芸術と日常のあいだ

『intoxicate』Vol.67(2007年6月)

 頭脳警察の「コミック雑誌なんか要らない」(『頭脳警察セカンド』所収、一九七二年)は、内田裕也のレパートリーとしてもよく知られた日本のロック史屈指の名曲である。曲は歌い出しからブルーズの様式で「俺にはコミック雑誌なんか要らない」と、三回繰り返される。なぜ要らないのかといえば、「俺のまわりは漫画だから」だ。この歌は、社会あるいは人間関係における、まるで絵に描いたような、戯画的状況を諷刺したものであろう。とすれば、そのオチはいわば皮肉ととらえるべきものである。ヴォーカルのパンタの歌唱もそのようなばかばかしさを、「頭にくるもなにもありゃしない」としながら、諦めたように「ただ吹き出るのは笑いだけ」と歌う。
 しかし、もし日常がほんとうに漫画のようなものだったとしたら、わたしたちは漫画など必要とはしないだろうか。

 ディック・ヒギンズは、その著書『インターメディアの詩学』(国書刊行会、引用の章は庄野泰子の訳による)の中の一章「童話 フルクサス物語」を次のように書き出している。

昔むかし、世界がまだ若かったころ——つまり、だいたい一九五八年頃に——大勢の美術家、作曲家、その他、すてきなことをしたいと思っていた人々が、自分たちのまわりの世界を(その人たちにとっては)新しい仕方で見始めました。

 そして、彼らはあるとき気づく。「凝った彫刻」なんかよりも「コーヒーカップのほうがずっときれい」だということを。「朝方にみる小川」は「気取り屋さんのドラマ」よりもずっと劇的であるということを。「長靴をはいたぼくの足がたてるバチャバチャという音」のほうが「名人芸的なオルガン音楽よりずっとすてき」だということを。そうした発見により、彼らは問いかけはじめる。

カップやキスやバチャバチャいう足音のように、私が美しいと思うものはすべて、もっと洗練された、より大きな何かのたんなる一部にされなければならないのは、なぜだろう? どうして私はそれ自身のためだけに、それを使うことができないのだろう?

 そのように感じた世界中の人々によって(その時には名前はまだなかったが)フルクサスは開始された。
 周知のようにフルクサスは、六〇年代から七〇年代にアメリカ、ヨーロッパ、そして日本の各地のアーティストが参加して展開された前衛芸術運動である。音楽、美術、詩、映画などの多様なジャンルからアーティストが集まり、インターメディアと呼ばれる、それら複数のメディアの中間領域における新しい表現を模索し、また、芸術を日常的な営為にまで降ろしていくこと、日常の中に芸術を見いだすことを標榜した。それを主導したジョージ・マチューナスの唱えた、日常生活と芸術の同化という思考のもと、あらゆるものがアートになり、誰でもがアートを作ることができるという考えを実践し、活動を行なった。またそれは、美術評論家故中村敬治に倣えば「反芸術」が「汎芸術」となることであろう。

 フルクサスの一員であったオノ・ヨーコもそうした思考を持ったアーティストである。たとえば、ジョン・レノンとの出会いのきっかけとなったというエピソードを持つ《釘を打つための絵》(一九六六)のように、真っ白ななにも描かれていないキャンヴァスに鑑賞者が金槌で釘を打つことで作られる作品や、《メンド・ピース》(一九六六)のように、訪れた鑑賞者が割れたティーカップの破片を接着剤で元通りに復元する作品などのように、鑑賞者にあるインストラクションを与え、それに従って完成されるという作品にそれは端的に表わされている。
 そうした指向性は一九六四年に発行された彼女の詩集《グレープフルーツ》にすでに表われており、以降の彼女の創作活動は、この本を基底にしているといってもいいかもしれないというくらい、アイデアやインスピレーションの凝縮された作品である。その中には、想像すること、夢想することを通じて固定観念の更新、いままでとは違うものの見方をうながすようなインストラクションによって、想像や夢を喚起させるものだ。ここであらためていうまでもないことだが、そこからインスピレーションを受け、ジョン・レノンの「イマジン」が生まれ、それは多くの人々に「想像する」という、非物質的で日常的な行為を介してわたしたちひとりひとりの意識を変えていくことを促した。
 一九七二年、もっとも政治に近づいていた時期のジョンとヨーコが出演したテレビ番組「マイク・ダグラス・ショー」(現在この貴重な映像はDVDで見ることができる)では、観客席に真っ白な生のキャンヴァスを渡し、観客が好きなように自分で絵やメッセージを描き加えて一枚の絵を完成させるイヴェント《未完の絵》が行なわれた。また、キャンヴァスが番組収録中観客席を回覧されている間には、偶然隣り合わせた他人同士である観客に対して、手を伸ばして隣の人に触れるよう指示した。その他、電話帳から任意に選ばれた電話番号に突然電話をかけ「I Love You」を伝えるという《愛の電話》などのフルクサス的なイヴェント作品を放送という枠の中で実現したことも画期的なことであった。《未完の絵》が開始されると、ふたりは観客に向かって「誰もがアーティストなんだ」「アーティストとは心の持ちようなんだ」という言葉を投げかける。先のヒギンズの著書からふたたび引用すれば、

