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「個人の尊重の重要視による迷い」 青木桃

(以下は2021年10月20日の金原のブログからの転載です)

 前回の続きで、最後にもうひとつ、学生の力作を。この感想文の後半、力が入っていて読み応えがあります。とくに「考え続け、悩み続け、打たれても何度でも飛び出ることのできる杭にならなければいけない。」という1文が素晴しい。

『少女を埋める』の感想文

「個人の尊重の重要視による迷い」 青木桃

 出る杭は打たれる事、変化を怖がり現状維持を求めてしまう心理、そして地域、生きる年代や個人間における価値観の差等について特に考えさせられた。というよりも、私自身、霧のように私の中で存在し続ける悩みを、筆者がより良質な言語でまとめて整理してもらったという感覚になった。このタイムリーな問題を文字として言葉として早いタイミングで世に出している事の重要性や著者の「今だからこそ、伝えて変えていかなければならないのだ」という強い意志を読み取れた。そして、その強い意志は筆者の思惑(推測であるが)通り私という一読者に強く響くものであった。
 筆者はこの本の中で、筆者が持つ正論を伝える場面とそれを飲み込む場面を描いている。筆者として自身が持つ正論は、あらゆる要因によって更新されていく物であるが、確立された信念のようなものであると思う。その正論を相手に対して伝えるべき場面であるかどうかを、筆者自身なりに考え、筆者の母が弱っているのであろう場面ではその正論を飲み込みその場を収めていた。この正論の伝え時の選択は、私も日常的行っているために共感を持った。私は、相手を傷つけてしまう場合や、伝えた後の状況の変化が伝えなかった場合に対して不都合であった場合、自分の正論を伝えないという選択をしている。逆に、今伝えなければ私だけでなく他の人間の尊厳にも関わるのではないかと考えた場合や、伝えた後にも十分な話し合いの時間が確保できる場合等の時、自分なりの正論を伝えることにしている。特に、相手の考えを否定しているようで傷つけてしまうのではないかと考える時に、自分なりの正論を伝え、話し合うことを躊躇してしまう。個人の価値観や思考に対して否定的な発言をするという事は、その個人の人生を否定しているような感覚に陥ってしまうためである。これは優しいようで、自分が傷つかないようにしているだけであると思う。
 
 この「正論の伝え時の選択」に関して疑問が一つある。それは、誰に対してどの程度伝えてよいものなのであるかという事である。筆者は、作中でも自分と違う価値観や考えを持つ人間に対して、その人間の背景を考えたうえで責めることをせず、仕方のない事なのだと考え筆者自身の考えを伝えることをしなかったように思えた。自分よりずっと年上の人間に対して、田舎に生まれ住み続けている人間に対して。私も、生きる時代や環境が違う人間が、私が嫌悪感を抱く考えや価値観を持つことは仕方のない事であると思うが、それで伝えないという選択をし続けたときに、筆者が望んだような社会が実現できるのだろうか。むしろ、そういった離れた価値観を持つ人間と話し合うことでお互いに自分の考えを深めることが出来るのではないのだろうか。個人の尊厳を重要視するあまり、話し合いの場を自分自身でなくしてしまい、今ないがしろにされている別の個人の尊重がされていないのではないか。違った価値観を持つ人間も、社会的に弱い立場にある人間も、自分自身についても、個人の尊重をしたいという欲望を実現させるためには、どのように話し合うべきなのか。伝えてよいものなのか。

 ここからは感想ではあるのですが、課題として適切ではないかもしれない落書きのようなものになってしまいそうなので目を通して頂かなく結構なのですが、『少女を埋める』を読んで非常に自分の悩みや価値観の葛藤と共通するものがあったので、感想を残したいと思います。したがって、前の段落の「---伝えてよいものなのだろうか。」までを成績評価の対象にしていただければと考えております。
 私は、田舎独特の価値観を持ちつつも時代の考えを取り入れようと努力する定年間近の両親を持ち、神奈川で女性として生まれ育った。女性としての社会における理不尽な扱いも、二十年間で受けることも少なくなかったと感じている。作中においても、「女というだけでなめられる事があるのだから気を張って生活してほしい」と筆者は述べていた。この女というだけでなめられてしまうという事は、物理的な力の差という面において否定できないと感じている。外で理不尽な扱いを受けても、力では対抗することが出来ないという事実は、身を守るために泣き寝入りをする他ないという体験もした。ここでは、物理的な面において書いたが、それ以外の面においても理不尽さを感じることは多々あった。
 私は私としてしか生きることが出来ないために、他の人が受ける理不尽さや不都合なことに対しては想像し、見聞きすることしかできないが、他の人にもきっとそういったことはあるのではないかと考えている。理不尽な出来事は社会において当たり前のことだと私の関わってきた大人にはそう言われてしまったが、理不尽さを受け入れ戦うことをやめてしまったら理不尽は加速しより生きづらくなってしまうのではないだろうか。大きなものと戦い続けていると敵も増えていく。そうすると、戦い続けることは苦しく、疲れ、やがて戦うことをやめてしまう。この事も少しながら理解できるため、戦うことをやめてしまった人を責める気はないし、生きていく上で大切にしたいものは一人一人違うのだから、強制的な事でもないと思う。しかし、このインターネットの普及した時代であれば、味方も見つけやすい。味方がいるという事実は、気持ちを支えてくれることもあると思う。今、そんな時代だからこそ、筆者が述べたように、「共同体は個人のために! 」という社会の実現に近づけることが出来るのではないかと希望を持てる。
 異性愛者以外は病気なのだ、産休や育休を取った人間は会社にはいらない、男なのに、女なのに、若いのに、いい年なのに、国籍、生まれ育ち、見た目… そういった言葉や価値観はこの令和の時代においても根深く残り続けている。正直、うんざりだ。個人が生まれ死ぬまでにおいて、その個人の尊重は無視されてはいけない。そして、それをあらゆる手段で発信し続ける存在がいることを知り、重宝していかなければならない。一人では戦い続けることは難しいかもしれない。しかし、望む生活や魂があるのであれば、希望を持てる社会を実現させたいのであれば、考え続け、悩み続け、打たれても何度でも飛び出ることのできる杭にならなければいけない。この考えは、未熟で世間知らずな若者の子供じみたものであると馬鹿にされてしまうかもしれない。それでも、私は飛び出ることのできる釘として、折れずに生きていく。毎日、生きていく。