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「T・トラバートくんのこと」 安納令奈

(以下は2024年6月26日の金原のブログからの転載です)

 火曜日の授業、「創作表現論」の課題の秀作、今回も安納さんです。
 いいエッセイです。

「T・トラバートくんのこと」 安納令奈

 10年以上前のこと。六本木ヒルズの高層階にある六本木美術館でポエトリー・リーディングを初めて体験した。モダンアート作品が展示された館内を縦横無尽に使って、詩人たちが詩を詠むなんて、面白そう! そう思ってチケットを手に入れていた。
 その青年をみた瞬間、くたびれたカラスみたいだと思った。サイズの合わない肩の落ちた、着古した黒のスーツ。頬はこけ、顎ひげをたくわえている。額にかかる前髪をしきりにかきあげ、室内だというのに黒のサングラスをかけている。そのカラスのような青年は、モノクロームの渦巻き模様のトンネルの中からマイクを持って現れ、詩を詠んだ。
 そのときに彼がどんな詩を詠んだのかは、正直覚えていない。だが、後日個人的にたのんで手に入れたいくつかの作品の中に、まさしくカラスの詩があったので、一部引用する。彼が綴る詩には、風が運ぶさまざまな音や香り、色数を抑えたくすんだ色彩で彩られた言葉が連なる。

カラスと共に

ひとりの旅行者が
昼の夜 イスタンブールを通り過ぎた
いや 通りぬけた
その夜 さんざん星が降ったあげく
聴こえないはずの声が町に流れ込み
馬車の音がした

僕は昔 ある国の都会にいた
そこは朝と夜とが逆で
犬と馬が人間の言葉をしゃべっていた
そこでは 人はこうたずねられる
どんなメリットがあるんです?
有機物的結果と統計学的立証と
相互理解の関係の差額はなんです
植物的継承と伝説の逆説を教えてください
え〜っと今日は水曜日だから
三日後にまたおうかがいします

結局 僕らはさむさにふるえるだけだった。
で ふと空を見上げると
血走った月が色目をつかってこっちを見た
あいにく僕らにはお金がない
お月さん 地球をあと二、三周回ったらどっかへ行っておくれ
そして僕らはそこを離れた

ひとりの旅行者は 海とシナモンの香りのする広場にいた
真夜中すぎに街灯がふるえていると
近くの酒場で仕事を終えたアカペラグループの一団が通りかかり
薄手のコートを着せてやった
そのコートは ボギーが昔
飛行場で来ていたやつと
そっくりだった

歩くのに疲れ果て しゃべるのに疲れ果て
もときた道もどろうとして後ろを見たら
道なんかなかった
(後略)*

 出演者全員のパフォーマンスが終わったあと、わたしは思い切ってカラスの青年に近づき、話しかけた。ふだんはそんなことはしない。そのときはなぜか、素直にそれができた。
「美術館でポエトリーをやるって、すごくいいですね。あなたの詩、素敵だった」
 青年はナス型の黒いサングラスの奥で目を見開いた。「あ、ありがとう。ぼくはタケシ・トラバート。トラバート、って名前はね、トム・ウェイツの……」と、どもりながら早口で話すのであとのほうはよくきこえなかったのだけれど、このポエトリー・ネームにこだわりがあることはわかった。名刺を渡された。T・トラバートくんは詩のほかにも、プレス用渡航ビザを得て主に中東の紛争地や戦地に赴き、メディアにも記事を書いていた。
 そのあと、何本かメールのやり取りがあり、いくつかのポエトリー・リーディング・イベントに顔を出すうちに、彼が所属する「ポエトリー・ギャングスター」(以下、ギャングスター)の面々ともお近づきになった。
 「ギャングスター」の親分は、旅する作家としても知られるラジオDJのHさん。Hさんが以前担当していた番組にT・トラバートくんが詩を投稿した。その詩を読んだHさんが才能を見抜き、T・トラバートくんの家に電話をかけて、彼をスカウトしたらしい。ほかには、1969年にアメリカのニューヨーク州で開かれたウッドストックをティーンエイジャーの頃に体験したという音楽評論家で翻訳家のMさん、1980年代をサンフランシスコ、バークレー、北カリフォルニアのヒッピーコミューンで過ごし、日本では12年に1回開かれる伝説のフェスをオーガナイズし、今も即興詩を詠み続けるSさんも当時の「ギャングスター」のメンバーにいた。T・トラバートくんは一番の若手だ。彼以外は、いわゆる1970年代のヒッピームーブメント、ラブ・アンド・ピースの時代を潜り抜け、スクエアに生きることを今も拒み続ける、イカれた愉快な大人たちだ。彼らは、ビートジェネレーションのレジェンドといわれる人々(ナナオ・サカキ、アレン・ギンズバーグ、ゲイリー・スナイダー、白石かずこなど)とも交流があった。
 わたしは、比較的歳の近いT・トラバートくんと、その気さくな親分Hさんに招かれるまま、西麻布や六本木、横浜で開かれるイベントに顔を出した。そこで若い自由人、カウンターカルチャーを信条とするさまざまな職種の人に引き合わせてもらった。吟遊詩人や映画監督の卵、映画評論家、ベリーダンサー、バックギャモンの世界チャンピオン、輸入雑貨商社の広報マン、コピーライター、フリーライター、占い師、インディーズのシンガー、イラストレーター、ピアニスト、フォトグラファー、エトセトラ、エトセトラ。親分のHさんにはその頃流行り始めていたシーシャ(水タバコ)バーに連れていってもらい、バックギャモンも教えてもらった。
 T・トラバートくんはそのうち「ギャングスター」のスピンオフと称して、「ポエトリー・カクテル」という名のポエトリー・ユニットを立ち上げた。気づいたらわたしも詩を書き、彼らと同じステージに何回か立っていた。被爆者3世が立ち上げた「ピース・ヒロシマ」という活動に参加して広島に何度か足を運び、広島原爆記念日にはイベントを手伝った。
 本名は伏せてポエトリー・ネームを使って活動し、カウンターカルチャーな人のネットワークが広がるのが楽しかった。その一方で、T・トラバートくんが書く詩の世界観、言葉のセンスにはいつも打ちのめされていた。美しい音楽のような、それでいてペーソスのある言葉が泉のように湧き出る感性がうらやましかった。わたしがポエトリー・リーディングの真似事を始めてしばらくして、T・トラバートくんは次のミッションがあるといい、どこかの紛争地に向かった。しばらくの間、「今、どこどこの国境を越えたところ」、という書き出しで、移動中の船や列車でしたためた長いメールが数ヶ月に1回くらいのペースで届いた。
 5月のある日、携帯が鳴った。Hさんからだった。T・トラバートくんがみずから命を絶ったという。少し前に帰国し、精神に変調をきたしていたらしい。ご両親の見張りをかいくぐり、多摩のほうにある実家を抜け出して電車を乗り継ぎ、三浦半島の先端の岸壁から身を投げた。Hさんは電話越しに静かに、淡々と事実だけを伝えた。その低い声をきくわたしの頭の中ではすすけたカラスが空から落下し、そのカラスが途中で黒いジャケットをはためかせて落ちていくT・トラバートくんに姿を変える映像が、繰り返し再生された。両手を差し伸べて駆け寄っても、もう間に合わない。彼はその前の晩に、飛び降りてしまった。

