えれば、困惑されて当然である。では、件の鴻巣書評は共通認識の枠から外れたものであるかと考えた時、微妙ではあるが、枠外とは言えないのではないだろうか。例えば、亡くなった父の出棺の際に母が、「お父さん、いっぱい虐めたね。ずいぶんお父さんを虐めたね。ごめんなさい、ごめんなさいね……」と言う場面がある。その他にも主人公が子供の時に母から暴力を振るわれていたことや、祖母が幼い母を折檻したという描写がある。繰り返し描かれる様々な形の暴力とその連鎖は、本作において一つの重要なテーマであることは明らかである。それが介護中に増幅されるだろうと解釈するのは不思議ではない。
ここにきて、ひとつの疑問が浮かび上がる。一体なぜ桜庭はここまで鴻巣書評を問題視したのかということである。モデルとなった桜庭の実の母への風評被害を避けるためというのは、桜庭が何度も主張している事である。しかし、本作を読めば、鴻巣があげたような母の側面というのは読み取られてしかるべきだろう。そもそも、桜庭をモデルとした冬子の語りからは、母への憎しみすら感じられる。
桜庭は一連の批判ツイートの中で以下の文章を投稿している。「評者はおそらく、作品を斜め読みし、内容を勘違いし、ケア、介護という評のテーマに当てはめるために間違った紹介をしてしまったのだろうとわたしは想像しています。指摘されたけれど、認めたくなくて、改めて読み直し、言いわけに使える箇所がないか探したり一般論を駆使したりしたんじゃないかと。」(午後0:32 · 2021年8月26日)。
鴻巣が付けた書評の題は、「ケア労働と個人」である。このテーマに当てはまる作品が複数、評者によって選ばれ、テーマに沿って作品が語られる。『少女を埋める』の主題は、ケア労働だけではない。終盤で繰り返される「共同体は個人の幸福のために!」というフレーズに表れるように、共同体に個人が埋没されることへの批判も重要なテーマである。あるいは、男性の暴力に怯える・抗う女性の姿も繰り返し描かれる。つまり、桜庭が問題視したのは、作者が託した抽出不可能な感情や考えが含まれた作品が、評者に都合よく、道徳的な主題に還元されたことなのである。その過程において、ひとつの主題に還元されるのと同時に、いくつもの命題が捨象されているのである。
さらに、この作品においてその問題をより深刻化させているのは、半自伝的小説であることに起因する。いわば、本作の物語は桜庭にとって、自身に固有の記憶であり、歴史である。その実際の個人的な出来事に、後から他者にとって理解可能な意味付けをするということは、言い換えれば、個人の内的な閉じられた世界を、共同体が共有する常識によって覆いつくすこととも言える。この構図自体が、桜庭が『少女を埋める』で問題としたことではないか。つまり、ある意味では桜庭の主張は論争のはじめから、さらに言えば小説執筆の時点から一貫しているのである。
とはいうものの、紙面上の限られた字数で複数の作品を取り上げなければならない文芸時評という特性上、仕方のないことではないかとも思える。鴻巣からすれば、そんな無理難題を言われても、という話かもしれない。またそもそも本稿じたいが鴻巣書評と同じ轍を踏んでいる気がしてならない。こんな勝手に解釈してよいのだろうか。