フルクサスはあなたの内部にあり、あなたがどうあるかということの一部なのです。それは一団のものごとやドラマなどではなく、あなたがどう生きるかということの一部なのです。

というように、フルクサス的精神とはあまねく個人の生き方や「心の持ちよう(Frame of mind)」に関わる問題なのだ。
 そのような、芸術が誰にとっても可能な、日常的な行為となった地平では、アーティストは、その作品の完成ではなく、ただ始まりに関与するきっかけとしてのみ存在し、むしろそのプロセスを見届けることがアーティストの役目となる。それによって、作品の最終形あるいは完成は参加者にゆだねられることになるが、しかし、事のなりゆきや結果が作品の質を担保するものではないという意味で、その作品はその始まりにおいて、すでに完成されているということもできる。つまり芸術行為を日常的に享受することはできるが、もちろんそれは重要なことであるし、それが現在にいたる観客参加によるプロジェクト指向の作品に継続されているということは承知の上で、わたしたちの日常がすなわち芸術となる、ということにはやはり若干の留保が必要だということになる。
 グリール・マーカスは著書『ロックの新しい波』(三井徹編訳、晶文社)の中で、ヨーコについて、彼女の創作活動、ひいてはニューヨークのネオ・ダダ(フルクサス)が「芸術と人生の両方を解放しようと意図しながら」しかし「芸術家を神にしようとしている」と書いている。ここにはいくぶんの誤解があることは否めないが、芸術行為の日常化、誰でもが芸術に参加することができる、ということのアーティストによる専制を無化することの困難を考えなければならない。

 田中功起は、ヴィデオによる映像作品をおもに制作するが、立体やインスタレーションなどさまざまなメディア、手法を並列して使用した作品を制作している、現在のアート・シーンにおいて台頭目覚ましい若手アーティストのひとりである。初期には、ヴィデオで撮影された日常的な光景から短いシークエンスを抜き出し、それをループ状に編集し、延々と同じ状態が繰り返される不可思議な作品を制作していたが、その作風はある時間を円環状に閉じ込めたものから、始まりと終わりがあるものへと変化していった。なにも起こらないかのように見える光の反射のゆらめく水面を鴨が画面を横切る、あるいは、ばらばらと矢継ぎ早に階段から転がり落ちてくるスニーカーの、最後の一足がゆっくり転がりながら最終段にピタリとおさまる、というような、対象とカメラが向き合っている間に起こった出来事を捉えたものへと変化している。
 かつて筆者は、この作家の作品が持つある種の「軽さ」を、作品の解釈をすり抜ける「軽妙さ」と重ね合わせた。それは意味を求めようとしても、ちょっとした笑いを誘いながらどこまでも違うところへ「ズレ」ていってしまうということに由来する。また、田中をめぐる言説には、見慣れた日常的な光景を脱臼させることによって非日常的な光景を現出させる、というものが多く見られた。これに対し田中は、「日常が芸術になる」ということに注意を促しながら「日常というテーマが重要なのではない」とし「日用品が用いられているから日常と言ったり、その使われ方が日常ありえないからと言って非日常と言ったり、これではなにも生産的なことは起こらない」*という。
 「平凡な」「なにげない」などと形容されることの多い「日常」という言葉は、たしかに日々常に変わることのない状態にちがいない。たとえば、それは退屈なものであり、とりたてて意識されることのないものであろう。田中は、そこに何か「スケールの大きな問題」*を表現する構造を見いだそうとする。それを「日常の芸術化」と短絡してはいけないだろう。むしろ、田中にとって日常はズラす対象ではなく、「内容を十分に表わす」*ための凝視されるべき対象となった(*「芸術/批評」二号より)。
 先頃、国立新美術館で開催されていた展覧会「二〇世紀美術探検」における最終セクションで田中は、野外で大量のオレンジを投げる、ボールを道端のゴミ箱に入れる、といった映像をインスタレーションとして展示した。そこでは「あたりまえのこと、あたりまえでないこと、そしてたぶんそのほかのこと」(出品作品のタイトル)が、ヒギンズの言う「それ自身のためだけに、それを使うこと」によって、あざやかに描き出されていた。


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