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「におい」  岩東喜大

(以下は2021年10月31日の金原のブログからの転載です)

 創作表現論の佳作を、ひとつ。
 今回のは「キメラ」にからめた作品。久しぶりに小説らしい小説が出てきて、ちょっと驚いてしまった。それにしても、どんなところからこんなイメージがわいてくるのか、不思議でしょうがない。それが、最初のおでんの風景と微妙に響き合っているところがまた不思議だ。
 それにしても、若い人たちの文章はおもしろい。

「におい」 岩東喜大

 コンビニへと伸びるくだり坂を、ぼくはおでんのはんぺんについて考えながら歩いていた。琥珀色の汁の上に浮かぶ、真っ白いのはんぺんである。高校生のとき、文化祭準備の買い出しで駅前へ出かけた帰りに、コンビニで買ったおでんを公園のベンチに座って、よく友人たちと一緒に食べていた。とくにその時期が寒かったわけではない。制服もまだ夏服がゆるされていたし、木々にもまだ若い葉が残っていた。ただ、その公園には金木犀がうえてあった。そのにおいをかぐとぼくたちはたちまち、その年の夏を早くもいつくしみ、迫る定期試験とともに秋をとばして、その先に待つ冬をすぐさま感じたくなる。すなわち、おでんが食べたくなるのだ。嗅覚は不思議だ、と思う。道や家の庭から香る金木犀のにおい一つで、はんぺんのことから文化祭のことまで、その時ぼくは友人とどんな話をしたのか、友人はどんな表情で秋空を見上げていたのか、そのとき密かに思いをよせていたあの子の巻いていたマフラーはどんな色だったか、そういう細かなところまで、まるで数日前のことのように思い出すことができる。
 しかし、これからコンビニに行く理由はおでんを買うためではない。これからナルの家で酒を飲むのだ。そのための買い出しだった。坂をくだると、少ない街灯に照らされたコンビニがわびしく光っている。ちかくには小さな小学校と民家しかないため、この時間になるとすっかり暗くなってしまう。セミと鈴虫の声がやたらと騒がしい。コンビニの看板にはたくさんの虫が群れて飛んでいる。アスファルトが昼のうちに吸収した熱を、一生懸命に吐き出していた。吹く風からは秋のにおいがするのに、その他の様相は夏そのものだった。品数の決して多くないそのコンビニで安いウィスキーとロックアイス、炭酸水を数本といくつかのつまみを買って、早々と店を出た。
 ナルは小学校からの友人である。ナルは身長が高く、自転車競技を長年やっているアスリートであるため太ももが丸太くらいに太い。もう一人、コバヤシという友人も今夜は来る予定だ。コバヤシも同じく小学校からのつき合いで、丸顔で肌が白く、レンズの下部にだけフレームのついた眼鏡をかけている。ぼくたちはときどき集まって酒を飲む。ハイボールを飲むのはぼくだけなので、いつも持参しなければならない。
 ナルの家につくと、すでにコバヤシも来ていた。二人に会うのは二ヶ月ぶりだ。しかし、すでに懐かしい気がする。コバヤシは少しうしろ髪を伸ばして、ナルの脚はまた少し太くなっていた。こうしてナルの家に三人が集まり、ただ話をする、というこの光景は昔から何も変わらない。ただテーブルの上に酒が置かれるようになっただけだ。
 中身のない会話が続き、ぼくたちはいつの間にか昔話に夢中になっている。それがいつものぼくたちの会話の順序だった。ぼくは記憶力が決していいわけではないので、小学校の時の記憶などたかが知れている。しかしほかの二人は鮮明にそれらを覚えているのだ。ナルとコバヤシが昔あった面白い出来事をぽつぽつと話し始めると、決まってぼくはあとからそのことを思い出すのだった。
「今年の夏はベランダにカブトムシが飛んでこなかった」
 酔いがまわり始めて、目じりのあたりが熱くなってくる。便所に立ったコバヤシの背を見ながら、ナルにそう言った。ほとんどひとりごとのような細い声だったが、ナルはそれに反応した。
「いつまでたってもセミは鳴いてるけどな」
「今年は暑夏らしい。金木犀も本当だったらピークはもう終わってるはずだけど、暑すぎて二度目がさいてるんだって。コンビニのあの坂、においがすごかった」
「そういえばカブトムシで思い出したけど、小学五年くらいのときにカブトムシとりいって、なんかおまえ、すごいきもちわるいやつ捕まえてなかった?」
「きもちわるいやつ?」
 ナルの顔をみあげて言うと、ちょうどそのうしろからコバヤシが戻ってくるのが見えた。ぼくの視線でナルもうしろをふりむく。
「便所の水が流れないんだけどどうなってんの? この家」
 コバヤシが笑いながらそう言う。
「たぶんワイヤーが外れちゃってる。失礼だなおまえ」
 ナルがそう言いながら便所へと立つ。そのあとを「へへ、ごめん」と言ってコバヤシも追っていく。ぼくはからになったグラスに氷を入れてウィスキーを注ぎながら、ナルの言った「きもちわるいやつ」について考えた。きもちわるいやつっていったいなんだ?ただのカブトムシのことじゃないのか?
