見出し画像

「サーミ語」と出会った話 安納令奈 

(以下は2024年6月17日の金原のブログからの転載です)

 今年も創作表現論、やってます。
 今年も何人か聴講の人がいて、そのうちのひとり、安納さんの書いてきたエッセイがはほぼ満点の出来!
 というわけで、安納さんの許可をもらって、ここに載せます。課題は、『世界文字の大図鑑~謎と秘密~』(西村書店)のなかの「世界の文字の分布」の地図をみて、なにか書きなさい。

「サーミ語」と出会った話 安納令奈

 寒い場所が苦手だ。冬は大嫌いだし、雪国の話を読むと肺が痛くなってくる。なのに、イヌイットを祖先にもつ、ウラル語属のひとつ「サーミ語」とかかわることになるなんて想像もしなかった。
 授業で配られた資料「世界の文字の分布」でいうと、サーミ語話者はルーン文字からキリル文字が使われているエリアに、今も約3万人いる。国でいうと、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドの北欧3国とロシアの4ケ国に居住する。その10%は、古くからのアイデンティティであるトナカイ牧畜で現在も遊牧を続け、それ以外は北欧社会にも押し寄せた近代化と多様化の流れに乗り、さまざまな職業に進出しているという。(参考資料:スウェーデン観光文化センター 公式ウェブサイトサイト、『ノルウェーとスウェーデンのサーミの現状』北海道大学大学院教育学研究員教育社会学研究室 2013年研究報告書)

 そのいきさつを説明するのに家族の話をしなければならないのは気が引けるのだが、少々ご辛抱いただきたい。
 以前少し書いたが、わたしは「でえくの女房」になった。家人は齢60を過ぎて会社を早期退職し、国産木材と伝統工法にこだわる工務店に雇われた。10人あまりいる同僚の大工の平均年齢は約30歳。高校を出てすぐ大工の道に入った彼らと同じ技量はもちろん、ない。だが、家人はYouTubeからの独学で鉞(まさかり)、手斧(ちょうな)、槍鉋(やりがんな)などの伝統工具を難なく使えた。これが幸いし、職人の世界とご縁ができた。
 家人にはもうひとつ、ニッチな技能がある。それは、竹の扱いだ。近所の谷戸(やと)に、隠れ里のような農業コミュニティがある。家人は会社員時代からほとんど毎週末、その谷戸で過ごしていた。竹藪から切り出した孟宗竹を使い、四阿(あずまや)や薪棚、まかない飯を煮炊きする調理台や竈門を覆うパーゴラ(巨大屋根)など、竹の大きな構造物を趣味半分、実験半分で、仲間のために無償で次々に造った。ここでは、この谷戸で採取でき、土に還る素材をできるだけ使おうというゆるい決まりがある。だから、金属や石油製品もなるだけ使わず、釘や楔も竹から削ってこしらえた。このようにして、竹を切り出す、割る、節を抜く、曲げる、編む、燻す、焼く……といった構造物を造るための一連の知識と技術も、独学と実践で培った。工務店で新しく刷った名刺の肩書きは「里山大工」。この年齢で今から一人前の家大工(やだいく)になるのは望むべくもない。そこで、考え出したオリジナルの肩書きだ。
 さて、今年の年明けまだ間もないころのこと。神奈川県森林組合連合会から「横浜美術館が外国人アーティストに竹の技術指導ができる人を探している」と知人に問い合わせがあった。その話はめぐりめぐって、家人が引き受けることになった。
