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11「コロナの時代のわたしたち」

 法政大学の授業「創作表現論」で学生が書いた作品の中から秀作を紹介します。第11回のお題は「コロナの時代のわたしたち」です。

「創作表現論」についてはこちらのページをご覧ください。

「真の賢さ」 倉持知徳

 まったく、とんでもない時代に生まれてしまった。ただでさえ生きることは億劫だというのに。私はリノリウムのにおいを嗅ぎながらそう思った。『同業者』は隣のベッドですやすや寝ている。幸せそうに。彼らが心底羨ましい。

「ほーら、ミルクでちゅよー。おいちいでちゅかー」

 生きるということは本質的に無意味だ。何かを為そうが、何かを残そうが、死んで数年もすればほとんどの人間は忘れる。いや、無意味どころか迷惑ですらある。生きるためには他の生物を喰らい、公害をまき散らす。人間は、親の援助なしでは生きることはできない。なんて脆弱なんだろう。隣の『同業者』が泣いているのを聞いて、そう思った。泣きたくなる気持ちも分かる。私だって泣くこともあるさ。しかし君、いくらなんでも泣きすぎじゃあないか。うるさいぞ。

「これが赤ん坊かあ。顔に起伏がほとんどないな」

 否が応でも、容姿というものを意識せねばならない。私は自分の顔を触ってみた。ぺたぺた。まるでボールのようだ。父が起伏がないというのもまあわからなくはない。父と母の顔を数回見たことがあるが、十人並みの容姿だった。私も今はボールにすぎないのかもしれないが、いずれあれらのようになるんだろう。そうして、皺ができ、髪は抜け、シミができていく。まわりの『同業者』の顔はほとんど同じだ。老人も、程度の差はあれど、同じように変化していく。何事も重要なのは始まりと終わりさ。

「最近はコロナが流行っているから、会いに来ない方がいいかもしれないね」

 年の離れた姉は、退屈そうに家族にそう言った。私に言っているようにも聞こえる。コロナウイルス。看護師からも聞いたことがある。いま猛威をふるっていると。特に児童と老人は、罹ったらかなり危ないらしい。奇しくも、先ほど考えた始まりと終わりだ。ウイルスについて考える。ウイルスは生物と非生物の中間と呼ぶべきものだ。生物は子孫をつくり、繁栄することを目的にデザインされている。ウイルスも目的は同じだが、その過程で宿主、例えば細胞など——を破壊してしまう。一見、悲しい存在であるかのように思える。しかしこれは、実に人間に近しいあり方だと考えてしまう。人間は便利で快適な生活を送るために、地球という大いなる宿主を破壊している。人はウイルスに親しみをもって然るべし。

「かわいらしいねえ。赤ん坊は天使だよ」

 祖母が言った言葉は明らかに間違っている。赤ん坊は天使なんかじゃない。悪魔だ。おなかが減れば泣き騒ぎ、オムツをかえてもらえなくても泣きわめく。そのくせ、独力ではなんにもできない。こんな大人がいたらぞっとするだろう。だが、私達はこの愛くるしさという皮をかぶっているから、許されるのだ。悪魔は天使に化ける。その逆はない。

「それじゃあ、病院を出ようか」

 私は抱えられ、病院の出口に向かうにつれて、阿呆になってきているのを感じていた。理由は明白だ。世の中には知らなくていい、辛い出来事がたくさんあるからだ。真の賢さとは、知るべきではないことは知らないという勇気だ。好奇心は猫を殺す。とはいえ、あれこれ考えるのは、楽しかったな。

「おぎゃー」

「ハッピージューンブライド」 金子実央

「はあ、なんでこんなことになったかなあ」
 私は深い息を吐いた。窓際の外を眺める。長雨がもう10日も続いていた。延々同じ景色を見るのは嫌だけれど、傘を差して出掛ける気力もなかった。梅雨に入ったばかりの頃は蛙の鳴き声が高らかに響いていたが、今となっては飽き飽きしたような、腑抜けた鳴き声しか聞こえなかった。こんな憂鬱な季節、何かしら楽しみでもなければやっていられない。5月病ならぬ6月病だ。
「あ、しおちゃんてば、まーたやってる」
 その声に顔を上げる。
「直哉」
 両手にマグカップを持った夫の姿があった。彼は私の様子を見て、困り眉をぎゅっと寄せる。
「こらこら、体冷やしちゃだめだって。早産になっちゃうよ」
 そう言って、持っていたマグカップをテーブルに置く。同棲を始めた頃から使っているマグカップは、年季が入って色褪せている。ほかほかと湯気が立ち、ふわっと果実のような甘い香りがする。
「ぶどう?」
「それね、エルダーフラワーのハーブティー。マスカットに似た香りがするんだって」
 どこからか膝掛けを取ってきてかけてくれる。
「ありがと……」
 彼は目を細めて微笑み、私の寝癖だらけの髪の毛を優しく撫でた。しばらく美容室に行っていないから、ボブにしていた髪は半端に伸びて、髪色も嫌な赤みが出始めていた。
「佐々木さんがお勧めしてくれたんだ。奥さんが妊娠中に飲んでたみたい。いつもたんぽぽ茶じゃ飽きちゃうでしょ」
 私は何も言わずに頷く。彼は、本当に優しい。大手の商社マンで毎日忙しいのに、疲れた顔は一切見せずに家事もほとんどこなしてくれて、私の体調やメンタルを常に気遣ってくれる。完璧な夫なのだ。ただそれだけに、彼に甘えてばかりの自分が不甲斐なくて、心苦しかった。いくら初めての妊娠とはいえ、さすがに申し訳ないし、むしろ彼の方が体を壊してしまうのではないかと気が気ではなかった。
「この花ね、すごい可愛いんだよ。ほら見て」
と、携帯の画面を見せてくる。白くて小さな花がいくつも連なっている。紫陽花に似ているなあと思った。
「なんか、線香花火みたいじゃない?」
 何を言っているのかと思ったが、写真を見れば見るほどわかるような気がした。その昔、江戸の人々は線香花火を植物に例えて、火をつけてから落ちるまでのその移ろいに人の一生を見ていた、という話を聞いたことがある。牡丹、松葉、柳、散り菊、と言ったはずだ。幼い頃の記憶なので定かではないが、確かそんなことを父に教わったのだと思う。花火が大好きだったから、家族でよくやっていたのだけれど、その度に父は同じ話を繰り返ししていた。
「ちょうど松葉くらいかな」
 私の呟きに、彼は首を縦に振った。彼にこの話をしたことはなかったはずだが、それでも通じるのだからすごい。彼といると、よく心の中を見透かされているような気分になる。
「今の僕たちもそのくらいだね」
 ぱちぱちと勢いよく、けれど儚さを感じさせる繊細な火花が散る様子を思い描いてみる。燃え尽きる未来を案じつつも、今を懸命に咲こうとしている姿は、私たちにぴったり重なる。なんだか彼らしくない、少しロマンチックな発言。聞いている私の方が恥ずかしくなる。
「そうかもね」
 そう誤魔化すように笑うしかなかった。彼はふっと口元を緩めて、
「よかった、しおちゃん笑ってくれて」
と言った。その安堵したような表情が、少しだけ私の胸をざわつかせる。彼の優しさと愛情が痛いほど伝わってきて、くすぐったいような気持ちがした。この人がいてくれてよかったなと、改めて思う。こんな完璧な人が、どうして私なんかを選んでくれたのかはわからないが。
 私たちは7年の交際、内3年同棲した後に、昨年の12月に入籍した。そして2月になって妊娠が判明し、今月6月に式を挙げる、予定だった。女性なら一度は憧れるであろう、ジューンブライドで幸せな結婚生活が幕を開けるはずだったのだ。しかし、新型コロナウイルスの影響で式は中止、準備も全て無駄になってしまった。毎週末に何件も回って決めた式場も、何度も試着して決めたウエディングドレスも、手作りしていたウェルカムアイテムも、全部ふいになった。悲しいやら悔しいやらで、マタニティブルーも相まって彼に何度も八つ当たりしてしまった。誰が悪いわけでもないのに、私の行き場のない気持ちを受け止めてくれた彼には感謝しかない。自分だって辛いはずだが、今もまだ立ち直れずにいる私にいつも寄り添ってくれる。同い年のはずだが、彼がずいぶんと大人に見えた。いつだって私は、彼に追いつけなかった。

