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「本の間」 落合健太郎                          

(以下は2021年11月27日の金原のブログからの転載です)

 創作表現論Ⅱの秀作。
 落合健太郎さんの作品。こういう作品のよさを説明するのは、ほんとに難しいと思う。なんか、おかしい、なんか、いい、なんか、変、だけど、とにかく、気になる。こんな感覚をうまく文章にするのは、なかなか難しいんだと思う。
 まあ、読んでみてください。

「本の間」 落合健太郎

 英米文学の書棚で本を探していた。「シ」に並ぶ本の背表紙を眺める。左から右へ、右から左へと視線を動かすが、見つからない。振り返って後ろの棚を見ると、「詩・戯曲」の仕切りがあった。下から二段目に、シェイクスピア全集が並んでいる。上半分が緑色の背表紙で、どれも日焼けして黄ばんでいる。その中から、マクベスを手に取って、閲覧席へ向かった。
 人がまばらな館内の、窓際にある席に着いた。午後4時を回った外の天気は、やや曇っていて、肌寒い風が窓から吹いていた。本を開いて読みはじめると、両端を抑える親指から、古びた紙に特有の、指先に馴染む感じが伝わった。
 いつも図書館に来ると、落ち着かないものだ。私はそれを館内が静か過ぎることによるものだと思っていた。腹が鳴る音すら周りに聞こえるような中で、そわそわするのは仕方ない。でも、そうではないのかもしれない。いつも通り静かな今日、私は落ち着いている。椅子に座って、本を読んでいる。余計な考えに邪魔されず、文字を順に追っている。一定の心拍数と、一定の瞬き。それにしても、今日は落ち着いている。
 読み進め、物語が中盤に入ったころ、片耳に不快な音が響いた。小さなからだで、小さな羽をばたつかせている。遠くへ離れたと思えば、近づいてくる。左にいたと思えば、右にいる。ハエが私の顔のあたりをうろちょろしている。頑張っているんでしょう。3階の高さまで飛んで、開いた窓からやって来たんでしょう。でも、私は糞ではない。死骸でもない。生きている人間なのです。
 ハエは机の上に止まった。顔の近くで飛ばれるよりはましだが、視界に入るだけで鬱陶しい。私はハエをじっと見た。動く気配のないハエを、手で払いのけようとした。ハエは動いた。そして、本の開いたページの上にいる。見開きのちょうど中央にいる。お前は挑発しているのか。いくつか知らないが、ひとを挑発するにしては貧弱な体だ。体格差を考えてはどうだろう。
私は本をぱっと閉じた。本を間に、両手を合わせ、力を入れた。紙と紙が完全に密着し、一枚の分厚い紙になるくらい押し付けた。そして、本を開きページをめくると、ハエはどこにもいなかった。本の表紙をつまんで上下左右に振ってみたが、何も落ちてこなかった。ページを一枚一枚めくってみるが、何も見つからなかった。
 一体どこにいったのだろう。私はあのハエを殺したのか、それともまだ生きているのか。本を開く前に、想像していた光景。それは、文字と文字の間の余白に、黒いしみが残る様子。そのしみが次のページにも、その次のページにも残る様子。
 しかし、開いたページには何もなかった。まるで、どこか別の世界へ吸い込まれてしまったかのように、ハエは消えた。
 私は、本を開いて、そこに顔を置いた。古い家のような匂いが鼻に伝わる。そして、本を閉じた。両手でこめかみを押さえつけるのだが、本は閉じきらない。閉じるのをやめて、机に突っ伏したまま両腕をだらんと下げた。私はそこにいた。