未来の芸術家 真鍋大度のこれまでとこれから

*中国伝媒大学(Communication University of China)インターメディア芸術研究センターでの、真鍋大度さんによるパフォーマンスとテクノロジーについてのオンライン授業の開講にあわせて、テキスト「未来的艺术家——真锅大度」を寄稿しました。中国語に翻訳されたもののオリジナル日本語テキストです。
2022年7月15日公開
https://mp.weixin.qq.com/s/JKBP_lVGW4dsb9sZSWsCZQ?fbclid=IwAR0B8SZjkQJ-7zqy8heJ0sPD1-BxvrfSym2Cc1LuuyDb4AcIhNlwjbRJJag


 英国のTate の映像アーカイヴに「5 Times Artist Nam June Paik Predicted the Future」と題された4分ほどの短い映像クリップがある。現在YouTubeで公開されており、視聴可能である(https://www.youtube.com/watch?v=yMUJB5aFvdo 2022年5月23日アクセス確認)。それは、タイトルのとおり、韓国のアーティスト、Nam June Paik(1932-2006)が予見した5つの未来について紹介したものであるが、テンポよく編集されたそれは、いかにもパイクのインスピレーションとなったマーシャル・マクルーハンの言う「メディアがメッセージである」ことを端的に表している。パイクが発言や作品において予見し、その後に顕在化した5つの未来とは、「THE INTERNET」「VIDEO AS ART」「CLIMATE CRISIS」「GLOBAL MEDIA」「SMART PHONE」であるという。ここでは、これらの予見された個別の事例については立ち入らないが、ヴィデオという新しい電子メディア(Electronic Media)を芸術表現の手段とし、まさにマクルーハンの提唱した「Global Village」を実践するかのように、世界を映像ネットワークでつなぎ、コミュニケーション・アート(通信芸術)を標榜したパイクは、たしかに未来の芸術家像を体現するアーティストだったと言えるだろう。

 では、21世紀における未来の芸術家とは、どのような存在になるのだろうか。パイクがヴィデオを表現手段としたことは、たんに映像表現として新しいメディア・テクノロジーを採用したということにとどまらない意味がある。それは、ヴィデオという電子映像が可能にした/するであろう、技術とそれによって変わる社会や、人々の意識までにおよぶ変革を意識していたということだろう。新しい道具はやがては一般的になり、現在ではスマートフォンというコンピュータを、誰もがそのように意識せずに使っている。しかも、それはコンピュータであり、電話であり、カメラであり、これまでのあらゆる用途を持ったメディアの複合体となっている。そうした技術があたり前になることもまた未来ではあるが、未来とはむしろ、その技術が一般化することよりも、未分化でさまざまな可能性に開かれた状態であるような、可能性としての存在であるときに、従来の価値観からの転換が引き起こされるような状況のことであるだろう。たんに技術的な進歩も未来ではあるが、その登場がそれ以前と以後を決定的に変えてしまうような、意識変革がもたらされるようなもの、そこに私たちは未来を感じてきたのである。昨今では、かつてのような現在と大きく飛躍した未来を想像することがむずかしいとも言われているが、SFやメディア・アートは、いまだに未来を示し続けているとも言えるだろう。

 よくメディア・アートについて、「新しいメディアを作る芸術」であると言われる。それは、すでに技法として確立された伝統的なやりかたで、既存のフォーマットの中で展開されるのではなく、アーティストそれぞれが、場合によっては作品ごとに、表現技法を新たに生み出していくことの謂である。与えられた条件があって、その上で表現が存在するのではなく、その基盤自体も自作した上で作品と見なす。だから、メディア・アートが批判される場合によく使われる「技術そのものでしかない」という言い方はかならずしも間違ってはいない。その技術によって、展開されるようになる、新しいフォーマットを作っているとも言えるからだ。その意味で、メディア・アートは、つねに未来にかかわっている(たとえ未来につながっていかなかったとしても)。