 今日も朝から雨が降っていた。代わり映えしない窓の外の風景に、いい加減うんざりする。重たい体を引きずるようにして寝室を出ると、キッチンから包丁を刻む小気味のいい音が聞こえてきた。優しい出汁の香りが、鼻孔をくすぐる。休日くらい、遅くまで寝ていてくれていいのにと思う。
「おはよ……」
 控えめに声を掛けると、
「あれ、しおちゃん早いね、おはよう」
と、少し驚いたような顔を見せた。あなたの方が早いじゃん、という言葉はぐっと飲み込む。朝からなんとなく嫌な気分になって、そう感じてしまう自分に苛立つ。不毛極まりない悪循環だった。
 彼は出来上がった料理を次々とテーブルに並べる。炊きたてのわかめごはん、ちょうどよい焦げ目のついた焼き鮭、ねぎと豆腐のお味噌汁。同棲当初の私でも、こんな丁寧な朝食を作った試しはなかった。今まで基本的に料理は私がしてきたが、本当は自分が作った方がおいしいと思われていたのかもしれない。配膳すら手伝ってとも言われない私は、それが彼の気遣いであるとわかっていたけれど、必要とされていない感じがした。私が彼の妻でいる意味はあるのだろうか。口に出すだけ無駄だし、彼の困った顔が目に浮かぶから、胸の奥にそっとしまい込むのだけれど。
「よし、食べようか」
 ふたりで向き合って座り、いただきますと手を合わせる。箸で小さく切った鮭を口に放り込む。ほどよい塩加減がなんだか沁みる。どんどん彼に作ってあげられる料理が減るな、とぼんやり思った。すると、彼が箸を置いた。
「ねえ、しおちゃん」
「ん?」
「今日、体調大丈夫?」
「うん、平気だよ」
 彼がこれを聞くときは、決まってどこかに出掛けたいときだった。といっても、本屋に行きたいとかその程度のもので、1、2時間もすれば帰ってくる。私はその度に丸一日出掛けてきてくれてもいいのに、と思っていた。
「どこか出掛けるの?」
「うん、しおちゃんも一緒に」
「私も?」
「久しぶりにランチしに行こうよ。実は予約してあるんだ」
 そう言って、ちろりと赤い舌を出して笑ってみせる。珍しく子どもっぽい表情に、思わず笑みが溢れた。そういえば今日は、結婚式の予定日だったと思い当たる。
「行く……!」
 私の返事を聞いて、嬉しそうに顔を綻ばせた。春に買って一度も着れていなかった白のワンピースに袖を通す。丈が長く、裾までティアードになっているので、ふわっと広がってウエディングドレスみたいだと思った。髪の毛は彼が好きなアップスタイルにして、数週間ぶりにメイクをする。念入りに下地を塗って、眉毛を一本一本描いていく。時間をかけてビューラーでまつ毛を上げて、マスカラで慎重に伸ばす。アイシャドウは散々迷って、一番好きなラベンダーカラーを手に取った。彼が何年か前にクリスマスにくれたものだ。どうせマスクで隠れるのに、お気に入りのシャネルの口紅を塗る。リップブラシで丁寧に唇を縁取り、その中を優しく埋める。思えば初めてのデートのときも、同じ口紅を塗っていたことを思い出す。久々に浮かれている自分が恥ずかしく、けれどなんだか嬉しかった。香水をワンプッシュ吹きかける。私には少し、甘すぎる香り。でも彼の好きな香りだ。結婚指輪を忘れずにつけて、家を出た。
 彼の運転でレストランに向かう。車の中は、いつも同じバンドの曲が流れている。最初に聴いたのは、彼が免許を取ったばかりの大学一年の夏休みだったと思う。付き合って間もなかったから、彼は二重に緊張していたのだろう。怖いくらい真剣な顔で運転しているのに、片思い中の男心を歌ったラブソングを口ずさむものだから、そのギャップがおかしくて涙が出るほど笑ったのだ。彼は無意識だったようで、不思議そうに首を傾げていたけれど、それが余計に笑いを増幅させた。あの頃に比べて、彼はとても大人になった。誕生日が少しばかり早いだけで大人ぶっていた私のことなど、簡単に抜き去って成長していった。長い間、一緒に時間を過ごしてきたのに。一体どこで差がついてしまったんだろう。きっと、予定通りに結婚式ができていたら、こんなことは考えもしなかった。普通の生活がなくなって、普通の自分が保てなくなった。なんで、どうして、今なんだろう。完璧な彼に似合うための努力をしなかった罰だろうか。本来、彼と一緒になる運命ではなかったのだろうか。考えれば考えるほど、何とも言えない惨めな気持ちになった。こんなことで悩んでいるのは、この世で私くらいな気がした。
 窓の外に目をやると、見慣れた風景だった。何度も何度もふたりで足を運んだ、結婚式場へ向かう道だ。式場のランチを予約したのだろう。彼は決して行き先を告げなかったが、さすがに7年も付き合っていればわかってしまう。元々私は察しがいい方で、あまり感情をおおっぴらに出す方ではないため、サプライズの類いが苦手だ。嬉しい気持ちはあっても、気づいた状態でリアクションをするというのはなかなか難しかった。少し考えておかなければ、演技っぽさが出ない程度に。そうこうしているうちに、到着した。やはり例の式場だった。
「え、ここ……」
「そう、式場来ちゃった」
と、彼は白い歯を見せて思いきり笑った。
「ここのお料理食べたかったから嬉しい」
 私も笑顔を作る。気づいていたとはいえ、嬉しいのは本心だ。
「よかった。じゃあ、行こっか」
 そう言う彼に手を引かれて入ったのは、レストラン−−−−ではなく。
「ちょっ……直哉?」
「せっかくおしゃれしてくれてるのに申し訳ないけど、着替えて髪とかやってもらってね!」
 いたずらっぽく笑って、私を部屋に押し込んだ。何かを言う隙もなく、ぱたぱたと彼の足音が遠ざかっていった。そこには大きなドレッサーがあり、その側にウエディングドレスが飾られていた。豪華なシャンデリアを始めとしたきらびやかな装飾が細部にまで施されており、女性が好きそうなロココ調のインテリアになっていた。おそらく、ブライズルームだ。
「浅井志織様、お待ちしておりました」
と、スタッフとおぼしき女性に出迎えられる。
「あ、あの、これは……」
「あまりお時間に余裕がありませんので、早速準備に取り掛からせていただきますね」
 恐る恐る訊ねた私を、華麗なまでに無視してそう言った。私はその場に立ち尽くして、スタッフのお姉さんを目で追うだけだった。まったく状況を飲み込めず、うまく頭が回ってくれない。
「じゃあ、お着替えになりますね、こちらに」
と、促されてようやく動くと、お姉さんはウエディングドレスに手を掛ける。
「えっ、これ……ですか?」
「はい。ではお召し物をお預かりしますね」
 にっこりと綺麗に微笑んだ。マスクで半分くらいしか顔は見えないが、間違いなく美人だろうなと思う。それどころではないのだけれど、もう頭がシステムエラーを起こしている。慣れた手つきで、ドレスを着させてくれる。一度考えるのを止めることにして、彼女に言われるままに体を動かす。
「わあ、とってもお似合いですよ」
 その言葉にはっとして鏡を見ると、
「わ、綺麗……」
到底自分とは思えない女性の姿が映し出されていた。ビスチェタイプの胸元は巧緻なレースの素材で、立体的だけど細く見せてくれるデザイン。ウエストからスカートラインが構成されており、ふわっとボリューミーに広がっている。ドレープタイプのフリルが、裾にかけて何段も重ねられたティアードっぽいディティール。私の好みど真ん中のこのドレスは、見覚えがあった。何度も何度も試着して、散々迷って決めたもの。
「これ、私が式で着る予定だった……」
「ええ、新郎様がこちらを、と」
 私はなんだか泣いてしまいそうだった。今すぐ抱きしめたい気持ちだ。
「では、ヘアセットとメイクさせていただきますね」
「あ……お願いします」
 大きなドレッサーの前に座り、女優ライトのような眩い明かりに照らされる。お姉さんに任せることにして、私はゆっくりと目を閉じた。