 今回、稲垣足穂を読んで、とりわけ久しぶりに「一千一秒物語」を読んで、T・トラバートくんを思い出した。もらった詩のプリントアウトを十数年ぶりに取り出して、読み返した。足穂の影響をどれほど受けていたのかは、わたしにはわからない。なにしろ、ものすごい読書家で、シャルル・クロ、タゴール、ニール・キャサディ、といった詩人の名前は彼に教えられた(わたしは名前を知っただけで、詳しくはない)。
 T・トラバートくんとのあれこれが蘇るなかふと、最初に声をかけたときにおしまいのほうがよくききとれなかった会話を思い出した。「トラバート」は、トム・ウェイツの楽曲タイトルからとったことは、きこえた。彼がトム・ウェイツに心酔し、仕草や風貌もかなり意識して似せていたことも理解していた(実際、よく似ていた)。だが、Tom Traubert’s Bluesが何を歌った曲かはわかっていなかった。YouTubeであらためてTom Traubert’s Bluesを探し、歌詞を聴き、意味がわからないところは調べた。
 ここで初めて、この曲への理解が浅かったことを思い知る。サビで繰り返される”Waltzing Mathilda”のくだりだ。「(恋人の?)マチルダとワルツを」、という意味だと思いこんでいた。そうではない。”walzing”は音楽のワルツではなくオーストラリアの俗語で「あてどもなく放浪する」ことを意味する。”mathilda”もやはりオーストラリアの俗語で、路上生活者、浮浪者などが身の回りのものを携行するためのカバン、あるいは丸めた携帯用毛布を指す。つまり、オーストラリアで伝わるこの元歌のタイトルWalzing Mathildaは、「身寄りのないひとりの貧しい放浪者が毛布だけでオーストラリア大陸をさすらう」という意味だった。
 トム・ウェイツは、Tom Traubert’s Bluesのサビで「おれと一緒に放浪しないか」、と繰り返しあの、魂から絞り出すような声で歌っていたのである。ところで、このオーストラリアの元歌では、放浪者は最後どうなったか? 羊泥棒をはたらき、追いつめられて沼に飛びこんで自殺する。今でもその沼のそばを通れば、幽霊の歌声がきこえる。「誰かおれと一緒に放浪するやつはいないか?」と。(参考:Wikipediaほか、複数のインターネット資料)
 T・トラバートは――タケシ・トラバートは、生き方と同じくらい、死に方にも美意識を貫いたのか。沼の代わりに海に飛びこみたい一心で、家を出て、海に身を投げたのか。彼にとって、最期は水でなければならなかったのか。
 警察の死亡記録には、「死亡地:神奈川県三浦郡三浦市⚫️⚫️浜0番地」と記されたらしい。0番地。あきれるほど彼にふさわしい。海には番地などないから、記録上そうなるのを彼は知っていたのか、知らなかったのか。

*個人的にいただいたタケシ・トラバート(丸本 武)遺稿より。生前、作品をSNSに転載してもよいかたずねたことがある。「いくらでもどうぞ」という回答を故人から得ていた経緯もあり、ここに一部引用させていただいた。