 便所の方からナルの声が聞こえる。
「ほら、俺と二人で神社にカブトムシとりに行ったじゃん。だけど一日探してもとれなくて。それであきらめて帰ろうとしたらお前がみつけたんだよ」
「なにを?」
 向こうまで聞こえるように大きめの声で返す。するとナルは言った。
「からだの半分が異形で、キメラみたいなカブトムシ」
 そのすぐあとに便所の流れる音が聞こえる。
 頭ではなく、胸の奥の方から「何か」がこみ上げてくる。鳥肌がたつ。その「何か」は記憶だった。ぼくにとってすごく大事な記憶だ。真っ黒で、無慈悲で、しかし温かく、愛すべき記憶だった。
 小学五年の晩夏、ぼくは確かに、ナルとカブトムシをとりに神社へ出かけた。その年も暑夏で、時期は九月の中旬だったが、むしろ暑さは増しているほどだった。夏休み中はプールに行ったり田舎の祖母の家に出かけたりで、虫とりをする暇がなかった。夏休みが明けて学校が始まってから、いまだにセミが鳴いていたことや、ナルもその夏にまだカブトムシを捕まえていなかったこと、隣のクラスの男子が立派なツノをもつカブトムシを学校へ連れてきて自慢していたこと、など、いくつかの理由がかさなり、僕とナルはカブトムシをとることになった。学校が休みの日に朝から色々な場所を回った。近所の小さな公園から遠くの大きな自然公園まで、学校の校庭なども探した。しかし、カブトムシの姿を全く見かけない。次の日も放課後にまだ訪れていない公園に出かけたり、夜に罠をしかけて早朝にとりに行ったりした。しかし、やはりカブトムシはとれなかった。こういういわば宝探しのようなものは、長引けば長引くほどあきらめづらくなるもので、そうしてやがて一週間がたつころ、ぼくたちは半ば意地のようになってカブトムシを探していた。
 それからさらに数日がたち、日は短くなって、夕方に鳴くヒグラシの鳴き声ももうすっかり聞こえなくなった。
「今日捕まえることができなかったら、これで終わりにしよう」
 ナルがぼくにそう言い、ぼくは何も言わずにただうなずいた。
 最後の希望をかけて訪れた先は、ぼくたちの住む街から少し離れた小さな神社だった。街で一番大きな道路から外れて、小さな脇道を進むと神社の駐車場が見えてくる。そこに車が停まっていることはめったにない。三台ほどのスペースがあるその駐車場をぬけて急な坂をのぼる。町会館として使われている平屋が見えてくる。その奥に大きくも小さくもない平凡な鳥居がある。その鳥居をくぐって境内に入り、砂利道を歩いていくと、こぢんまりとした御堂がそこにあった。そのうしろに林が見えたので、ぼくとナルは、神聖で厳粛な雰囲気のその建物に少し怯えながら、奥の林へと入っていった。林の中は静かだった。風が木々をゆらして、枝や葉のこすれる音だけが聞こえる。まるでその林が一つの生き物となって、深く呼吸をしているようだった。それ以外に聞こえてくる音といえば、少し乱れている隣のナルの息づかいだけだ。あたりには多くの木が生えていたが、どれもそれほど高い木ではない。ほかにも腐敗して朽ち果てた切株や、少し積もった落ち葉が散乱していて、巨大な蜘蛛の巣がいくつもあった。ぼくとナルは手分けしてそこの木を捜索して回った。木の数は多いものの、二人で見て回ることはそう難しくはなかった。どの木にもセミの抜け殻や、名前のわからない茶色い虫などの生き物が数匹いた。しかしカブトムシの姿はなかった。
「なんだよ、結局いねーじゃん」
 歳の近い兄に反抗する弟のような、ふてくされた声でつぶやく。落ち葉をふむ足音がうしろから聞こえてきて、振り向くとナルも同じような声で「もういいよ、帰ろ」と言った。ぼくたちは無言のまま境内を出て、鳥居をぬけた。
 静かな夕暮れの道を並んで歩く。冷たい北風がふく。遠くの方で一匹のカラスの鳴き声が聞こえる。
「自販機行ってくる」
 喉が渇いて、ぼくは急な坂のはずれにある自動販売機へ向かった。
 その自動販売機の前に、「そいつ」はいた。遠くから真っ黒いかたまりのようなものが転がっているのを見つけたぼくは、一抹の期待をもってそれに近づいていった。