 どれくらい時間が経っただろう。できました、というお姉さんの声で立ち上がり、全身鏡にその姿を映した。まるで別人だった。自分で言うものではないが、すごく綺麗だと思った。
「とってもお綺麗です! 新郎様も喜びますね」
髪色も微妙に落ちているし、肌の調子も別に良くないし、減量もやめてしまったから少したるんでいるけど、それでもお姉さんの褒め言葉を、素直に受け入れられるくらいには自信がついた。直哉、喜んでくれるといいな。
「ありがとうございます」
「いえ、では行きましょうか」
 お姉さんに連れられて、入場扉に向かう。そこには、白のタキシードを着た彼の姿があった。必ずどこかしらハネている猫っ毛が、少しの乱れもなくしっかり決まっていて、シンプルなタキシードが彼を存分に引き立てている。いつもはにこにこしている彼の真剣な眼差しに、不覚にも胸がときめいた。ついぼうっと見惚れてしまう。
「しおちゃん……すごい、綺麗」
 驚いたように目を丸くして、そう言った。私は顔が熱くなった。
「ありがと……」
 少し俯いてしまう。
「行こっか」
 黙って頷く。差し出された彼の手を取る。
「新郎新婦、入場」
 扉が開く。もちろん誰もいない。がらんと空いた席を見て、ふいに笑ってしまう。私の顔をちらと覗く彼にアイコンタクトをして、一歩、踏み出す。花嫁の一生を表すという、バージンロード。歩くことはできないと思っていたから、嬉しかった。この人と、散り菊のごとく穏やかに燃え尽きていけるよう、最期まで共に歩んでいけますようにと心の中でそっと願う。彼も同じように思ってくれていますように、とも。

 式を終えると、披露宴の会場に通され、新郎新婦の席に座らされる。
「写真でも撮るの?」
「まあいいからいいから」
 彼に訊ねるが、曖昧な返答しか返ってこなかった。
 すると、スタッフの方が大きめのタブレットのようなものを用意し始めた。そして次々と料理が運ばれる。訳がわからず困惑していると、
「結婚おめでとう!」
 たくさんの人の声。画面の方を見ると、見覚えのある顔が多く映っていた。
「え! どういうこと……!」
「Zoomで繋いでるんだよ、オンライン披露宴。さっきの式も実は映してたんだ」
 直哉の言葉に、私は涙が溢れてしまいそうになる。私の両親や高校、大学時代からの友人、高校時代の部活の顧問に、会社の同僚まで。私たちのために会えないながらも、時間を合わせて祝おうとしてくれた。こんな幸せなことがあっていいのだろうか。
「みんなありがとう……!」
 私が言うと、それぞれからばらばらと返事がくる。それがなんともおかしくて、私は思いきり声を上げて笑った。こんなに笑えたのは久しぶりだった。
 それから皆で食事をして、何人かに分けて話をしたり、写真を撮ったりした。参加してくれる人の家に、式場で食べるのと同じ料理を届けてくれるサービスがあるらしい。それらを全部直哉が手配してくれたと思うと、本当に頭が上がらない。
 そして、楽しい時間はあっという間に過ぎ。
「今日は、本当にありがとうございました! 皆さんのおかげで、とてもいい結婚式になりました」
 直哉は笑ってみせる。柔らかい笑顔を崩さないまま、
「僕は、生まれてすぐに家族を亡くしました。だから家族の記憶がありません」
と、急に深刻な話をし始め、しんとした空気が流れる。
「しおちゃんは、そんな僕と初めて家族になってくれた人です。僕には、ずっと彼女だけです。まだまだ未熟で、不器用な僕ですが、彼女を一生守っていきますし、一緒に幸せになります。ですから、これからも応援よろしくお願いします……!」
と、頭を下げた彼に盛大な拍手が贈られた。彼の言葉に、私はぎゅっと胸が締め付けられるような感じがした。私には、この人しかいない。たとえ運命でもそうでなくても、直哉と生きていく道を選んだのは正しかった。確信した。
「志織さん、なおを頼むなあ。こいつ、同棲し始めてから料理教室通うくらい頑張り屋なんよお。可愛いやろ?」
 酔っぱらった彼の友達が、笑いながら言った。
「お前それは言うなって……!」
 焦った彼の耳が赤く染まっていく。そんな姿がとても愛おしく感じた。別に元から完璧なわけじゃなくて、私のために努力してくれていたのだ。お互い思っていることは、案外似たようなことだったのかもしれない。
 人生一度きりの結婚式がなくなって、なんて不幸なんだろうと思っていた。でも、違った。会えないからこそ、大切さを再確認できたり、今までと違うからこそ、記憶に深く刻み込まれたり。決められた幸せに倣う必要なんてなかったと気付かされた。綺麗事に聞こえるかもしれないけど、幸せは自分自身で見つけていくのだと思う。どんなに日常が変わっても、当たり前が当たり前じゃなくなっても、大切な人と一緒に生きていきたい。そう思える今が、私は何より幸せだ。

