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「私とたけちゃん」 嵯峨明

(以下は2021年11月13日の金原のブログからの転載です)

「創作表現論II」の秀作です。
 嵯峨明さんの短編。なにげない話で、ある意味、よくあるストーリーではあるのですが、とにかく文章がうまい。とくに最後のところとか、思わずうなってしまいました。

「私とたけちゃん」 嵯峨明

 アルバイトの5連勤が終わって疲れた体で飛び乗った帰りの電車の中で、突然たけちゃんからラインが来た。『最近どう? どこか行かない?』。たったそれだけの言葉が、私の疲れた心を癒し、一瞬でほっとさせた。
 いつもそうだった。もう嫌だ、疲れたと思った時にかぎってたけちゃんは遊ぼうと誘ってくる。たけちゃんと一緒にいる時の自分が、どんな時の自分より好きだった。肩肘張らず、優しい気持ちで笑顔になれる。頑張って何かを言おうとしなくてもいい。気遣って先回りする必要もない。私とたけちゃんは一緒にいるだけいい、そういう関係だった。
それに、たけちゃんといると安心する。きっと母親のお腹の中にいる胎児はこういう気持ちなのだろうかと思うような安心感だ。外の音が遮断され、ふうと何かが包み込む。周りとかどうでもよくて、ただ温かくて穏やかな世界を守りたい。ここを離れたくないと思う。きっといつかはここから出なければいけなくなるのかもしれない。でも今はこれでいい。少なくともその日が来るまで、私はたけちゃんと一緒にいたい。
 友達はよく私に付き合っているの? と聞いてくる。そんなはずはない。たけちゃんには彼女がいるし、私にだって恋の一つや二つはある。そうじゃないよ、と答えるとじゃあどういう関係なの? とさらに聞いてくる。
 その度に私は、どうして誰かに綺麗に説明できる関係でないといけないの、と思う。私とたけちゃんが一緒にいる。話す。ご飯を食べる。肩を並べて歩く。それだけでいいじゃない。どうして世間はこうも何かの言葉に当てはめないと気が済まないのだろうか。愛情という言葉一つをとってもいろいろな形があるのに、それを簡単にまとめて誰かに伝えたい、伝えられると思うのだろう。私は思わない。誰かに一言で伝えられるような関係ならば、私はたけちゃんを選ばないし、たけちゃんも私を選ばないことだろう。よくわからない関係だから、私とたけちゃん、2人なのだ。
 たけちゃんとは来週の木曜に会うことになった。なんの服を着ていこうか、たけちゃんはどんな服を着てくるだろうか。何をする? どこへいく? 久しぶりに胸が躍った。

 約束の時間通りに現れたたけちゃんはこの前会った時よりも髪の毛量が増えていた。もともとくせ毛なのに、それがさらに広がって寝癖も目立つ。そんな頭を手櫛で整えながら私に近づいてきた。私は思わずにっこりと笑みを浮かべていた。
「おはよう」
「おはよ、たけちゃん」
 軽い挨拶だけをすると私たちは歩き出す。たけちゃんはいつも私のほんの少し後ろを歩く。私の肩だけをそっと守るようにして歩くのだ。でもそれが私は心地いい。さりげなく、でも確実にたけちゃんの存在を感じられるこの距離がちょうどいい。
 駅から5分ほど歩いたところにあるカフェに入った。おしゃれな雰囲気もなく、学生とサラリーマンしかいないようなチェーンのお店だ。そこで2人用のテーブル席について、顔を見合わせながら話をする。最近どうだった、彼女とはどうなの、何か新しいことあった?
 いつも同じような話ばかりだ。大抵たけちゃんは彼女の男遊びに悩んでいて、私は大学の授業が忙しいことの愚痴を言う。何かが生まれるわけでもない会話を延々繰り広げる。お互いの冗談に笑って、嫌なことは一緒に怒る。相手に無理に共感しようとするわけではない。ただその場の空気を吸って吐く。その感覚が一緒なのだ。
 けれど、今日はなんだか変な感じがする。目の前で話すたけちゃんが、いつもたけちゃんではないような気がした。しかも珍しく目が合わない。いつも淀みない真っ直ぐな目を私に向けてくるのに、今日はチラチラとどこかを見て落ち着きはない。なんだか違う空気を吸っているようだ。嫌な予感がした。
「俺らってなんなのかな」
 たけちゃんは少しの沈黙の後、俯きながら聞いてきた。
「……なんなのかなって?」
「友達でもないし、恋人でもないだろ。それってどういうことだろうって」
「そのままでいいんじゃない? 私とたけちゃんは私とたけちゃんだよ。何かの関係に当てはめる必要ある?」
 たけちゃんが私を見なくても私はじっと見続けた。いつものような真っ直ぐな目を私に向けてくれることを信じて、変わらずに見た。けれど、やっぱり目線が合わない。どこか違う世界を見ている。今までいたところから抜け出そうとしている。まるでそれは胎児がお腹から出ようとする時がきたかのように。
「……俺は当てはめてもいいんじゃないかなって思うよ。例えば恋人、とかに」
 薄々わかっていたけれど、決定的な、恋人という言葉がたけちゃんの口から出てきた途端に目の前がぐらっと揺らいだ。そして急に周りの音がよく聞こえるようになった。もうなにも遮断してこない。何からも守られていない。温もりも安心もここにはない。目の前の男の人は私の知っているたけちゃんではなくなっていた。
 この一瞬で私たちは世界に放たれた。簡単な言葉で全てのことを言いくるめようとする世界に。何かの言葉で伝えられなかったし伝える必要もなかった私たちの関係を、ありきたりのもので括ろうとする世界に。2人が一緒にいるだけでいい、それが全てだと思わせてくれたところから抜け出して、そんな息苦しい場所へ出て行ってしまったのだ。
 ここではたけちゃんと私は一緒にはいられない。ここにいるなら、お互いに相手である必要はない。さよならたけちゃん。さよなら私。あの温もりには、あの世界には、もう戻れない。
 私は目の前の男を残して一人、席を立った。