 それは、カブトムシのメスだった。正確には、「その時のぼくにはカブトムシのメスのように見えた」というべきだが――。
 ぼくはその黒いかたまりの正体がカブトムシだと気づくと、おもわず息を大きくのんだ。「そいつ」は見事な黒色の甲ちゅうを身にまとって、その表面にうすい茶色の細かい体毛が生えていた。夕暮れの光を浴びて、その体毛が黄金色に輝く。何日もかけてようやく見つけた「そいつ」は、光り輝くトパーズのようだった。しかし、足や触覚のうごきがどこか鈍くみえる。「そいつ」は衰弱していた。ぼくはゆっくりと「そいつ」を持ちあげ、空のままの虫かごにそっと入れた。
 駐車場でナルは自分の自転車にまたがり、退屈そうに足をぶらつかせていた。
「なあ見てくれよ!」
 ぼくは虫かごを揺らさないように、最小限の小走りでナルのところへかけよった。
「おい、なんだよそれ」
 ナルは虫かごの中身を見たあとに、怪訝そうな表情でぼくを見て言った。ぼくはてっきり自分と同じように息をのんで驚くと思っていたが、実際のナルは予想とは違う反応をしめした。
「なにって、カブトムシのメスだろ」
「頭は確かにカブトムシのようにみえるけど、何だよその下半身は…」
 ぼくはナルの言うことがわからなかった。どこをどう見ても「そいつ」はカブトムシだ。
 虫かごの中で軽い音がした。中を見ると、「そいつ」が仰向けにひっくり返っていた。どうやら、柵に足をかけてのぼろうとした拍子に落ちてしまったようだ。「そいつ」は足を弱々しく動かしている。まずい、どんどん弱っていってる。ぼくは自転車に乗って片手に虫かごを持ち、駐車場からとび出た。ナルはなにも言わずにぼくのうしろをついてきたが、家の近くの交差点でわかれるときにただ一言、「気持ち悪いよ、そいつ」とだけ言った。
 家につくとすぐにぼくは「そいつ」を虫かごから出して、ゼリーを与えた。ゼリーはふたを開けた瞬間から、独特なにおいを放った。それが鼻にするどく刺さる。「そいつ」の口元にゼリーを近づけると、前足でしっかりとつかんでなめ始めた。その姿がたまらなく愛おしくて、しばらく眺めていた。すると、いつまでたってもリビングに顔を出さないぼくを不安がった母が奥からやってきた。そのとたん、かん高い悲鳴がきこえた。
「あんた、なにそれ」
 母は「そいつ」を指差しながら言った。
「なにって、だからカブトムシだよ」
 ナルに言った時と同じように、母にそう言う。
 どうやら、ぼく以外の人間には「そいつ」は普通のカブトムシではなく、何か異様なものに見えるらしい。母が目を丸くし、口を大きく開けたまま立ち尽くす姿を見て、その疑いは確信に変わった。
「今すぐにそれを外へ返してきて」
「なんで? 最後の最後でせっかく見つけたんだよ。それにこいつは今ものすごく弱ってるんだ。しばらく餌をあたえてやらないとすぐに死んじゃう。食べることも、下手くそみたいだし」
「そいつ」はからだのまわりにたくさんのゼリーをつけたり、地面にこぼしたりしながら、一生懸命に食べて、生きようとしていた。
「その子は食べるのが下手くそなんじゃなくて、食べることができないのよ、そういう身体なの。それにもうそこまで弱ってしまったら、これから餌を与えたとしてもいずれ死んでしまうわ。早く外へ返してきなさい」
 母はさっきよりも強い調子でそう言った。昔から母は、弱っている虫や苦しそうにうごめいている虫を見かけると「早く楽にしてあげないと」と言って、足で虫を踏みつぶし、殺してしまうのだった。前に一度母に「虫は痛みを感じないんだよ」と言ったことがあるが、「それは虫本人が言ったの?」と一蹴されてしまった。母のこの死生観はもはや思想に近い。
