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現代の子供が作文が苦手な原因

今回は初っ端から結論ぶっ込みます。

現代の子供達が作文が苦手な原因は、ハッキリ言って経験不足です。

毎日毎日、家と学校と塾のトライアングルゾーンでしか生活していません。それ以外の時間は家の中にいてゲーム活動です。つまり書きたいと思うテーマが無いのです。

作文の目的は感じたことや考えた事をまとめる作業を通して感性や思考力を伸ばす事です。私が子供の頃は月〜金の放課後ですら友達と遊んでいました。家に帰ったらカバンを放り出して速攻友達と約束した場所に出て行きました。週末も同様。あの頃は小学生低学年でも自転車で遠出をする事を禁止されていませんでしたから、友達と良く探検に出かけました。春の暖かさ、夏の緑、秋の紅葉、冬の寒さと物悲しさなど全て記憶に残っています。

また、私の家は農家だったので、家の中にも興味関心の宝庫でした。牛の出産を目撃したり、季節に応じた野菜が取れたり、怖そうな蔵があったり。そして遊ぶものなど無かったですから、遊びは自ら工夫するしかありませんでした。だから書こうと思えば書けるものはいくらでもあった。書く素材そのものが既に読む人の興味関心を集める題材でした。

作文は、素材が命です。素材とはいわば経験です。沢山の心揺さぶる体験こそが作文が上手い下手を決めると思います。作文はうまく書こうと思って書くものではなく、心に写ったそのままを描写するものだからです。

結論が”すごい”や”嬉しい”になってしまう原因

心に写ったそのままを描写する為には、心にどう映るかが大切です。現代の子供達の作文が皆すごいや嬉しいになってしまうのは、率直に言えば、感性の乏しさに他なりません。感性とは感じ取る力であったり、その人特有の感じ取り方の事です。だから吉本ばななさんは自分の書いた小説にも関わらずセンター試験で高得点が取れなかったと言えます。1つの現象を目撃した時に、感じ取り方は人によって千差万別。でもセンター試験や小説の問題は十中八九普通の人ならこう思うだろうな、と言うものが答えになっています。もちろん表現方法を知らないと言う事もありますが、世に出る小説家の感性と、普通の人の感性は明らかに違いますし、同じだったら小説家になどなれないはずです。だって小説家やその他芸術家の仕事は、同じものを見ても凡人には見えない見方で対象を表現する事にあり、それを楽しむのが芸術だからです。

ではこの感性とはどうやって養う事が出来るのでしょうか?

それは・・・・もう説明不要ですよね。沢山の体験と経験を通して、それらを表現する機会を多く取る事だと思います。学校の美術や作文は本来その為にあるはずです。ただ教育課程に決められているから作文を書いたり絵を書くのではなく、自分の心を表現し、そして表現する事で物事に対するセンサーを、すなわち感じる心を少しずつ少しずつ育てる事にあります。何故なら何かに感動したり、感動したものを表現する事は人間が人間らしく豊かに生きる上で必要不可欠だからです。

表現方法の制限

感性は人によって違います。なのに何故みんな同じ結論になってしまうのか?それは現代の子供達がほぼ同じ経験しかしていない、同じような経験しか出来ない世界で生活しているから、と私は考えます。そしてもう1つ。幼稚園から始まる教育で、表現を制限してしまう事も大きな原因だと思います。

私の息子が幼稚園でお父さんの絵を書いた時、顔の色を青色で塗った事がありました。当時の先生はそれを認めて褒めてくれましたが、多くの場合は肌色にされてしまいます。後に児童心理学の教授にこの話をしたら、子供が好きなものを好きな色で描くのはごく普通の感情だと言う事が解ってきたそうです。

とかく常識に当てはめようとする日本の教育環境が、子供の自由な発想を制御し、感性を閉じ込めているとも言えるのでは無いでしょうか?

まとめ

作文の上手下手は体験の量に比例する

見たものを自由に表現させる事で感性が育つ

作文は理路整然としてまとまっているのですが、人間味のない作文を時々見かけます。塾などで書方は習っても物事を捉える心が豊かでなければ潤いのある表現にはなりません。これは学歴とその使い道にも言える事で、いくら立派な学歴があってもその使い道が間違っていたらどうにもならないのと同じだと思います。だから私はSTEMにAが入ったと思っています(目的は少し違うのですが)。