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「確かにそこにいた」 落合健太郎

(以下は2021年12月16日の金原のブログからの転載です)

 創作表現論Ⅱで、またいい作品が出てきたので、載せます。
 大学の授業というのは、本当に疲れます。準備も大変だし、提出された課題や訳文を読んで評価するのも大変です。しかし、たまにこういう作品が出てくると、あと1年か2年は大学で教えようかという気持ちになります。

 知り合い何人かに送ってみたところ、こんな感想がきました。

・結末が、絵を描いた死刑囚を思う方向ではなく、自分自身も含めて犠牲者になりうる人たちへの祈りに向かっているところが、とくによかった。
・自分の気持ちの変遷を、丁寧に、的確に書けているところがすごいかも。
・混乱の中に答えをみいだせないのがすごくリアルで、だからこそ、最後のひとことが強く響いてきます。
・冒頭に書かれた日常生活の具体的な描写と、展示会場の非日常との対比もいいですね。

「確かにそこにいた」 落合健太郎                                             

 11月7日、日曜日。24時までに提出しなければならない課題があった。昼にペペロンチーノを食べた。急いで食べていたから味はあまり覚えていない。書くことは大体決まっていた。すでにあらすじはgoogle keep に書いてある。あとは書き始めるだけだ。まだ時間には余裕があるから、帰ってから書こうと思った。
 前日にネットのニュースを何となく流し読みしていた時、ある記事を見つけた。死刑囚表現展2021が都内で開催されているという記事だった。津久井やまゆり園事件の植松聖死刑囚など、有名な死刑囚たちが描いた絵が展示されているというのだ。時間があれば観にいこうと思った。だが、開催期間を見ると11月5日から7日までの3日間だけのようだった。行くとしたら明日しかない。課題を終わらせてから行こうか。とりあえず明日になったら決めようと思った。
 翌日の午前にパソコンで課題をやっている時、ふと展覧会のことを思い出した。つまり、その時まで忘れていた。少し調べると、最終日は午後5時に終わるという事が分かった。会場の松本治一郎記念会館は、電車で自宅から1時間30分程かかる。行くだけで疲れそうに思えた。展覧会とは言っても、素人が描いた絵である。わざわざ観に行かなくても、ネットで検索したのをみれば十分じゃないかとも思った。
 ただ、こういう時に行かなかったのを後になって後悔することは少なくない。高校生の時に、地元の名画座で上映されていた『チリの闘い』というドキュメンタリー映画を、観に行く途中で止めたのをいまだに後悔している。また別の時期に同じ映画館でやっていたサミュエル・フラー特集で、何本か上映していた作品のうち『ベートーヴェン通りの死んだ鳩』だけを観に行かなかったのも後悔している。別に今、探して観ようと思えば観られるのだが、概してそういうものはずっと観ないままなのだ。それなのに、あの時行けばよかった、という考えは数年の時を経ても感情を持って想起される。私はその鬱陶しさを恐れて、行くことにした。
 行きの電車に揺られながら、展覧会のことを少し調べると、既に観に行った人のツイートがいくつか見つかった。年に一度開催されるこの展覧会は、今年で17回目を数える。毎年通う熱心な観客もいるらしく、過去の作品と比べ、今年は誰が出して、誰が出さなかったということや、画風の変化などに注目するそうである。そしてどうやら、鑑賞後はアンケートを提出するようだ。
私は道中、アンケートに何を書こうか考えた。そもそも自分はなぜこの展覧会を観にいこうとしているのか。
 死刑囚たちに、プロの画家はいない。そして、この展覧会は作品そのものの価値から注目を集めている訳ではない。「死刑囚」による作品だから注目されているのだ。「死刑囚が書いた絵」と言われて想像されるのは、理解不能で不気味な絵や、異様に緻密な絵かもしれない。とにかく「死刑囚」という言葉、イメージは、そういう普通ではない雰囲気を想像させるものだ。だが、検索して出てくる過去の作品をみると、確かに不気味な絵が多いものの、技術的に傑出している訳ではく、不気味さというのも捻くれた思春期の子供が描くような類のものにも思える。