 ことの次第をきくと、こうだった。改修工事を経て3年ぶりにオープンする横浜美術館が、その柿落としに今年4月から6月まで国際芸術祭「横浜トリエンナーレ」のメイン会場となる。これにあたり、このイベントの総合ディレクターが、エントランスロビーに設営するインスタレーションの制作を世界的に有名なアーティストたちに依頼した。そのアーティストのひとりに、トナカイ遊牧民サーミ族の血を引くノルウェー人がいた。彼は依頼を受け、自然と共生していた祖先の世界観を古くから日本にある竹や木を使って表現したいと美術館側に要請した。ノルウェーと日本とでは植生(しょくせい:植物群落のこと)が違う。ノルウェーには、竹はない。そこで、竹のことを教えられる職人を探していた。英語通訳は美術館が用意するらしい。だが家人は、「トリエンナーレ」という言葉にもなじみがなく(何度直しても「トレレンナーレ」という)、モダンアートに親しんだこともなく、英会話もおぼつかない。結局、かばん持ちのふりをしてわたしも現場にいくことになった。先方の通訳がプロの方ならば、出番はない。でももし、そうでなければ、道具や素材の扱いについての家人のこだわりを日々きかされているから、わたしの英語力でも専門的な話の要旨は伝えられそうだと考えた。
 こうして底冷えのする2月のある日、リニューアルオープンを2ヶ月後に控えた横浜美術館に向かった。わたしはカーキ色のワークパンツにヘビーデューティーな上着、ゴム長靴、という作業員風の服装を選び、しかも現場が屋外か館内かわからなかったので、携帯用カイロを背中と腰に貼り、長靴の爪先にもしっかりと入れた。首元にマフラーを巻き、耳まで覆う毛糸のニット帽もかぶった。港町横浜ではなく、雪山登山に行くような格好だったが、暑かったら脱げばいいと思った(その数時間後、この装備で正解だったとわかる)。あとは、レクチャーの間が持つかが心配だった。前の晩のうちにアーティストのSNSに目を通し、その人の風貌と作品とをチェックし、雑談の話題になりそうなことや、こちらからの質問をメモした。
 作業現場はやはり、屋外だった。洗練されたビルが立ち並ぶみなとみらいのオフィス街の真ん中にぽっかり空いた平地(ひらち)。美術館駐車場にはビル風が吹きつけ、ときおり風花が舞い、しんしんと冷えた。現場に立ち合う主席学芸員の男性が、通訳もなさるとわかった。ノルウェー人たちと意思疎通はできているものの、少々不自由だというニュアンスのことをいった。「アシスタント」として家人に紹介されたわたしは、現場通訳も兼ねている、とそっと言い添えた。
 引き合わされたのは、ノルウェー人男性の3人組だ。それぞれ竹や木と格闘していた彼らは手をとめ、にこやかに近づいてきた。長い金髪を束ねて片耳ピアスをした40代くらいの小太りの男性、頬と顎に赤銅色の髭をたくわえ、オーバーオールを着た60代くらいの男性、そして、190cmはありそうな長身の金髪の若者と、わたしたちは握手をした。彼らはきれいな英語を話した。朝から力仕事をしていたせいもあるだろう。2月の寒風をものともせず顔を上気させ、メッシュの長袖、あるいは半袖コットンTシャツという薄着だった。SNSでも確認した長髪に片耳ピアスの男性が、サーミ族の血を引く今回の主役、アーティストのヨアル・ナンゴさんだ。小柄なヨアルさんの脇を固めるのはこの中でいちばんの年嵩で髭もじゃの、陽気な船大工カサヴィさん(バイキング船の復刻活動をしているとのちにきき、納得の風貌だった)、そして人懐こい笑顔の家大工(やだいく)のトビアスさんだ。このトリオでこれまでヴェネチア、トロントなど各地のビエンナーレ(2年に1回開催)、トリエンナーレ(3年に1回開催)に招かれ、制作活動をしてきたという。
