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「白と黒のコントラスト」 嵯峨明

(以下は2021年6月19日の金原のブログからの転載です)

前々回に引き続き、創作表現論の秀作です。テーマは同じく「縦と横」

「白と黒のコントラスト」 嵯峨明

 昨日の夜に作ったカレーが思ったより美味しくできたことが、深鈴にとってここ最近で一番の喜びだ。短時間で、かつ家にある食材だけで作った肉なしカレーでこんな幸せな気持ちを抱けるとは予想だにしていなかった。恐るべし、カレーである。
「昨日のカレー食べた?どうだった?」
 朝起きて、おはようを言うよりも先に隼人に尋ねた。余ったカレーが鍋の中でどっしりと構えているのを横目にして彼はこういった。
「あーうん、食べた。美味しかったよ」
 隼人は牛乳を容赦無くコーンフレークに浴びさせている最中だった。朝ごはんはお米派のくせに、なぜ今日に限ってコーンフレークなのか、という嫌味を言いそうになるのを抑えて、炊飯器のなかを覗く。まだ三食分ほどのお米が残っていたので、深鈴は牛乳を口からこぼしている隼人を無視してカレーをよそうことにした。
「深鈴、暇があったらこれ解いてみてくれない?」
 旨さとコクが増した2日目のカレーを堪能し、自分カレー屋開けるんじゃないかという妄想を繰り広げていたところに、隼人が横から何か差し出してきた。それが自作のクロスワードであることを、あの白と黒のコントラストから悟ると深鈴は目を通さずにテーブルに置いた。その一連の流れは自然なもので、まるで最初からそうやるように決めていたかのようだ。隼人も見慣れた様子でそんな深鈴を見つめる。
「ねぇ、本当に、今回は忘れないで解いてほしい」
「うん、わかったー」
 深鈴はやる気のないギャルの女子高生みたいな返事をする。いつもなら一度しか頼まないのに今日は念入りに頼み込んできた。珍しいな、とは思いながら、カレー屋の妄想を再開させる。隼人も、不安げな表情を残しながらもコーンフレークを喉に流し込んだ。
 スマホを見るともうすぐ8時になろうとしていた。朝からミーティングが入っていたことを思い出した深鈴は、慌ててカレーで汚れた皿を流し場へ放り投げるように置く。一方の隼人は優雅にコーンフレークを食べている。ただでさえ時間がなくてイライラしているのにはその姿を見ると喧嘩をけしかけそうなので、とにかく家を出ることに集中しようとした。そんなところに再び、例のクロスワードを隼人が差し出してきた。さっきテーブルに置いたままにしていたのだ。
「これ」
 観念したように深鈴はため息をつく。またどこかに置き去りにしても同じことになりそうなので、仕方なしに会社へもっていくバッグに乱雑に押し込む。紙がグシャと音を立てる。隼人は自作のクロスワードの安否を心配しながらも、行ってらっしゃいと深鈴を見送った。
 早足で駅へと向かう途中、深鈴は明日の休みは何をしようかと考えていた。冬物をクリーニングに出したいな、布団も干したい、それから1人映画もいいな。いっそ全てやろうかな。ふと隼人がしつこく渡してきたクロスワードが頭を過ぎる。学生の頃は、よく頼まれて解いていた。でも最後までできた試しはほとんどない。できたと思っても間違えていたりすることもよくあった。それでも頑張って解こうとしていた自分の姿を思い出す。よく頑張っていたな、と思う。無理して隼人に合わせなくてもよかったのにね、なんてことも思う。
 隼人と深鈴は大学2年の冬ごろから付き合いだし、卒業と同時に同棲を始めた。隼人は文芸サークルの部員のくせしてクロスワードしか作っていなかった。だったらクイズ研究会とかに入ればいいのにとみんな思っていたが、クロスワードは国語だから、という理論を彼は一歩も譲らず、きっちり4年間在籍していた。深鈴も文芸サークルに入っていたが月一度行くか行かないか程度で、隼人と付き合いだしてからは一度も顔を出さなかった。サークルの同期たちは私たちが付き合ったことに心底驚いていて、それが恥ずかしくて行くのをやめたところもあった。
 交際を初めて来週でちょうど6年が経とうとしていた。深鈴も隼人も周年記念日を祝うのは趣味ではなかったため、今まではあまり気にせずに生きてきた。けれど、6年といえば子供が生まれてから幼稚園年長にまで成長する年月である。少し感慨深かった。と同時に隼人は1ミリも気にしていなさそうな気もしてくる。気がしてきただけなのに、なんだか自分だけが浸っているみたいで恥ずかしく、少しは考えろよと一方的に腹が立ってきた。朝からずっと隼人のことでイライラしている自分に気がつく。深鈴は駅の改札で小学生に二度見されるほどの大きなため息をついてしまっていた。

