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「久部くんと魔女」 菊川華

(以下は2021年11月20日の金原のブログからの転載です)

 さて、『マクベス』がテーマのもうひとつの秀作です。この柔らかい雰囲気と、それにぴったりの文体が快い。

「久部くんと魔女」 菊川華

 隣の席の久部くべくんは、不思議な人だ。なんて説明したらいいのだろう。見た目が奇抜とかそういうんじゃなくて、なんか雰囲気が不思議って感じ。そのよくわからないオーラが彼のどこから出ているかは定かではない。そうだなぁ……良い言葉が見つからないけど、うーん。あ、そうそう、彼には「トレンド」という言葉が似合わない。流行に乗らないというか、いつも彼の周りの時間だけ、ゆっくり流れているような。でも、決してノロマというわけではないし、なんなら学校の成績は良いと思う。このあいだ、学力テストの成績が張り出されたとき、たしか「5位 久部春斗はると 」って名前が書かれていて、ちょっとクラスで話題になっていた。「え、久部って頭良かったの?」って。去年同じクラスだった友人に聞いたところによると、「そうだよぉ、意外だよね。久部ってちょっとのんびりしてる感じするから」と言っていた。そして私、はやかわは、月に一度の席替えで、久部くんの隣の席に今回たまたま偶然、なったのだった。
 ちら、と彼の方を見る。彼は自分の世界に籠もるって感じのタイプだし、私もあんまり喋ったことのない人に話しかけるのは得意ではない。だから、なにかきっかけがないと、恐らく会話は生まれない。でも、そのきっかけとやらは案外すぐ訪れた。
「あの、早川さんって、もしかしてお兄さんいる?」
 久部くんが、そう聞いてきたのだ。
「え、い、いるけど。なんで?」突然だったため、返事がしどろもどろになる。
「だよね。てるひと先輩で合ってる?」
「うん、合ってるけど……」
「あのさ、俺、先輩から漫画借りてるんだけど、返すって言った日を少しオーバーしそうなんだ。LINEで連絡すればいいんだけど、確か昨日の部活で先輩、スマホが水没して今修理に出してるから、情報手段が無いって言ってたの思い出して……さっき授業が終わった後、先輩の教室に行ったんだけど、居なくて……」
「あ、じゃあ家に帰ったら言っとくよ」
「本当? ありがとう」
「ううん、全然」
 そして、久部くんは閉じていた漫画を開き、読み始めた。私も前に向き直る。そして、なぜかドキドキしている心臓を落ち着かせようとして、頭の中の情報を整理する。
 まず、驚いたのは久部くんが「俺」って言ったこと。勝手に第一人称は「僕」だと思っていた。あと、お兄ちゃん、スマホ水没してるんかい。私も知らなかったわ。あとは……そう。まさかお兄ちゃんと同じ部活だったとは。久部くんがハンドボールしてる姿、全然想像できないな……。
 一度に久部くんの色々な面を見てしまった私は、もう一度彼の方を見る。次の瞬間入ってきたのは……『DEATH NOTE』というタイトル。デスノート。これって、確か……もうだいぶ前に連載は終了してる……よね?
「どうかした?」久部くんに聞かれて、私はハッと我に返る。
「えっと、その漫画わりと前のだよねって思って」
「あー……そうだね、連載終わったの、確か15年くらい前だね」
「そうなんだ、そんなに古かったんだ」
「うん……読んだことある?」そう言って、久部くんは漫画のカバーを私に見せる。
「うん、懐かしいなー、お兄ちゃんに借りて読んでた」
「そうなんだ」
「うん、久部くんは? それ読むの何回目なの?」私は、このとき、久部春斗を侮っていた。こんなに年月が経ってからも読むなんて、久部くんはこの漫画が相当好きなんだなぁと思っていたのだ。
 次の瞬間、久部くんの口からは驚きの答えが放たれた。
「いや、これで初めてなんだ」
「え?」思わず、素っ頓狂な声が出る。
「ははは」久部くんは笑っている。
「そうなんだ、てっきり私。リピーターかと……ごめん」
「いやいや早川さんが謝ることないよ。僕がちょっとズレてるだけだから」「え、なんで今それを読もうと思ったの? 偶然見つけて面白そうだなーって思った感じ?」
「いや、存在自体は知ってたよ。なんなら俺が中学生のころには知ってたよ。でも読めなかったんだよね」
「え、何で?」
「溜まってたんだ、他の漫画が」
「他の漫画が、溜まってた?」
「うん。『DEATH NOTE』を知る前に目星をつけていた漫画がいくつかあってさ……例えば『ヒカルの碁』とか」