「青」 とろろ

 私の世界にコロナがいるとは思えない。だってこんなにも青空だ。だってこんなにも風が気持ちいい。私の世界を脅かす何かがすぐ近くまで迫っているなんて到底思えない。しかしこんなにも気持ちの良い青であっても、決して何もかもが私の味方ではないことを知っている。2011年3月11日に見た空もこんな青だった。地震が起きたとき小学校の教室にいた。廊下の排水溝が破裂し床が水浸しになり、外へ逃げるときに地震と上から降ってくる水に耐えながら走った。防火扉がゆらゆら動き、急がなければ進路を塞がれて取り残されるのではないかと必死になって。クラスみんなで走って逃げていたのに、みんなが味方のように感じなかった。地震が起こるたびに家の中に居たら崩れて死ぬのではないかと不安になり、思わず庭に飛び出したことがある。芝生の上にしゃがみ込み見上げたときに感じたあの空の青さ。風が不気味なほどに心地よく、世界に私たち家族しか存在しないのではないかと本気で思った。ダメな奴だ。すぐに忘れてしまう。ロウソクを立てて冷やご飯を食べた夜。ガスでご飯を炊いて鮭を焼いて食べた朝。鮭の皮、これまで残していたけど涙が出るほどおいしかった。温かいご飯が私にとってどんなに大切だったか。テレビが映らない中新聞がどんなに心の支えだったか。新聞に大きく掲載された福島の原発が爆発している写真がどんなに衝撃だったか。すぐに、すぐに、忘れてしまう。今や鮭の皮は当たり前に残すし、新聞はほとんど読まない。いつの間にか。ダメな奴だ。私はもうあの頃の感情を鮮明に思い出すことができない。県内のコロナ感染者第一号の人、自殺してしまった。まだ小さい幼稚園生の娘を残して。それが正義だと信じてやまない悪意のない悪意に苦しめられたのだろう。みんなダメな奴だ。差別はやめよう、いじめはやめようというその口で平気で人を非難する。それが正義だと疑わずに、みんなの意思だと疑わずに。自分を偉いと思うのは結構。でも自分が常に正しいと思うのにロクな奴はいない。私はこの世に大嫌いで軽蔑するものがたくさんあるが、それを大好きだと尊敬している人を大嫌いにはならない。もちろんこれは自戒も込めている。なりませんように。今日は7月7日。七夕だ。織姫と彦星が年に1回会える日。今日は満点の青空だったから必ず会えるだろう。ここで私が、コロナが収まりますように、私の未来が永劫安泰ですように、と願っても織姫と彦星にとってはなんのこっちゃ分からないはず。1年に1回しか会えない夫婦がわざわざ人の願いを叶えるだろうか。いや叶えない。すぐに忘れてしまう私は、時々でいいから日記をつけようと思う。どんなにしょうもないことでも後に役立つかもしれない。役立たなくてもいいから、私の感情や体験をこの先もずっと私のものにさせておくために必要なのだ。私はズルい奴だから全部全部自分のものにしていたい。手始めにコロナ自粛により昼食を作るようになり、ここ3か月間毎日パスタを食べている私がいつまでパスタを食べ続けるのか記録として日記につけよう。7月7日の昼ごはんはトマトクリームパスタを作った。明日は何のパスタを作ろうか。梅雨が明けたのか、明日はまた晴れるらしい。モワモワと蒸し暑い部屋の窓から星はまだ見えない。青が赤に変わってきた。はやく黒になりますように。

「誰かのアルバムを救いたくて」 山瑚

 先日、何気なくスマホをいじっていると、珍しく自分のTwitterのDMにメッセージが届いた。それは高校の後輩の弟からで、私が高校3年の文化祭用に書いた脚本を、今年の文化祭で再演したいとのことだった。もちろん二つ返事で返したが、自分の脚本が使われる喜びよりも先に、文化祭がこの状況下でもできることが何よりも嬉しかった。
 よく、コロナのせいで様々な学校行事がなくなって嘆く学生に、“この状況なのだから仕方ないだろ”だとか、“命の方が大切だろ”とわざわざいう人を見かけるが、学生にとって、その1年は1回きりしかない。特に、中学や高校のクラスは、下手すればその1年ぽっきりである。現に、私の高校の理系クラスは、授業の関係で1年ごとにクラス替えがあった。私は文系クラスで、2,3年生の2年間同じクラスだったのだが、3年生の文化祭は地獄だった。私の高校は金曜日に前日祭、土・日曜日の2日間かけて本祭を行なう。余談だが、太宰治の母校、青森高校が私の地元で一番文化祭が豪華で、前日祭・本祭に加えて、花火打ち上げ、さらに本祭の翌日には後日祭として、市内のホールを貸し切っていた。この4日間の文化祭に憧れる受験生もかなり多かったのをよく覚えている。
 さて、私はその高校生活最後の文化祭で、大恥を掻いた。早い話が、全校生徒の前で大滑りしたのである。前日祭の午後、演劇部の発表が終わって一安心している頃、全クラス出場の映像コンテストが始まった。基本どのクラスも笑いが取れるような映像を作ってきて、大体どこかで爆笑が起こる。しかし、私のクラスの映像が流れる3分間、1000人弱の生徒がいるはずの体育館が静まりかえっていた。今思い出しても地獄である。さらに、その地獄が終わった直後、クラスの出店の宣伝をしなければならなかったのだが、ここで大きな問題が生じた。私を含む仲のいい友達が待機場所に移動したが、誰が宣伝するかを全く決めていなかったのである。男子は年頃で恥ずかしがって出ないし、いつも仕切るリーダー気質の女子2人も恥ずかしいとか言ってそもそも待機場所にすら来なかった。結果、演劇部で辛うじて表に立つことになれていた私が決められた台詞を即興で覚えて宣伝をしたのだが、全校生徒の前でとんでもない醜態をさらすことになった。その後はクラスの文化祭中心メンバーの女子が大泣き、舞台上にも出てこなかったアイツら何なの、とか最悪の空気になるのだが、一番大やけどした私に何か言うことないのかな、と思ったのはまた別の話。
 私はこれが当時かなりキツかったからか、未だに文化祭が近づく季節になると悪夢に見る。実際、先月くらいに一度うなされた。だからといって、文化祭自体が最悪だったかと聞かれればそうでもない。演劇部の前日祭公演は好評で、本祭2日間で上演した、3年の引退公演の最終回も、部屋に入りきらないほどの満員だった。相当蒸し暑い日で、しかも上手も下手もない教室での上演。確か下手はドアの向こうの廊下にして、暑いからと顧問が急いで扇風機を持って来た。下手で待機していると、通りすがりのお客さんが不思議そうな顔をしていて、友達と顔を合わせて笑った。
 そんな母校の文化祭はいよいよ明日かららしい。生徒だけでの開催らしいが、まず開催できるだけでも本当に良かった。今年は、そもそも文化祭自体開催できない学校の方が圧倒的に多い。文化祭だけでなく、入学式、卒業式、修学旅行も難しい。つい先日は、横浜市の成人式までもがオンラインで開催すると決定された。私がここまで長々と語った思い出話ができない、その思い出を肴に、20歳になったとき顧問とお酒を飲む、文化祭の悪夢にうなされる。こんなことができない今年の高校3年生はたくさんいる。
 コロナで毎日耳を塞ぎたくなるようなニュースが報じられていた頃、甲子園やインターハイの中止が決まった高校生がTwitterで呟いていた一言が、今も私の胸に染みついている。
「大人は勝手に『仕方ないだろ』とか言うけど、学校行事も何もなくて、空白だらけの卒業アルバムを一生抱える私たちの気持ちにもなって欲しい」
もうすぐ、梅雨が明けて夏が来る。高校生達の最後の夏が、ひっそりと始まってしまう。これ以上、たくさんの人の“最後の1年”が無くなってしまわないように、せめて卒業までにアルバムを埋められるほどの行事ができるように、今日も私は家に籠もる。