「深鈴さん、明日のお休みは彼氏さんとどこか行くんですか?」
 会社の後輩の恵麻はミーアキャットによく似ている。大きな目をキョロキョロさせて、細くて長い首を自由時際に動かす。そんな彼女に聞かれた質問に、深鈴は数秒止まってしまった。ここ一年近く、隼人と外出していないことに気がついたからだ。去年の隼人の誕生に動物園に行ったとき以来だ。それこそ、フェンスの向こうで首を伸ばすミーアキャットの姿は恵麻そっくりで、会社に来ている気分になったのを覚えている。
「うーん、多分家にいるかな」
 まさか一年もデートしていないとは言えず、誤魔化した。それに対して、彼女はさすがですね、という返事をしたが、そうじゃないんだよ、と深鈴は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。新入社員の恵麻にとって、6年交際している彼氏と同棲中の先輩というのは、憧れの存在らしい。すぐに隼人との話を聞きたがる。私も素敵な彼氏との安定した暮らしがしたい、と言うのが口癖だ。その度に、素敵な彼氏かぁ、安定した暮らしかぁ、と考え込んでしまうのだった。
 家に帰って隼人に、恵麻に明日は彼氏と出かけるのかという質問をされた話をした。隼人は、恵麻ちゃんってミーアキャットちゃんか、と言っただけで出かける話にはちっとも触れなかった。それどころか、カレーうどんを食べている深鈴の横で、焼うどんを食べている。嫌味っぽく、カレーまだあるよ、と言っても、うーん、としか言わない。深鈴は、朝は6年も一緒にいたことに感動を覚えていたのに、今では6年も一緒にいた自分にひどく驚いていた。
 潮時かなと思ったことがないと言えば嘘になる。けれど、別れようとは思ったことはなかった。喧嘩は少ない方だし、浮気性なところもない。いや、だからこそずるずると引きずってしまっているのかも、と深鈴は考える。別れる理由がないから別れない。けれど一緒にいる理由も無くなってきていた。朝起きて各々が食べたいものを食べる。眠たい時に各々で寝る。彼氏というよりも、同居人としての色が日に日に強くなった。最近いつ、一緒に感動したのかも覚えていない。深鈴と隼人は同じ空間を別のベクトルで生きている、ただの人間同士になっていた。2人のベクトルは全く触れ合わず、これから交差する未来も見えない空間を。隼人のことは嫌いじゃないけど、とは思う。嫌いじゃないけど、この一緒に過ごした6年をこれから先、何回も何十回も繰り返していきたいとは思えなくなっていた。

 別れを切り出したのは深鈴だったが、お互い暴れることも泣くこともなかった。淡々とした流れはまさに倍率1の高校の入学手続きのようで、そのスムーズさこそが2人の付き合っていた年月をよく表していた。別れようか、うん。部屋出るね、うん手伝うよ。今月中には出た方がいいかな、部屋が決まるまでいいよ。
 よく考えれば深鈴にとって初めての一人暮らしだった。大学生の頃は実家にいて、卒業してすぐに隼人と暮らし始めた。子どもの頃に、大人になったらどんな風に自分の家をデザインしようかとワクワクしながら妄想を膨らましていたのを思い出す。
 新居に運ばれてきた荷物には隼人との思い出の品もたくさんあった。引っ越す前にいくつかは処分したが、卒業旅行で行ったハワイの土産などは大学時代の懐かしさも相まって大切に包んで連れてきた。全てをまとめると、ちょうど一段ボール分になった。思っていたよりも多く、隼人に、そんなに元彼とのもの持っていたら新しい彼氏できないよと言われてしまった。けれどどれも捨てがたく、結局段ボールがひとつ増えてでもいいから持ってきたのだった。
 あらかたの片付けが終わり、深鈴は思い出が詰まった段ボールに手をかける。開けてすぐに、隼人作のクロスワードが目に入った。最後に渡されたやつだった。忘れずにやって欲しいと頼み込んできた隼人の姿が頭に浮かび、近くにあった鉛筆でなんとなく解き始めた。
 大学時代に渡されていたものより、はるかに容易だった。隼人がそう作ったのか、深鈴が賢くなったのかはわからないが、すらすら解けた。もっと定期的に解いてあげればよかったかな、なんて考える。1のヨコから言葉を考えては入れてを繰り返し、最後の28のタテを「タンポポ」と埋め終わると、深鈴は指定された文字を繋ぎ合わせ始めた。Aがロで、Bがクで、Cがネで…。
 AからIまでを順番通りに並べると、「ロクネンアリガトウ」。そう浮かび上がってきた。深鈴は思わず笑っていた。初めて隼人のクロスワードを解いた時に出てきた答えが「マルハダカ」だったのをふと思い出したのだ。まだ付き合う少し前で、微妙な距離の女の子に渡す問題の答えが、それってどうなのだろう、と当時は少しも思わなかったことを今になって考える。20歳の隼人の不器用さが滲み出ていた。自分も自分で、こんな男の子とよく付き合う気になったな、と深鈴は他人事のように面白かった。
「マルハダカ」から「ロクネンアリガトウ」か。成長していたのだ。お互いに。丸裸の少年少女は、6年をともにした。これからは別の空間を生きていく。その日々は少しも後悔していなかった。
新居の明るい春の日差しの中で、クロスワードを握りしめた深鈴の暖かい笑い声が響き渡っていくのだった。