 とにかく、このままだと母に殺されてしまう。それだけは絶対に避けなければならない。そう思い、ぼくは黙って「そいつ」を虫かごに戻し、外へ出た。家のすぐ近くの小さな公園に行き、一番大きな木の下に「そいつ」をおいた。「そいつ」は土の上でじっとしていた。もう足を少し動かすだけの力も残っていないようだった。ぼくは目にどんどん溜まっていく涙を感じながら、それを必死にこらえて「さようなら」とだけ言った。その場から去る前に最後の抵抗として、外敵に食べられないようにそばに捨ててあった紙コップを「そいつ」の上にそっと被せた。すっかり暗くなってしまった辺りに、いくつかの灯りが光る。涙でいっぱいになった目で見るその光は、いつもよりも乱暴にキラキラして、するどく尖っていた。
 次の日の朝、ぼくはどうしても「そいつ」の様子が気になって公園へでかけた。しかし、昨日と同じ木の下には紙コップはなかった。かわりに、原形のない黒いかたまりと、アリの大群が列をなしてそこにあった。ぼくはすぐにその黒いものが「そいつ」の一部だとわかり、昨日こらえた分の涙が何倍にもなって目からあふれ出た。その刹那、頭の中は真っ白になって、ぼくは無我夢中でそこにいたアリを手のひらでたたきつぶし始めた。土がはね返り、顔や腕につく。アリはどんどん死んでいく。それでもぼくの手は止まらず、地面をひたすらにたたき続けた。遠くで散歩している犬がぼくに向かって吠える。
 それからどれほどの時間がたったのかわからない。1分だったかもしれないし、2時間だったかもしれない。犬の声はいつの間にか聞こえなくなっていて、あたりには無数のアリの死骸が散乱していた。「そいつ」の姿は見当たらなかった。
 ぼくのこころは、すっかり薄くなってしまった。無数の穴があいて、ぺらぺらになってしまったのだ。殺したアリの数だけ穴があいたようだった。
 家に帰ると、母はぼくの様子を見るなり、
「ちゃんとお別れしてきたのね。写真だけ、あなたの携帯に送っておくわ」
 すると、母から持たされていた携帯に写真が添付されたメールが送られてきた。その写真をひらいてみると、そこには玄関にしゃがみこむぼくが映っていた。ぼくの表情はむすっとしていて、くちびるを噛んでいた。昨日、「そいつ」に餌をあげているぼくの様子を、母はこっそり写真におさめていたのだった。写真に映るぼくの目線の先には、「そいつ」がいるはずだった。しかし、映っていたのは「そいつ」ではなく、異様な身体のカブトムシだった。頭部こそカブトムシのメスの形をしていたものの、首から下は表面がはがれ、内臓が外からでも丸見えで、足が6本ではなく20本以上あった。そのどれもが細長く、足は先の方で絡まりあっていた。羽のようなものも付いていたが、左右で大きさは異なるし、外に大きくとびだして折れまがっていた。そこに映っていたカブトムシは昨日の「そいつ」ではまるでなかった。ぼくはその事実をすぐに受け入れることができずに、ただ呆然とした。その日以来、カブトムシを捕まえにいくことはなくなった。その出来事は大きくて深い無数の穴をこころに残したが、まだ幼かったことが幸いして、無意識のうちにその記憶を身体の奥の方にしまい込んで、穴をふさいでいたのだ。
 
 ナルの家を出たのは深夜の三時頃だった。ナルとコバヤシは酒につぶれてすでに眠ってしまっていた。ぼくはどうしても眠る気になれなくて、二人を起こさないように上着を持ってそっと外へ出た。夜がふけてしまうとさすがに外は寒くなる。
 ぼくはただ一人で、「そいつ」のことを考えたかった。
 あの日ぼくに見えていたものは一体何だったのだろう。ありのままの姿を、ぼくは勝手に頭の中で組み換え、つなぎ合わせ、全く別の、ぼくの中での「あるべき姿」へと変換してしまっていたのだろうか。当時の僕は「そいつ」を生かすためにゼリーを与えたし、涙をこらえた。しかし、次の日にはアリの命をいくつもうばったのだ。アリは生きるために「そいつ」を巣へ運んだだけだ。それら二つの行為は完全に矛盾していた。人の感情や思い込みは、ときに人の頭の中を大きく変えてしまうのか。そう思うのと同時に、冷たい風が遠くから吹いて、ぼくはおもわず身体をふるわせた。その風にのって、金木犀の香りとともに、微かな昆虫ゼリーのにおいがする。それは、あの日ぼくが「そいつ」にあげたゼリーと同じにおいだった。