「ひきつれ」 梔子

 コロナとは、やけどのようなものだと思う。勿論、実際にかかった時の症状がそうだという訳ではない。生身に負う傷としてそうなのではなく、いうなれば、社会のやけどなのだ。目に見える傷も見えない傷も、至る所にずっと残されている。忘れられるようでいて、そうではない。目で見て、時折痛みも覚えて、でも忘れてしまえもするから、気付いた時にはまた、新しい傷を負っている。そんな、どうしようもない日常の傷なのだ。
 鋭い程痛むとも限らない、何とも因果な傷。それがやけどだと私は思う。
 去年、熱湯を腿にこぼして毎日のように通院することになった時のそれはまるで痛みも感じなかったのに、先日指に負って病院にも行かなかったそれは、じくじくと、その日起きている間はずっと痛み続けていた。かつて、「2度の深い方」なんて言われたそれは、水膨れ以外に気になることもなかったから、ちょっとやらかしちゃって、と笑っていられた。指を熱湯に溶かしたてのカフェオレで濡らしたその夜は、冷やしても冷やしても収まらない指の痛みに、そのせいで期限までに提出できなかった課題にじんわり泣いていた。
 結局二回とも、今となっては私の身体に意地汚く痕を残すばかりで、もう少しも痛むことはない。私に残されたのは、醜い染みと、引き攣れた皮膚だけだった。
 コロナもそうだ。きっといつか醜い痕になって、そこにあった痛みは忘れてしまう。だが、忘れてしまうだろうことと、痛まないこととは同じではない。痛みは常に日常の中に潜んでいる。それを見ないでいられるだけで、きっと、今しばらくは痛み続けるのだろう。
 何も、感染者数を知らせる通知だけが傷ではない。亡くなった人の数だけが傷ではない。大抵の施設の入口に置かれるようになった消毒液のケースや、カウンターに張られたビニールカーテン、毎年この時期は毎日のように並んでいたのに、殆ど使いもしなくなってしまったバス停、そんな些細なものでさえ、きっとそれは傷なのだ。それも、例えそのものがなくなったとして、ずっと思い返すような、痕として残るものなのだ。
 そして、日常の中に常に垣間見えるそれよりもずっと痛む傷が今、私にはある。
 
「今年は年末まではちょっと無理かな」

 今一番私を悩ませているものがこれだ。実家の家業を一人(正確には弟と二人)支える父のためにと、そして実家には来客が多いからと、私は、帰るという選択すらも奪われてしまった。帰省先にいる場合は連絡を、なんて文字をよく以前は見かけたものだが、私にはその選択肢は許されていなかった。私がコロナに奪われた中で、きっと一番大きいものはこれだろう。こんなに帰りたい気持ちで一杯なのに、私には今、その先がない。
 母の言葉通りになるなら、今年も終わろうとする頃には、きっと、私にそれは戻ってくる。電話口で帰りたいと何度も口にした私に苦笑した母は多分、その日さえ迎えれば、私を受け入れてくれるのだろう。勿論その時に、この状況が改善していればではあるが。
 それまでは、この痛む傷を引きずるしかない。自粛と予防と、それから課題の締め切りと、そんな言葉にがんじがらめにされた日常の中に身を置いて、ただ置き去られて顧みられないカレンダーのように、無機質に日付をめくっていく。それが、今の私にとっての生活になっている。
 きっと私は、この日々を忘れられないだろう。いつになるかは分からないが、このコロナが沈静化し、感染者数が報じられることがなくなったとしても、何かにつけて思い出すのだ。その頃にはきっとこれは、常に痛む傷ではなくなっている。それでも、その痕を目にしてしまったら、その痕が浮かんでしまったら、きっとこの傷がまた、ちくりと痛むのだろう。
 私の親指に残って、こうして今文章を打っている瞬間にも、醜い傷を晒し痛みを生んでいるこの痕のように、きっといつまでも、この傷は残り、そして時折痛み出すのだ。「コロナさえなければ」、「コロナで大変だったあの時は」、そんな言葉を、これから飽きる程聞くことになるのだろう。私のこの口からだって、一体何度飛び出すか分からない。
 今、まだ熱を持って広がっているこの傷が癒える日など、本当に来るのだろうか。コロナ、この三文字に焼かれてしまった痕が消える日など来ないのではないか。鋭い痛みを伴わないこのやけどは、一体どんな痕をこれからの日々に残すのだろう。
 じわりじわりと滲む痛みを抱えて、今の私はそんなことばかりを考えている。
                          end

