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三人家族と一人の天使〜生まれただけで奇跡(合格)です!

2008年の夏は北京オリンピックで日本中が盛り上がっていました。選手が活躍する姿をライブで見て勇気をもらい、かろうじて現実社会と繋がっていた様に思います。

その日は次男の出産日。その夏も暑い暑い夏でした。地元の夏祭りが終わり近所にはまた静寂が戻って子供達の声が響いていました。
長男が帝王切開だった妻は次男も帝王切開の予定でした。長男の時は切迫流産の危険があり3ヶ月間入院し108本の点滴、それでも尚両親を手こずらせるのか、手術当日にも手術の時間まで待てずに出てこようとしたため、緊急手術で出産し、一時は心肺停止になり先生に背中を叩かれてようやく産声を上げたのでした。妻は術後の激痛も我慢して保育器が置かれている部屋まで我が子を見に行ったものです。その姿を見て私は、これが母親なんだな、と思ったものでした。

その長男誕生から10年。私達は第二子に恵まれず不妊治療の末にようやく次男を妊娠。子供好きの二人にはこの上ない喜びでした。新しく開校した学校に通う為に群馬県に引っ越し子供会や少年野球に参加してすっかり田舎暮らしに溶け込んだ長男。その朝も仲の良い少年野球チームの友達の家に預けて病院に向かったのでした。

それでは入院前の検診をしますね。と看護士さんに言われ妻は診察室に入って行きました。血圧を測って心音をチェックするいつもの診察です。しかし妻はいつまで立っても出てきません。次第に診察室の中が慌ただしくなり、いても立てもいられず私は中に入って行きました。私には目もくれず一人の看護士さんが医師を呼びに行きました。先生がやってきて心音を取りますがやはり聞こえない様です。「手術室で検査しますね」と言って妻をストレッチャーで運んで行きました。

10年ぶりの第二子の誕生に沢山の人に喜ばれウキウキと病院にやってきた私達。お爺ちゃんもお婆ちゃんも大喜びで出産日翌日は孫に会いに来る予定でした。名前は長男と同じ一文字で1音で読める感じに決めていました。お兄ちゃんと同じ野球をするのかそれとも時代的にサッカーかなと夫婦で話して来たこの十月の幸せから、急転直下奈落の底に付き落とされたのでした。

手術に何分かかったかなど全く覚えていません。再びストレッチャーに乗せられて手術室を出て来た妻は麻酔でぐったりとしていました。病室で徐々に意識が戻り始めると、こんなの嘘、絶対ウソだよと泣き叫びました。私はどうする事もできずただ抱きしめるしかありませんでした。妻はぐったりと病室に横たわり、私は重油が張り付いたように重く苦しい心身を引きずって三日三晩飲まず食わずで荼毘に伏す準備に駆け回りました。妻を病室に残し、私は私の両親と妻の母とだけで次男を荼毘に付したのでした。

どうしてこんな目に!夫婦で苦悩しました。妻は何かいけないものを食べたかとか、悪い兆候はなかったのかと自分を責めました。考えても考えても答えなど出るはずがありません。病室の窓から太陽が上り、朝が来るのが本当に辛かったです。目が覚めると二人で答えを探しました。一体この状況をどう考えたら良いのか?来る日も来る日も答えを探し、ようやく辿り着いた答え。それは「命は当たり前じゃない」と言う事でした。生命の誕生とは奇跡なんだ。妊娠したからと言って簡単にこの世界にやって来れるわけじゃないんだ。そう二人で言い聞かせるしかありませんでした。それから数ヶ月、何をする元気も湧いて来ず、何をしていても楽しさを感じませんでした。しかし、のちに妻と話をすると、あの時は長男がいたから元に戻れた。長男の所に帰らないと、と言う一心で自分を支えたと言っています。

あれから15年、私達夫婦は2人とも教育の仕事に携わっています。妻は10年以上に渡り英語の先生になる学生の指導や近所の子供達に英語を教えてきました。私は学習塾や英会話スクール、通信制高校の経営、私学の民間人校長などの仕事をしています。うちには1人しか子供がこなかったけど、代わりに他人の子供も面倒見なさいと言う神様が私達に与えた使命だと考えて、子供と関わる仕事をしています。

親は生まれる時は5体満足でさえあれば良いと願っても、子供の年齢が上がるにつれ要求が増え、他の子と比較し、時には罵ってしまいます。テストの点数とか合格した学校のランクとか、スポーツが上手だとか、明るく気が利くとか、どんどん要求が高まっていきます。進路相談をしていると、偏差値の高い第一志望の学校に合格する事が良い子の様に考えている親御さんが多いですが、私達夫婦にとっては産まれただけで100点満点です。そう考えると我が家の次男は教育者の親を持ちながら赤点、落第です😊近所の人達や会社の仲間、親戚に支えられ15年経ってようやくそんな冗談が言えるようになりました。

人にはその人にしかできない持って生まれた使命が必ずあると思っています。それがどんな些細な事であったとしても、その子だから出来る事ややれる事が必ずあるはずです。その芽を見つけてあげるのが本来教育の役割だと私は思います。
親の願いはいつの時代も我が子が豊かで幸せな人生を送る事に他なりません。その豊かさ幸福感は時代と共に変化します。親世代のそれとは大きく変わっているにも関わらず、同じ豊かさや幸福感を求める不幸が日本には蔓延しています。

親はいつまでも子供の側には居られれません。親元を離れた時に自分の豊かさと幸福感を求めて学び決断し、結果に責任が取れる様に育ててあげるのが親の役目だと思うのですが、みなさんは如何でしょうか?正直、親御さんがそう思えた瞬間から子供は変わっていきますが、親の願いを求めているうちは子供は籠の中の鳥状態で、大きく羽ばたく事は出来ません。その子の良い所を見つけ、認めて伸ばして羽ばたかせてあげる。親以外には出来ない仕事です。

生まれていれば中3の夏。野球かサッカーかはたまたゲームの大会かは分かりませんが、試合に熱中する姿も負けて涙する姿も見られません。お父さんお母さん3年間ありがとうございました、と言うおきまりのセリフも聞けません。

一方でだんだん薄れゆく悲しみが残念でなりません。もっと悲しみたいにのだんだんと記憶が遠のいて行きます。でも確実にこの時期には強く大きな悲しみになって私達の胸の中に帰って来てくれます。そして同い年の子を見ると想像してしまいます。生まれていたら今頃どんな風になってるかな。15年前にお寺の和尚さんが言いました。そうやって思い出してあげる事が供養になるんですよ、と。

3人家族と1人の天使は居場所は違えど今年も暑い暑い夏を一緒に過ごしています。どうして生まれて来れなかったのかな?生まれていたら今頃どうなっているかな?と思いながら、思われながら。