 真鍋大度は、現在の日本のメディア・アート状況を予見し、牽引したアーティストであると言っていいだろう。それは、現在メディア・アートと呼ばれ、現在あるような形で多くの人々に認識されるようになったジャンルが、より一般的な話題にされるようになり、受容されていくような現在の状況を生み出した一端を、まちがいなく担っているからである。それは、人々のメディア・アートに対する印象を、彼の登場する以前と以後とで、なにかちがうものに変えてしてしまったと言ってもいいかもしれない。真鍋がかかわるようになった、コンサートや舞台などにおいて、さまざまな装置を使用した映像演出の手法は、メディア・アートやそれに類するものが、美術という枠を超えて、テレビやコンサート、そしてオリンピック・パラリンピックなどのより大衆的な場、メディアで展開されていくという状況を生み出した。

 また、真鍋は、90年代後半から紹介されるようになった同時代の海外のメディア・アート作品を、その時代にあった驚きとともに、岩井俊雄や池田亮司のような先行するアーティストの作品をリアルタイムに享受し、その影響から出発することができた世代である。その当時は、メディア・アートすなわちインタラクティヴ・アートとみなされていたほどに、観客が作品をたんに鑑賞するだけではなく、観客の介入によって作品が変化し成立するような、体験/参加型の作品が多く制作されていた。それは、デジタル・テクノロジーを使用した新しい可能性として、多くのアーティストにインスピレーションを与え、少なくないメディア・アーティストを誕生させた。真鍋は、それらを引き継ぎながら、自身のアイデンティティを確立する好機を得ることができた、最初のメディア・アートからの直接的な影響を受けたアーティストと言うことができる。また、90年代末頃のメディア・アートが一般には手の届かない高価なテクノロジーを使用して制作されていたのに対して、彼らが活動を開始した2000年代中頃は、そうしたテクノロジーの廉価化や一般化が急速に進み、メディア・テクノロジー環境の変化がめざましくなっていく時代であった。真鍋のようなアーティストは、そうした過渡期的な時代において、同時代的なテクノロジー環境の変化とともに自らをアップデートしていく術を自然に身につけているのが特徴だろう。

 その意味で、メディア・アートという、少なからずテクノロジーに依拠した表現は、極言すれば、新しい技術の登場に伴って、それらを取り込みながら、そのつど新しい表現や動向を生み出しいくものなのである。それは、たとえば絵画や彫刻や写真、映画でも音楽でも、表現形式は変わることがなく、内容としての同時代性が表現されるものとは異なるはずである。もちろん、新しい絵具、新しいキャンヴァス、新しいカメラなど、道具や素材は新しくなるし、それに伴って、そうした環境に触発された発想も生まれるだろう。しかし、その組み合わせによって、既成のものではない技術を、その内容のために生み出すのがメディア・アートであると言うことができる。それらは、往々にして、「美術と称せられるものの管轄外」にあるとみなされてきた。ゆえに、どの時代においても美術の主流としては認識されにくく、一過性の流行のように現れるという、ある意味では誤解を繰り返し受けてきた。しかし、そうした従来の形式や手法の埒外にある「例外」的なものとして登場しながら、それが本流に組み込まれていく、未来の可能性の発明としての美術という性質がメディア・アートにはある。

 YouTubeでの動画公開で、真鍋の存在を世界的に一躍有名にした、電気によって顔の筋肉に刺激をあたえて音楽に合わせて表情をコントロールする、2008年からはじまる《electric stimulus to face》の一連の実験から、真鍋のアプローチは従来の美術の枠組みにはおさまらない、アートを拡張する試みであった。現在では、たとえばデジタル・ファブリケーション、バイオ・テクノロジー、宇宙開発、情報技術、人工知能、仮想通貨など、そもそも芸術のための技術ではない、芸術の範疇の外にある/あった、さまざまなテクノロジーが、アートのモチーフであることを超えて、道具、素材になろうとしている。これからのメディア・アーティストは、そうした時代のアーティスト像を体現するものの謂いとなるだろう。現在では、メディア・アートに影響を受けた、それに類する表現は、アート、デザイン、エンターテインメントなど、複数の領域で見られる。ある意味では、メディア・アート的な手法もますます一般化しているのである。しかし、そうした現在のメディア・アート状況における真鍋の位置とは、それでも確立された手法の中での表現に安定するのではなく、未来の芸術家であろうとする態度だと言えるだろう。