「祖父の笑顔」 やえ

 仏壇へ近づくと、線香の香りが鼻についた。他はなんともないのに、この香りにだけは灰の色がついているような気がする。目的もなく、ゆったりと灰色は和室を漂う。頭に浮かぶその光景はまさに日本そのものだと、僕はいつも思うのだ。仏壇のすぐそばには、サクランボが不自然なほどに照り輝いている。部屋の照明が強いのか。明日ごろには食卓に並ぶだろう。
 母親が自分を呼ぶ声を聞いて、我に返った。朝からたそがれている場合ではない。今日は、僕が初めて高校に行く日なのだ。初日から学校に遅れてしまうのでは、あまりにもお恥ずかしい。
 改めて大きく息を吐いて、まっすぐ目の前を見つめた。祖父は数年前と変わらない、威厳のある目つきで僕を見つめている。遺影だから変わらないのは当たり前だが。ただ変化がないというのが、僕には随分とありがたかった。
 どんどん僕は歳を取って、成長していく。一瞬たりとも、僕は止まれない。それは嬉しいことではあるけれど、ふと怖くなるのだ。知らない場所へ行くときや、大切な試験を受けなければならないとき。新入生になるときだって、もちろんそうだろう。挑戦には勇気が必要だし、今より悪い状況になるかもしれないという恐れもある。そういった日に祖父に手を合わせると、あの皺だらけの手が僕を守ってくれる気がした。失敗しても、祖父が黙って隣にいてくれるような感覚がある。だから多少の時間を食っても、祖父に手を合わせるという儀式が、僕には必要だった。
 チンと、お鈴の音を鳴り響かせる。新しい今日に対する胸のざわめきも、この音を聞けば静まっていく。そして祖父を目の裏に浮かばせながら、手を合わせた。ゲン担ぎはこれで終了だ。そう思いながら祖父を想像したが、どうも違和感がある。間違いではないが、これは祖父ではないというか。首をひねりながら、僕はもう一度目を閉じた。
 スッキリと毛のない頭に、切れ長の目。一重はどうしても敬遠されがちだが、僕は祖父の瞳が好きだ。祖父の瞳はかえって無駄なものがなく、男らしく見える。うんうん、これが僕のおじいちゃんだ。次は綺麗に通った鼻筋と、真一文字に結ばれた唇だろうか。僕は口元に笑みを浮かべながら、祖父の顔を想像する。そして、はたと困ってしまった。
 どれだけ頭を巡らせても、祖父の鼻や口は考えられない。あの忌々しい白。今を代表するとも言える、真っ白なマスクが祖父の顔半分を覆っていた。
 勢いよく首を振って、考える。考える、考える、考える。血色がなくて薄い唇を考える。木枯らしのようでいて、凛々しく広がるあのシワを考える。しかしいくら部分的に思い出すことができても、全体を見ようとすれば、あの白が邪魔をしていた。どうやっても祖父の顔がわからない。
「やばい!じいちゃんがマスクしとる!」
 ついそう叫ぶと、迷惑げに母がふすまを開けた。まだ出勤の準備はできていないらしく、髪がところどころ跳ねている。鬼ババ度100%。
「飛鳥(あすか)! アンタいつまで仏壇で遊んどるん。さっさと食べぇな。」
「いや母ちゃん、それどころじゃないんよ。じいちゃんがマスクしとるねん。」
 鋭く光る眼光。更なる怒号が重ねられなかっただけ、今日の僕はラッキーだろう。なにかと忙しい朝の時間、息子の妄言に付き合う暇もない。母がいらだちをどうにか抑え込もうとしているのが、僕の目にもよくわかった。母はけだるげに髪をかきながら、祖父の遺影を指差す。
「マスクなんかどこにもないやろ。冗談も大概にしぃ。」
「そうじゃなくってな、なんていうの。僕の想像の中のじいちゃんが、どうしてもマスクしとると言いますか。」
「なに? アンタのイマジナリーおじいちゃん?」
 拍子抜けしたような声。コロナでついに頭までいかれたか、とでも思われていそうだ。
「アンタねぇ、だったらそのマスクに黒いペンで落書きでもして、笑顔にさせときな。」
 母はそんなことを呟きながら、台所へと消える。失笑という言葉が、よく似合う表情だった。
 あとにはまた僕と祖父だけ。しょうがないので、想像の祖父をペンで笑顔にしてみせる。マスクには見事な曲線が描かれた。いつも祖父は気難しげだったのに、こうしてみると随分可愛らしい人のように思える。僕はこんなに笑顔の祖父を見たことがない。こんなふざけたマスクをつける人では、絶対になかった。
 だからこそ、この姿の祖父はなんだか愛しい。今はもう会えない人の、新しい一面を垣間見たような気がする。心なしか、目尻も柔らかに下がっているようだった。こんなじいちゃんも、たまには悪くない。
 再び前を向くと、いかめしい顔の祖父の写真がそびえ立っていた。この人があのへんてこなマスクをつける時なんて、ないのだろう。というかマスク自体毛嫌いしそうだ。こんなものは女がつけるもんだ、とか言ってそうだなぁ。昔かたぎの人だったから。
 母の怒号が鳴り響くのを聞いて、僕は慌てて席を立った。のんびりしすぎたかもしれない。雷が轟くような声音だった。それでもなんだか、つい口元が緩んでしまう。窓へ視線を移すと、晴天という言葉がよく似合う色をしていた。マスクをつけるには少し暑いかもしれない。黒いペンで線をかけば、暑い気分も紛れるだろうか。いや、逆に黒のせいで太陽の熱が集まって、大変なことになるかもしれない。
 そんなくだらないことばかりを考えながら、僕は記念すべき高校生最初の朝ごはんに取りかかった。

「三月の桜は空気を読まない」 野田紗也佳

新型コロナウイルスというものが流行りだしたことにより日本から居なくなったものがあります。例えば訪日外国人観光客。自粛明けに久しぶりに高校の友達と浅草に遊びに行ったとき、いつもなら記念写真のために外国人であふれる雷門や商店街はがらんとしていました。背の低い私からすると雷門から商店街の奥にある浅草寺が見えたのは初めてだったので少し得した気分。以前来た時は商店街の端から端まで行くのに一苦労、人が多くて食べ歩きなんてできたものじゃない、それが浅草だったのに、そんな日常は随分遠くに行ってしまったようでした。
 訪日外国人観光客やオリンピックを始めとして、日本からいろいろなものが無くなったり無くなりそうになったりしている今日この頃、実は日本からもう一つ居無くなりそうなものがあることに日本人は気づいているのでしょうか。日本人が昔から大切にしてきたもの。歌や小説やファッション、食べ物や娯楽、その全てに関わる日本特有のもの。月日の流れを感じさせてくれる存在。「四季」が無くなりつつあるのです。
「なぜ新型コロナウイルスで四季が無くなるのか」と思う人が多いのではないでしょうか。そもそも地球の環境が変化していくなかで、日本の本当の四季は少しずつぼやけていっていたということは誰もが頷いてくれると思います。春というには寒すぎる雪の降る三月、梅雨なのに雨が全く降らない六月、残暑なんて言葉では足りないほどに寝苦しい十月。最近このような「季節外れの」という言葉が頭につく天気予報を耳にする機会が増えました。毎年聞くせいで「今日十二月十日は季節外れのポカポカ日和、例年の三月ぐらいの気温です!」などという天気予報に「え? 結局今日は暖かいの? 寒いの?」と惑わされ、薄着で出かけて悔しい思いをする、というようなに経験をしたことがあるはずです。
 ではなぜそんな日本で今まで四季が保たれていたのか。その理由は日本人が毎年していた数々のイベントや伝統行事にあったのです。例えば三月や四月の寒い日に行われる「お花見」というイベント。そこに満開の桜の花がなかろうと食べ物とレジャーシート、あとは紙コップに桜の絵が印刷されていればそれはもうれっきとした「お花見」であると私たちは考えます。そして心の中で「今年も春が来たな」と思うのです。他にも出かけた先のスーパーなどで笹と短冊が飾ってあるのを目にしたとき自分も適当にお願い事を書くと自然に「もう七月か、夏が来るなあ」と思えしまいます。どんな時でゴールデンウィークになれば春の終わりを感じますし、六月はどんなに暑くても印象に残るのは雨の日ばかり、気温に関係なく夏祭りが開催されれば夏を、秋まつりが開催されれば秋を感じる。イベントや伝統行事があるから感じることが出来るもの、それが今の日本の「四季」だったのです。これが新型コロナウイルスにより明らかにされました。
 今、様々なイベントが中止や延期になり家にいる時間がふえました。今年はゴールデンウィークがありませんでしたし、花火大会もなければ夏の音楽フェスもなくなりました。夏の次は秋を知らせるイベントや伝統行事がなくなっていくでしょう。こんな新しい日常の中で果たして日本人は今日が春夏秋冬のどこに当てはまるのか感じることが出来るのでしょうか。私は昨日駅でたまたま目にした笹と短冊のおかげで夏が来たことを感じることが出来ています。そうでなければきっと夏に気づけなかったはずです。新型コロナウイルスによって今日本から大切なものがじわじわと無くなっています。いつか「四季」が「三季」や「二季」になってしまってもおかしくない日常がゆっくりと近づいてきているのです。