 要は、死刑囚表現展を観に行く動機というのは、「世にも珍しい死刑囚」がつくったものを見てみたいという、俗悪な性根によるものなのだ。それに気づいた時、自分の醜悪さが嫌になった。見世物小屋に並ぶ小市民、売春婦を品定めする男。欲望に忠実な衆愚の一人ではないか。アンケートにはそれを正直に書こう。私が、悪趣味な俗人であることを告白しよう。
 東京メトロ日比谷線八丁堀駅から3、400メートル先に松本治一郎記念会館がある。地上7階建てビルの入り口には、死刑囚表現展のポスターが貼られていた。中に入ると、壁一面に立憲民主党や部落解放同盟のポスターが敷き詰められている。建物全体から党派性が発せられているようで圧倒された。エレベーターで5階まで上がると、展覧会会場にたどり着いた。会場といっても広いオフィス一部屋であった。受付で資料を受け取り、私は観衆の中に紛れ込んでいった
 作品の下には、題名と作者が記された紙が貼ってある。作品を観てから、作者を確認すると聞いたことのある名前で驚く。和歌山毒物カレー事件の林真須美、秋葉原通り魔事件の加藤智大などニュースで知っていた死刑囚の作品が目の前にある。間近だと、その筆跡がありありと見え、描いた当人の姿が近くにあるように感じる。あの恐ろしい凶悪殺人を起こした死刑囚の存在に実感が湧く。あの事件も、そしてあの犯人も、実在していたのだ。自分が生きているこの世界で起きた出来事だったのだ。その時感じたのは恐怖ではなかった。何か分からないが、とにかく気分が悪くなり、吐き気を覚えた。
 作者名は必ずしも実名ではない。ペンネームを使う者もいる。特に目を引かれたのは、露雲宇流布(ろーんうるふ)と称する者の作品だった。和紙に書かれた書から、ピカソ風の絵画まで幅広い作品が多数展示されていた。閉じ込められていた表現の欲求が解放されたような自由で力のこもった作品が並ぶ。名前から、左翼のテロ犯ではないかと推測した。
 他に鬼滅の刃のキャラクターを描いた山田浩二(寝屋川市中1男女殺害事件)、非常に緻密で卓越した風間博子(埼玉愛犬家連続殺人事件)の作品が印象に残っているが、一番時間をかけて観たのは堀慶末(名古屋闇サイト殺人事件)の作品だった。20作ほど展示されていたが、全て鉛筆で描いた若い女性の肖像画だった。単純になぜ女性の肖像画ばかり描くのか不思議に思った。闇サイト殺人事件については、一人の女性を複数人で殺した位のことを何となく覚えていた。何か女性に対する執着があるのだろうか。そして、唯一モデルとして明記されていた女性アイドルは、これを見たらどう思うだろうかと考えた。
 全てを観終えた時には頭が混乱していた。アンケート用紙を前に、何も言葉が浮かばなかった。感想の欄が白紙のアンケートを提出し、部屋を出た。エレベーターを待つことが耐えられなくて、階段で下りた。ポスターの群れを背に、逃げるようにして建物の外へと出た。午後5時を過ぎ、外は冷たい風が吹いていた。
 帰りの電車で、露雲宇流布の正体を調べると、簡単に答えにたどり着いた。長谷川静央という男らしい。金を使い込んだ末に勤務先の社長を殺して無期懲役となり、出所後に遺産相続で揉めた弟を殺して死刑になった。左翼でもなければ、思想性のかけらもない直情的な犯行だったことに少しがっかりした。
 堀慶末についても調べ、彼の経歴を知った。闇サイト殺人事件の後に、それまで未解決だった事件への関与も判明しており、殺した人数は3人だった。在日朝鮮人3世として生まれ、後に暴力団組長になる父親が暴力を振るう家庭で育った。学校での教員からの暴力や、父親の放蕩によって人生の方向性が歪められていた。
 こういう展示を見れば、死刑囚も普通の人と変わらない人間だと思うようになるのだろうか。展示を主催する団体の狙いもそこにあるのかもしれない。だが、私は自分が死刑囚たちと決定的に異なる人間なのだろうと確信した。私は人を無残に殺せないだろう。むしろ、抵抗すら出来ずに殺される人間の側なのだろう。それでも。だからこそ、彼らが殺されていくのが哀しい。生きていてほしいと思った。それを声高には言えないが、みんな死なないでほしい。