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「彼の横顔」 嵯峨明

(以下は2021年6月21日の金原のブログからの転載です)

 今日は、創作表現論の秀作、その3。前回と同じく嵯峨明さんの作品。

 なんてことない話なのですが、主人公の女の子の気持ちといい、細かい書きこみといい、素晴しい。テーマは谷崎の『春琴抄』を読んで。

「彼の横顔」 嵯峨明

 藤岡唯子という存在が邪魔か、と問われたら実は全くもってそんな風に思っていないことに気がついた。明日菜と美紅と恋バナをしていた時のことだ。駅前マックの2階で、部活帰りの汗だくの体操服のまま、私たち3人は額を寄せるようにして話し合っていた。
 明日菜が、健に近づく後輩女子がムカつく、と言い出し、彼氏持ちの美紅も元カノの話をされるのは本当に嫌、と同意し始めたので、では私はどうだろうと考え込んだ結果、2人が抱いているような感情を全くもって唯子に対して自分は持ち合わせていない、と今更ながら知ったのだ。あっけらかんと何の気持ちも込めずに、そうでもないかも、というと2人に、えぇ〜うっそ〜あんたが一番最悪のケースでしょ、と言われてしまったので、あぁ私は最悪のケースの恋愛をしているのだと、そこで再び新たな学びがあった。
 最悪のケースの恋愛、とは。俊平くんに名前すら覚えてもらえていないこと? 本人と緊張しすぎてまともに会話できないこと? 高校2年にもなって誰とも付き合ったことがないこと? 思い当たる節はいくつもあるが、やはりこの話の流れで、最悪のケース、といえば唯子の存在だというのは恋愛音痴な私でもわかった。
 桐井俊平くんに彼女はいない。が、藤岡唯子がいる。2人は付き合っていない。が、いつも一緒にいる。俊平くんは唯子のことが好きらしい。が、唯子はどうなのかは誰も知らない。
 藤岡唯子ってさまじで神経図太いよね〜、と明日菜が悪口大会を開催し、そこに、わかるホントああいうタイプが一番無理、と乗り気で美紅も参加し始めたので、仕方なしで私も参加してみたものの、やっぱり彼女の悪いところがなかなか出てこないのだ。あんたが一番憎く思ってるでしょっ、と美紅の細長い人差し指が遠慮なく向けられた時、唯子の悪口なんかよりもその爪が綺麗なことに気をとれてしまった。2人はそんな私を見て、ほら恨みすぎて声も出ないんだよ〜ウケる〜とひとしきり手を叩きながら声をあげて笑い合うと、気がつけば、部活の先輩がうざい、という悪口大会の別会場が用意されていたので、今度は奮って参加した。
 結局、8時半くらいまでマック2階の空気を乱し続けた。溶けた氷まで全て飲み干した湿っぽい紙コップを捨てて外に出ると母親から早く帰れと催促のラインが来ていたので、西口に止めてあった自転車で慌てて帰ることにした。バイバイと、2人は私に別れを告げるとサラリーマンの背中でいっぱいの駅の改札へと吸い込まれていった。
 初夏の風に吹かれて、あっ今の私青春映画の主役ぽい、と胸をワクワクさせながら自転車を漕いだ。相手役をやるならやっぱり俊平くんが希望だが、そうなるとやはり唯子の配役も必要になってくるなぁと考えて、再びさっきの2人との会話が頭をよぎる。唯子のことは憎くない。嫌いでもない。いなくなったらいいのに、とかも思わない。そういえばなんでだろう。恋敵を恨むのは必然のはずで、友達どころか知り合いですらないし、ましてやハンカチを落としたのをわざわざ追いかけてまで拾ってあげたのに、お礼ひとつ言わないような女だし。俊平くんという人間の板を通してみていなければ、2人と同じようにノリノリで悪口大会に参加していたはずだ。いや、参加どころかもっと大きな会場を用意していた気すらする。
普段は止まらないはずの信号で足止めを食らってしまい、私は漕ぐ足を止めた。暇な待ち時間こそ、俊平くんの姿が思い起こされる。好きになった頃からそうなのだが、その姿を思い出そうとするたびに、彼単体ではなく彼と彼を取り囲む風景ごと頭に浮かぶ。汗臭い誰かの体操着と風で舞う埃っぽいカーテンに囲まれて、私ではない、どこかを見た俊平くんが鈴蘭のように微笑む姿が好きだった。
 いつかの放課後に見た、唯子と俊平くんのやりとりを思い出した。俊平、面倒くさいからリュック持って。いいよ。俊平、今日夜ご飯奢って。いいよ、唯子何食べたい? 私が食べたそうなものを用意して。え、わかった。
 2人の周りではサッカー部の連中がくだらないことで大笑いしていて、そんな彼らを遠巻きにして明日菜と美紅が、ねぇうるさい〜と口元を緩ませながら言っていた。教室のドアの方では全員同じ髪型をした女子グループが陰気滲み出る表情で何か言い合っている。気だるい暑さと、ねちっこい感情と、絡み合った関係がひしひしと漂う教室。そんな空気感での俊平くんと唯子の会話は妙に辛気臭く、でも色っぽく、私たちには絶対手に入らないものだなぁと思ってしまった。なんか幼稚園に間違えてきちゃった老父婦みたい、とも思った。自分たちは子供だと世間がいうので仕方なく通っている老父婦。でも同じ幼稚園児から見たらそんなの一目瞭然で、もちろんそんなこと思わない子もいるのだろうけれど、私はそういう子ではなかった。
 そういうところかなと、はっとする。と、同時に私はただ俊平くんが好きなのではないことにも気が付かされる。私は俊平くんのあの笑顔を向けられたいとは思わない。唯子にそれを向けている瞬間を見るのが好きなだけだ。唯子がいなければ、俊平くんとの恋が成り立たないわけで、そうなると3人で恋愛していることになってしまう。そんなのは、恋ではない。どうやら、まだ私の初恋はきていないらしい。私主演の青春映画の配役決めもこれからのようだ。
いつの間にか、向こう岸の信号機が青く光っていた。私は自転車のペダルを力強く踏みつけて、真っ直ぐ前へ自転車を進ませた。