「変化」 小林響

 新型のウイルスが流行したことによって、僕の生活は一変した。
 いや、僕が変わったのではなく、周りが変わったというべきだろうか。引き籠りである僕の生活は特に何の変化もしていない。前は親から説教を毎日のようにされていたのだが、それは無くなった。
「さて、授業でも受けるか」
 学校に行かなくて良いというのは気楽だ。僕含めて、勉強が嫌で不登校になっている人というのはそう多くないだろう。家で授業を受けられるというのなら、僕はそれでいい。クラスメイトと談笑なんて柄でもない。
 コンコンとドアを叩く音がする。僕はその音に対して、軽く返事をする。
「あら、しっかり授業受けてるのね。偉いわ。じゃ、朝ごはん置いていくわよ」
 それだけ言うと母親は僕の部屋から立ち去って行った。僕は以前と変わらず自室にいるだけなのだが、こうも簡単に現実というのは変わってしまうのかということをこの肌で感じていた。
 煩わしい人間関係もなければ、授業中に教師が他の生徒への注意を行うこともない。そして、自分の聞き逃した授業内容は戻して聞き直せば良い。僕は、家から出ない自分が正義になった世界を謳歌する。
 授業を受け終えると、僕はいつものようにオンラインゲームを起動した。中学の頃に仲が良かった奴らもオンライン授業になっているので、最近また連絡を取り合うようになった。
「よ。元気してるか?」
 通話を繋ぐと友人が僕に問いかけてくる。
「勿論元気だけど、いきなりどうした?」
 昨日も一緒にオンラインゲームをしていたというのに、よくわからない質問をしてきた友人に僕は疑問を投げかける。
「いや、最近学校行けてないだろ? やっぱりクラスで授業を受けている雰囲気とか、そういうの含めて学校生活っていう感じがするからさ、ちょっと寂しいんだ」
 なるほど。結局こいつもそういうタイプか。明らかに今の授業形態の方が効率的で、且つ過ごしやすいに決まっている。
 僕は彼のその言葉には答えずに、そのままゲームを続けた。

————あれから数か月経った。
 授業形態はずっとオンラインのままであったが、途中から段々と、教師が生徒同士を会話させるという場面も増えてきた。実際、それに巻き込まれていた最初の頃は飽き飽きしていたのは言うまでもない。しかし、そんなことを何回もやらされていては嫌でも慣れが生じる。いつの間にか、クラスメイトと実際に顔を合わせて会話してみたい、空間を共有したいという自分の柄でもない欲求が高まっていくのを実感していた。僕は今まで他人と触れ合わずに、無駄なことだと否定し続けていた。
 しかし、今回のウイルスを通したことにより、以前引き籠っていて、親からは悪いと思われていた僕が良いへと変化しただけでなく、僕が悪いと思っていた考えが良いへと変化した。もうしばらく経てば、僕の引き籠りはまた咎められることになるだろう。だが、現実だけでなく、僕も変わったのだ。
 行こう、学校へ。

「コロナウイルスが無くなる日(星新一へのリスペクトをこめて)」 田村元

「コロナウイルスをこの世から無くす装置を発明したぞ」
 博士は助手にそう言った。
「本当ですか、博士。それが本当だとしたら凄いことです。早速世界中に発表しましょう」
 助手は驚きを隠せないと言った様子で、博士に向かって話している。
「いや、待ちたまえ助手よ。ひとまずこの装置の原理について説明させてくれ。それからでも遅くない」
 博士は落ち着いた様子で助手を諭す。
「なるほど、そうですね。原理が正しいことをここで証明してから世界に発表した方がいいですね。さすが聡明な博士だ。」
 助手は近くにあった椅子に座ると、博士の次の言葉を待った。博士も同様に椅子に腰かけると、すぐに何やら大きな立方体の装置を指差した。
「いいかね、助手よ。この装置のあるボタンを押すと、アンテナから特殊な電波が出るのだ。それがあたり一面に作用して…」
「コロナウイルスを殺してしまうというわけですね? 素晴らしい発明です!」
 助手がそう発言すると、博士は少し嫌そうな顔をした。
「いや違う。辺り一面に広がった電波は近くにいる生物に作用して…」
「その生物の体内にいるコロナウイルスを殺すわけですね?やはり博士、目の付け所が違う」
 博士はさらに嫌そうな顔をした。
「いや違う。この電波は生物に作用するが、コロナウイルスを直接殺しはしない。」
「すると…そうか! 電波が生物の免疫機構に作用することで、コロナウイルスへの耐性を作るというわけですね! さすが博士、これは医学の歴史を塗り替える発明ですよ」
「いや違う。君は人の話を本当に聞かないな。そう言った姿勢はいつか君に災いをもたらすぞ」
 博士の語気にはわずかな怒りが含まれている。助手はその様子を見て少し萎縮した。
「すみません。博士、それで一体その電波は、どうやってコロナウイルスをこの世から消すんです?」
「そうだな。その話をする前に、コロナの恐ろしさについて話す必要があるだろうな」
 助手はそんなまどろっこしい話を聞きたくはないと思ったが、これ以上博士を不機嫌にしないために口をつぐんだ。
「いいかね。コロナウイルスはもちろん、ウイルスとして強力でおそるべきものだ。しかし、それ以上にコロナウイルスによって引き起こされる出来事の方がよっぽど恐ろしいんだよ」「その出来事とは?」
 助手は最小限の言葉数で博士に質問する。
「それは人間同士の争いだよ。君もこの数ヶ月様々な場所で目にしてきただろう。」
「はあ」
 助手はその陳腐な答えに少し呆れているようだったが、そのことは口にしない。
「例えばマスク購入をめぐる小さな争いから、ストレスの蓄積で起こった各国での暴動、多様な事件が私たちの周りで起きている。そう言った騒動の方がよっぽど危険なのだよ」
「その意見はわかります。ですが、それが一体この装置に何の関係があるというのです」
 助手は痺れを切らし、再度質問する。
「まさにその問題の解決したのがこの装置なのだよ。そして君には秘密にしていたが、もうすでに作動させてあるんだ」
 その発言に、助手は大きな衝撃を受けた。
「そうなんですか博士! それなら最初に言ってくださいよ。それで具体的な原理はどうなっているんです?」
 博士は深呼吸をすると、落ち着いた様子で口を開いた。
「この装置はアンテナから電波を放ち、その電波は周辺の生物の脳にある影響を与える。」
「ある影響?」
「そう、この電波は脳内のコロナウイルスに関する情報を全て消去してしまう、そう言った効果があるんだ」
 助手はその言葉を聞くとさらなる衝撃を受けた。
「何を言っているんですか博士! この装置が本当に、コロナウイルスに関する情報を消去してしまうとしたら大変なことです! それこそ、人間がコロナウイルスへの対策を一切取れなくなってしまう。多くの人間が死ぬことになりますよ!」
 助手が語気を荒げて話しているのとは対照的に、博士はまるで落ち着き払っている
「まあまあ助手よ、落ち着きたまえ。一度紅茶でも飲んでリラックスした方がいい」
「紅茶!? 博士!今、どういう状況だかわかっているんですか?」
「どういう状況なんだね?」
 博士が問う。
「そりゃ決まってるでしょう! コロナウ…あれ…?」
「どうしたんだね?」
 ニコニコしながら、博士はさらに問う。
「私は何の話をしているんでしたっけ…?」
「さあ。私もさっぱりわからん。とりあえず紅茶でも飲んで落ち着こうではないか」
 助手は不思議そうな顔をしてから、紅茶を飲んだ。博士の傍に置いてある直方体は、世界に向かって電波を放ち続ける。
 その日世界からコロナウイルスは無くなった。