 結論からいうと、間がもつかという心配は杞憂だった。1時間の約束だったレクチャーは、3時間を超えた。竹の割り方、手斧(ちょうな:カマキリの前足のように、木の柄を独特の形に曲げ、その先に刃をつけた伝統工具)を使った竹の節抜きの実演のほかにも、竹の上下の見分け方、素材としての特性を説明した。ほかには、神奈川県内で切り出した樹種の名前――桜、馬刀椎(マテバジイ)、鳥山椒(カラスザンショウ)――、素材としての特性(硬さ、曲げやすさ、切ったときの木肌、切ったあとの変色具合など)を矢継ぎ早に質問された。形状で選んで山から切り出し、運んできたはいいが、扱いがわからず困っていたらしい。樹種について説明しながら、マジックを使って木の名前をローマ字で木肌に書いた。伝統工具にも彼らは興味津々で、使い方やどこで買えるのかなど、質問は途切れなかった。こちらも興に乗り、鉞(まさかり)と西洋斧の違い、鉞の刃に刻まれた印は雷(いかづち)を意味する理由、山や木に神が宿ると考える日本の伝統や木こりのしきたりを説明するうちに日本神話とノルウェー神話との共通点にまで話が及び(翻訳講座で習ったノルウェー神話の神々の名がここで役に立った!)、寒さで鼻をすすりながらの3時間はあっという間に過ぎた。思いのほか楽しかった時間の最後に、じつは自分たちは夫婦だと正体を明かし、困ったことがあったらいつでもどうぞとわたしは連絡先を渡した。
 以降、4月に彼らが帰国するまで、わたしはSNSのメッセンジャーでヨアルさんと連絡を取るようになった。「××を入手したいが、どこで調達できるか」「横浜界隈でおすすめの飲食店はあるか」「温泉にいってみたいが箱根は遠いのか」といった問い合わせがヨアルさんから頻繁に届いた。
 ある週末には、家人の仕事場がみたいというリクエストがあった。その週末はたまたま木と土壁で造る住宅の木組みの完成を祝う上棟式があったので、興味があるかとたずねたら、喜んでいくと返事があった。京浜急行の終着駅、はるばる三崎口の駅まで3人はやってきた。ノルウェーにも上棟式があるのだという(あとから調べて知ったのだが、上棟式の起源はなんとスカンジナビア半島で、木の霊を鎮める宗教的儀式だった。それが日本に伝わったらしい)。だから、家が完成したら隠れてしまう木組みがみられるチャンスだとすぐにわかったのだろう。ノルウェーの上棟式でも神に捧げる特別なお酒があり「たまたま今回荷物に入れていた」と、わざわざそのお酒を持ってきてくれた(ほんとうは寝酒用だったに違いない)。それは40度を超えるアクアヴィット、つまり蒸留酒で、昔は密造酒だったらしい。アクアヴィットの主原料はジャガイモで、持参したこの銘柄はディルのような薬草やレモンピールの風味が格別だとヨアルさんは説明した。外国からの客人の手土産を施主はとても喜び、ずらりと並ぶ一升瓶の間にノルウェーのお酒が並べられた。
 雲ひとつない冬晴れの青空の下、棟梁が朗々と祝詞を読み上げる。木組みを紅白の幕で覆い、五色の旗を立てた屋根から施主と大工が餅や菓子を投げる。200人以上集まった近所の子どもや老人が歓声を上げ、われ先にそれらを空中でキャッチしたりしゃがんで拾い上げたりする。そんな素朴なにぎわいを、3人は嬉しそうにみていた。盛り塩や棟札、木組や家人が手斧を振るった曲げ梁部分の削(はつ)り跡など、写真を何枚も撮っていた。
 ところで、家人が引き受けた有償の仕事は最初の1回だけ。この上棟式ツアーは最初から仕事のつもりはなかった。このあとも家人はせっかくのご縁、ノルウェー人と一緒に大工仕事がしてみたいといいだした。わたしはお邪魔でなかったら、と前置きをして家人の酔狂を伝えると3人は喜んでくれ、インスタレーション制作の追い込み作業をボランティアとして手伝わせてもらうことになった(美術館担当者にも希望を申し出たら、もう予算がなくて報酬をお支払いできないんですが、それでもお手伝いくださるんですか? と恐縮された)。作業をする3人組と家人はずっと体を動かしているから寒くはない。だが、現場で口を動かすだけのわたしには現場の寒さは骨身にしみ、立ちっぱなしは正直、きつかった。だが、それを耐えられるほど、イベント開幕間近の美術館は作品の完成を目指す熱気に満ちた魅力的な現場だった。オープンの日が迫るにつれ学芸員の目の下の隈が濃くなり疲労の色がにじんでも、ノルウェーの3人組は無理な残業はしない。週末はきっちり休んで平日は朝から上機嫌でジョークを飛ばしていた。3人は毎晩街に繰り出して食べ歩き、ビアパブに飲みに行って日本滞在を日々謳歌していたらしい。