「あーそれも知ってる。原作者は違うけど、確か絵は同じ人が描いてるよね。……でもそれもだいぶ前の漫画、だよね」
「うん、あれは……たしか2003年に終わってるから、18年前? かな」
「じゅうはちねんまえ……」
「ははは、なんでそんな前の漫画ばっかり読んでるの? って顔してるね」
「……うん、まぁ」
「俺さー、連載中のやつ読めないんだよねぇ」
「え?」
「俺さ、振り回されやすいんだよね。周りの情報に」
「え、久部くんが?」久部くんの突然の思いもよらない告白に私は思わず聞き返す。
「うん、なんでそんなに驚いてんの」久部くんは、はははと笑う。
「いや、久部くんといったら、なんかこう自分をちゃんと持ってる感じがあって、逆に周りに流されやすいなんて思ってもいなかったから……」
「え、俺そんなふうに見える?」
「うん、たぶんクラスのみんなそう思ってるよ」
「え、まじか。……まぁそれでね? 周りがどんどん変わってくのを感じるのが苦手で、例えば連載中のものって常に新しい情報が飛び交うじゃん? 勿論、1週間ごとにストーリーは更新されてくし、その都度読者の考察も更新されてく」
「うん、まぁそうだね。それが醍醐味という感じもあるけど……」
「俺、それが苦手なんだよね。なんか上手くついていけないというか、最終的に元の自分が分からなくなる。あれ? 俺最初どう読んでたっけ、どう思ってたんだっけって」
「あ、じゃあネタバレとか無理な人?」
「いや、それは平気かな」
「あ、そうなんだ」
「うん、進行形での考察が無理なだけで、結末を知る分には別になんとも。結末が決まってたらもう何も変わることはないし、周りの意見は関係無いからね」
「へぇ……」
「でも、やっぱりみんな考察はすると思うし、その都度考え方も変化する。早川さんも言ってたけど、それが連載モノの醍醐味的なところはあるから、俺がそれをみんなにやめてくれって言うのもなんか違う。だから、連載が終わって1つの揺るがないゴールが決定したら、読もうってなったんだよね」
「なるほど……あらかじめセーフティネットを張っておく的な……」
「そうそう、言ってみれば外界をなるべくシャットアウトするみたいな。今は漫画で例えたけど、俺は何においてもそうする癖があるんだよね。物心ついたときから」
 確かに、久部くんの言うこともわかる。だけどそれって……。
「だけどさ、それって窮屈じゃない?」私は気づいたら口に出していた。
「……」久部くんはぽかんとした顔をしている。
「あ、ごめん! いや否定しているわけじゃなくて、えっと」私が弁解しようとすると、久部くんが口を開いた。
「早川さんはすごいな。……僕は、周りに流されて自分を見失うことを窮屈に思っちゃうし、周りに埋もれることが怖い。……やっぱり僕は完結した物語にしか足を踏み入れることはできないなぁ。自分の人生だけはどうもそう上手くは行かないみたいだけど」
 久部くんの顔が少し悲しそうに見えた……気がした。
「デスノートの主人公だって……きっと人間、最後まで、いや最初から物事を俯瞰的に見るなんてことできない。……でも」久部くんは手に持った漫画を見つめながらそうつぶやいて、こう言った。
「きっと早川さんだったら、魔女の言うことは聞かないし、ちゃんと最後まで自分でいられるかもしれないね」
「え?」
「ううん、なんでもない。先輩に漫画の件、よろしく。あ、もうこんな時間だ。今日、部活なくて、5時からバイトだから俺行くね、また明日」
「あ、うん。また明日」
 久部くんは手を振って小走りで去っていた。
 小さくなっていく彼の背中を見ながら、久部くんが最後に言ったことを考えてみる。
 最後まで自分でいられる……。私が? あまたの情報に触れながら、決して吞まれることはないってこと? まぁ実際私は芯が強い方だとは思うし、あまり人に影響されないかも。漫画やドラマとかの連載モノに対してもある程度距離をとって楽しめる。考察ってやつに触れても、ふーんそんな考え方あるんだくらいにしか思わない。でも、情報に触れれば、自分が気づかない内に本当の自分がいなくなってしまうかもしれない。本当の本来の、1番始めの“私”ってどんなんだっけ。これじゃあ、よっぽど久部くんの方法の方が自分でいられる気がするんだけど。久部くんは何か嫌な経験でもしたことがあるのかな。……いずれにせよ、私たちが思っているような久部くんは、彼が自分で意図的に取り繕ったものだったってこと? 本当の彼はどんな感じなんだろう。
 「……っていうか、魔女って何?」
 誰もいなくなった教室で、私はひとりつぶやいた。