 不可視のデータを可視化、可聴化する手法で制作された作品では《traders》(2013年)や《chains》(2016年)といった作品があり、それぞれ前者は株式市場、後者は仮想通貨の仮想取引のデータを使用したものである。仮想通貨などの新しいシステムが社会に実装され、そのルールなどが確率、定着していく前に、システムに介入し、将来に起こりうることを予見してみせるのが真鍋のスタイルであるという。坂本龍一とのコラボレーションによる《センシング・ストリームズ ―不可視、不可聴》(2014年)など、人間が知覚することのできないデータや電磁波を可視化、可聴化する作品では、日常的な社会のインフラとなっている技術や、そこで扱われている「見えないもの」を見えるようにする。それは、本来メディア・アートの主流ともいえるテーマでもあった。真鍋はそれを現在の状況においてアップデートしてみせる。

 また、女性3人による人気テクノポップユニット、Perfumeの演出などの仕事を経て、2010年ころから、エンターテインメントやパブリックなイヴェントでの仕事においても、実験的な仕事が要請される機会が増えてきたという。コンサートやパフォーマンスの舞台を実験空間にしてしまう仕事は、現在では真鍋の独壇場ともいえる活動の場所となっている。2015年と2016年に東京と山口で開催され、2021年にはそのアップデート版のパフォーマンス公演が行なわれた、ダンスチームELEVENPLAYとのコラボレーション作品《border》(2015/2021)は、ヘッドマウントディスプレイを装着し、プログラムで完全制御されて動くパーソナルモビリティ「WHILL」に体を拘束された状態で、ELEVENPLAYの複数のダンサーと同じ空間を移動して体験する。ディスプレイには、現実のステージと仮想のステージが重ねあわされた、AR(オーグメンテッドリアリティ=拡張現実)を体験でき、現実の空間と、ヴァーチュアルな空間、実際のダンサーとヴァーチュアルなダンサーが、シームレスに移行する。観客をライヴ空間に迎え入れ、舞台を客席から鑑賞するのではなく、そこで行なわれるパフォーマンスを内側から体験できるパフォーマンスとなっていた。

 真鍋のアプローチとは、テクノロジーを極めた先に、私たちがまだ気づかない芸術表現、美的表現のあり方を発見する、未来の芸術の探求である。近年では、エンターテインメントの仕事におけるディレクションの立場と、一方で、アーティストやミュージシャンとして個人的な制作を行ないたい欲求もあり、パーソナルなプロジェクトも真鍋が設立者の一人であるライゾマティクスの案件の傍で進行している。真鍋大度としての個人ないし少人数のプロジェクトが今後さらに発表されていくことになるだろう。会社規模も大きくなることで、経営者としての責任もさらに増している。プロジェクトの成功だけではなく、エンジニアやデザイナーの成長も念頭に置いた組織の設計、また、社会にとってのライゾマティクスの意義など、自社内だけではなく社会にたいする果たすべき責任は大きい。自身のポジションも変化し、先達から受けた恩恵を、今では若いクリエイターや経営者に与える立場になっているという。その意味で、これからの真鍋のよりアーティスティックな活動が、どのように先鋭化し、後進の若手アーティスト、リサーチャーにどのような影響を与えるものになるのかが期待される。

 近年では、人工的に共感覚を作る試みとして、神谷之康(京都大学大学院 情報学研究科脳情報学教授)とのブレイン・デコーディング技術を使ったプロジェクトを行なっている。ブレイン・デコーディングとは、真鍋によれば「機械学習や人工知能の技術を応用して、心の状態に関するさまざまな情報を脳信号パターンからデコードする技術」であり、「頭の中に思い浮かべたイメージを外に取り出す」ことを可能するものだという。現在計画中の今後のプロジェクトは、真鍋自身の脳や細胞にかんするバイオ・フィードバックについてのもので、自身の培養細胞を用いるなど、かなりエクストリームなものが想像される(まずはパフォーマンスでの実現をめざしているという)。また、トップダウン的なものではなく、ボトムアップによる教育の構想など、自身の作品、企業としてのライゾマティクス、そこから新しい社会システムの構想など、未来へのより大きなヴィジョンを描こうとしている。



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