 制作のお手伝いをするにあたり、ヨアルさんは使ってほしい素材とイメージする完成形だけを説明すると、やり方は家人にまかせた。家人は日本の伝統工法のやり方で木を継ぎ、竹を編んだ。彼らは彼らのやり方で、せっせと木を継ぎ、大量の竹に黒色のスプレー塗料を吹き付け(美術館では火気厳禁なので火を使わずに竹を黒くするにはそうするしかない)、炉を中央に据え、獣の毛皮、流木、石、織物などで構成されるサーミ族の住居の再現に没頭した。
 美術館のオープニングまであと数日、彼らの帰国も間近いある日、家人は餞別に自分の道具の中から手斧を3本プレゼントした。彼らの顔は輝いた。モダンアーティスト、船大工、家大工と専門エリアは違っても、彼らは日本の伝統工具に魅せられていた。「無料でもらうわけにはいかない、お金を払いたい」といわれたが、家人は「きみたちはもう、友だちだ。友だちからお金は受け取れない」と答えた。ならば、美味しい食事をご馳走したいとヨアルさんはいい、わたしたちは日をあらためて、夕食の席に招かれた。
 ヨアルさんが選んだのは、趣のある寿司割烹だった。リラックスできる個室で、いろいろな話がきけた。3人は世代も、ルーツも違っていたけれど、それぞれ祖父母の代から受け継いだ道具や装身具を誇りにして、大事に身につけていた。大工仕事の話に始まり、これまでに参加したトリエンナーレの開催地の話、スカンジナビア半島、それも北極圏の春の短さ、冬の厳しさについてと、話題は尽きなかった。
 仲居さんが次々にコース料理を運んでくる。わたしは伝えられた食材や調理法を英語で説明しながら日本語と英語で男性陣の会話をつなぎ、なおかつ給仕のペースにおいていかれないように料理を味わうのに苦労した。だが、この骨折りの甲斐はあった。漁業国である彼らの味覚は日本人に近く、鰹やシイタケでとった出汁の滋味、山菜や筍のほろ苦さ、とりわけ新鮮な海の幸、生牡蠣や雲丹、ホタルイカの美味しさに彼らは目を丸くし、舌鼓を打っていた。食事をしんそこ楽しんでいる様子は、心和む風景だった。これまで3人で街に繰り出していたときは英語の説明がないと何を食べているのかがわからず、チャレンジの連続だったらしい。ヨアルさんは日本酒も嗜むというので、お酒を何種類か注文し、利き酒をしながら食材とのペアリングも体験してもらった。食べ物の話でひとしきり盛り上がったので、わたしは「人生最後の夕食には、何を食べる?」とみんなにたずねた。ヨアルさんは一瞬の迷いもなく、「トナカイの肉」と答えた。船大工のカサヴィさんは、「自慢の干し鱈のスープ。作ってあげるから、いつか食べにきて」とやはり即座にいった。若いトヴィアスさんは「難しい質問だ。パス」で、家人は「銀シャリと漬物」と答えた。
 最後のデザートとお茶が下げられると、家人は目の前に置かれた和紙の敷紙の上に持参した筆ペンで漢字や仮名文字を戯れに書いた。書いた文字を英語で説明し、ノルウェー語、サーミ語でそれをどういうのかを発音してもらった。ノルウェー語とサーミ語の音は、全然似ていなかった。たとえば「乾杯」はノルウェー語では「スコール」(元々はなんと、「頭蓋骨」という意味だ。ヴァイキング時代に討ち取った敵の頭蓋骨に酒を入れ、祝杯をあげた風習の名残らしい)、サーミ語では「マイステ」だ。