「起死回生ホームラン」 上條花瑛

 玄関をくぐると、ふわ、と風で髪が靡いた。
 ゆっくりと歩を進める。1歩、2歩。――大丈夫だ。歩ける。マスク越しに思いっきり息を吸って、吐いて、たまらなくなって視界が滲む。
 夜を照らす街灯を頼りに、私は誰もいない道を歩き出した。
 
 いつからだっただろうか。
 小学校?中学校?それとも幼稚園から?
 あまり覚えてないけれど、記憶のなかの私はいつも俯いていて、鏡が嫌いで、そして独りぼっちだった。
 子どもは残酷だ。自分たちと、「普通」と違うものをはじき出し、追い詰め、それでいてなんの罪悪感も覚えない。たぶん彼らにとって、「普通」じゃないものは同じ人ではなかったんだろう。足元の蟻を踏み潰すような気軽さで、私は彼らからはじき出された。
 クスクスと嗤う小さな声も、歪められた表情も、嫌悪が滲む瞳も、全部ぜんぶ大嫌いで。
 私は、いつも俯いていた。
「――ねえ、結月さんのソレ、どうしたの? 痛くないの?」
「……これ、は……生まれつきで……」
「ええーそうなんだあ」
 ――かわいそうだね。
 中学に上がってからは、あからさまにつまはじきにされたり嗤われたりすることは少なくなって、私は「かわいそうな人」になった。
 憐れむようでいて好奇心を隠しきれていないその眼が耐え切れなくて、休み時間のたびにトイレや空き教室に駆け込んだ。授業開始2分前、手を洗いながらそろりと目の前の鏡をうかがう。そこには、陰鬱な顔をした女が立っていた。
 ぱっと目を引く右頬全体に広がる青い痣。伸びた黒髪の隙間から、おどおどと自信なさげにこちらをうかがう目と目が合った。急いで視線をそらし、俯いたまま足早に教室へと向かう。賑やかな教室にそろりと入り込み、椅子を引いたところで授業開始のチャイムが鳴った。
 ――この顔のせいで、私は。
 間延びした教師の声を聞きながら、私は無意識に頬に手をやっていた。

 私の顔には、生まれつき痣がある。
 生まれてすぐは小さく薄かったらしいが、成長するにつれてだんだんと色が濃くなり範囲も広がっていった。別に命の危険があるとか触ったら病気がうつるとかはなくて、でもみんなにはないこの痣が不気味だと私は彼らのなかからはじき出された。小学校くらいまではよくばい菌扱いされたりして、誰も私に近づきたがらなかった。遠巻きに異物を見るような眼で見つめられ、ひたすら俯いて耐えていた記憶がある。
 中学に上がってからは、分別がついたのか周囲はほんの少しマシになって、でもやっぱり私はみんなと一緒にはなれなかったし彼らの輪に入れてもらえることもなかった。「優しい」女子たちが数人で声をかけてきても、痣のことを聞かれてかわいそうだと言われるだけで、会話することに慣れていない私がグループに入れてもらえるわけもなく、たいてい1、2回話せばそのあと話しかけられることもなかった。
 たぶん、必然だったんだろう。私は、不登校になった。
 中学はよかった。義務教育だから通わずとも進級できたし、卒業式だって行かなかった。
 高校は通信制にして、単位取得できる行事だけ参加した。あまり学校になじめなかった人も多かったからか、ずっとマスクをしていても咎められることがなかったからか、居心地は悪くなかった。
 大学は、死に物狂いで勉強していいところへ受かった。勉強ができることと頭がいいことはイコールではないけれど、偏差値の高い大学の方が頭がいい人は多いだろうし、偏見だけど頭がいい人のほうがずかずかと人の地雷に踏み込んだりしないだろうとも思ったからだ。
 それでも、入学前は本当に怖くて、何度も入ってすらないのに学校をやめようと思った。高校と違って毎日学校に通わなきゃいけなくて、少しでも慣れようと家を出ては恐怖で動けなくなったりトイレに駆け込んで吐いたりを繰り返した。みんなに見られている気がして、不審な目を向けられている気がしてだめだった。
 そんなときだった。
 コロナウイルスが流行り始めたのは。
 最初は気にしていなかった。別に外に出たりできるわけでもないし、感染なんかしないだろって。どこか他人事のような。
 でもコロナはどんどん流行していって、しまいには緊急事態宣言なんて出だして、町から人が一気に消えた。
 道行く人はみんなマスクをつけて、人と関わらないようにうつらないようにと足早に歩く。私は、思った。思ってしまった。
 ああ、今なら、私は外にも出れるんじゃないか。
 マスクをつけておどおどしながら歩いたって、人から見られたりすることはない。
 だってみんな一緒だから。いつもの私が、私のままで彼らのなかに入っていける。
 そう考えるといてもたってもいられなかった。クローゼットから比較的新しい服を引っ張り出して、マスクをつけて靴を履く。
 ドアにかけた手が震えた。でも、これは違う。この震えは恐怖なんかじゃない。
 私は、どうしようもなく期待している。
 ゆっくりとドアを開ける。24時過ぎ、深夜テンションの冒険を、始められるだろうか。
 大きく息を吸って、5秒。ゆっくりと細く息を吐きだして、私は――。

 誰もいない夜道を歩く。
 今なら、どこへだって行ける気がした。
 険しい顔で議論される対応も、増え続ける感染者数もどこか遠い世界のよう。
 今までの息苦しさが、生き苦しさが嘘のようで、滲んだ視界のまま歩き続ける。
 ああ、本当に。
「ずっとこのままならいいのに」
 ぽつり、呟いて。
 思ってはいけないと、願ってはいけないとわかっていても。止めることは、できなかった。
「ほんとうに、ずっと――」
 ねえ、だって、私は。

 救われてしまったんだ。

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