 その2日後、オープニングのレセプションに招かれ、インスタレーションが完成した姿を初めてみた。制作途中はバラバラだったパーツが、明確な意図を持って組み立てられている。鉋屑(かんなくず)や薪を無骨に寄せ集め、火を燃やす炉は住まいの中心で、その上を日本で切り出した木と竹を組み合わせた構造体が覆う。その周囲には、サーミ族のアイデンティティである獣の毛皮(本来はトナカイの毛皮なのだが、税関を通せず、急遽北海道から鹿の毛皮を取り寄せた)が床に敷かれ、日本滞在中に散策していて集めたものも随所に置かれている。横浜魚市場から無料でもらってきたというムール貝のお化けのような手のひらよりも大きな二枚貝、宣伝用の幟旗(カラオケ店や薬局から譲ってもらったという)を縫い合わせて屋根の代わりにする布、古びたビール瓶ケース、お風呂場用のビニール靴などが、無造作にみえるがおそらく明確な意図のもとに配置されていた。モダンアートによくあることだが、一見しただけでは作り手のメッセージが汲みきれない。その答えは、横浜美術館長とアーティストとの公開対談トークショーで、得られた。ヨアルさんはいつものサッカーチームTシャツではなく、鮮やかなトルコブルーの布に美しい刺繍をほどこした貫頭衣のような民族衣装に飾りのついた皮のブーツという姿で登壇した。
 そのトークショーをきいて、わたしは認識をあらためた。今まで、遊牧民とは「自由な」流浪の民だと考えていた。だがその考えはあまりに短絡的だった。サーミ族は少数民族の例にもれず、常に征服者から権利を侵害されていた。サーミ語を使うのを禁じられ(そのせいで、サーミ族の血を引いていてもサーミ語の話せない者がいる。サーミ語話者イコール、サーミ族ではない)、搾取され、土地を追われ続けた歴史を持つ。だからいつ、なんどき住む土地を奪われても、トナカイと共に移動ができるように組み立てと解体が簡単な、その土地でみつけられる素材を寄せ集めた住居で身を守るすべを身につけるしかなかった。苛烈な自然と共生し、その土地にあるものを活用して生き延びるのは「自由」どころか、真剣勝負だ。だから、木の枝、動物の毛皮、布地というサーミ族の住居の基本構造に、ここ日本にしかないヨアルさんの心の琴線に触れたものをアッサンブラージュし、横浜トリエンナーレのリニューアルへの敬意を示したのがこの作品だったのだ。
 ところで初めて会った日、美術館の駐車場で彼らがカラースプレーを竹に吹きつけて黒くしているのをみたときに、わたしたちは驚いた。家人が竹の扱いについて説明した後に、八百万の神の話をすると、ヨアルさんは「ぼくたちはたぶん、竹にひどい扱いをしてるよね(I think we are treating your bamboos brutally.)」とすまなさそうな顔をした。あの竹は、どう使われたのか。
 黒く塗った竹は麻紐で組まれてサーミ語の文字になり、その文字を並べたメッセージが横浜美術館のファサード部分、外壁を斜めに横断して飾られた。これは現時点で世界最大のサーミ語のディスプレイだとヨアルさんは、胸を張った。そのサーミ語がキリル文字なのかルーン文字なのか、不覚にも確認しそびれた。だが、ヨアルさんがサーミ語について語るときキリル文字やロシアの話題には決して触れず、ルーン文字のことばかり説明していたこと、またその文字の形状から、おそらくこれはルーン文字だとわたしは推定する。
 そのメッセージの日本語訳に、しびれた。

《彼らは決められた道を行かず、誰かが決めた秩序にも従わない》

 草を喰む首長竜のようなスカンジナビア半島の首の付け根あたりを、北極線が横切る。その線に区切られた北緯66度33分以北は「北極圏」だ。ノルウェー海に面したオーロラの美しい北極圏の都市、トロムソに帰ってしまったあの3人組、あの新しい友たちは、わたしたちにじつに多くのことを教えてくれた。