今、即興演奏の語法はどこにあるのか

『図書新聞』2604号(2002年11月2日)

 フリー・インプロヴィゼーションにおけるフリーとは、「解放」を意味するものであり、もとより、その起源であるフリー・ジャズにおいては、黒人の解放運動と深く結びついたものであった。しかし、のちには、ジョン・ケージによる、沈黙を含む音素材の拡大の実践などと関連しながら、音楽の定型に拘束されないフリー・フォームなものとしての「解放」という新たな局面に転化していく。それは、玩具や自作の音具など、楽器ではない日常的なオブジェを使用して演奏を行なったスティーヴ・ベレスフォードやデイヴィッド・トゥープ、顔の表情で即興演奏を行なったトリスタン・ホンジンガー、あるいはステージ上で茶を飲むことなどといった日常的な行為までを即興の範疇としてとらえようとした近藤等則など、続く世代の即興音楽家たちによる即興演奏の概念拡張へと受け継がれた。しかし、それは同時に、いわゆる演奏行為からは逸脱した行為となっていった。ゆえにある者は、その白紙還元された地点から、作曲された音楽というもう一方の地平へと自身の可能性を求めた。

 また一方で、その白紙状態からいかに自己の即興を規定していくか、という問題設定がなされたともいえるのではないだろうか。たとえば、デレク・ベイリーによる『String Theory』など、近年の意欲的な作品群は、「フリー・インプロヴィゼーション」という「定型」なる逆説を打破するものとして興味深かった。あるいは杉本拓が試みている、ある指示によって作曲された曲のなかでの演奏家が自由に解釈して演奏する「Composed Music Series」などにも、拡張された即興の外延を規定する姿勢を見出すことができるのではないか。即興の方法とは、そうした方法論や使用される機材などの刷新とも無関係ではないはずだ。

 そのなかで挑戦的な試みを行なう一群の音楽家たちが国内外で現われ、また、それらを積極的に発表するレーベルとともに、ひとつの意欲的なイヴェントとして結実した。

 アーストホワイル・レコーズは、ニューヨークに拠点を置く、即興演奏専門のレーベルである。一九九九年に設立された比較的新興のレーベルだが、特筆すべきはエレクトロ・アコースティック・ミュージックに特化されたフリー・インプロヴィゼーションを専門とするレーベルであるということだ。これまでにリリースされたCDは現在までに二四タイトルを数えるが、さらに特徴的なのは、ソロ作品のリリースがなく、デュオ以上の複数の音楽家によるものであることである。その音楽家の選択および組み合わせは、現在の即興音楽における可能性の追求において、このレーベルの先鋭性を実証するものとなっている。それらのグループ・セットは必ずしもテンポラリーなものだけではなく、すでに四〇年近いキャリアをもつ、キース・ロウなどの即興音楽の重鎮ともいえる音楽家と、日本のギタリスト杉本拓やノー・インプット・ミキシング・ボードを演奏する中村としまるとの組み合わせは、世代を超えて刺激的かつ魅力的な瞬間として記録されている。

 そのアーストホワイル・レコーズによるフェスティヴァルが、去る一〇月一八、一九、二〇日の三日間にわたって開催された。今回この「AMPLIFY 2002: Balance」に参加した演奏家たちは、主にエレクトロニクスやコンピュータを用いて即興演奏を行なう。例外は、杉本拓ギター・カルテットやギタリストとしてギターを演奏する杉本拓やブルクハルト・シュタングルだが、ギュンター・ミュラーやキース・ロウ、大友良英らも、それぞれパーカッション、ギターを出自とする経歴を持っており、ミュラーはエレクトロニクス・パーカッション、ロウはギターを改造したテーブルトップ・ギター、大友はメインではないがギターをフィードバックさせて使用するなど、既存のものとは異なる使用法をしていた。しかし、今回のコンサートが特にエレクトロニクスを使用したものにフォーカスを当てた人選となっていたことで、むしろこのレーベルの先鋭性を強調するものとなっていたともいえる。このコンサートに先立って、東京ドイツ文化センターにおいて開催されたマルクス・シュミックラーとトーマス・レーンのレクチャーでは、音楽が内包する諸要素を素材、形式、内容、意味に分類し、アナログ・シンセサイザーとコンピュータといった素材の差異、開かれた形式による自由な時間軸の設定、意味作用を限定しないことなどの方法論を語ったが、参加した音楽家全員にそれぞれの方法論、即興論があるはずだ。

 三日間の演奏はどれもが充実したものだった(しかし、初日の二セットを見逃したことを告白しておこう)。彼らの演奏は、きわめてクールな印象を与えるものだが、EMSシンセサイザーと戯れるように、大きなアクションを伴い、どこかユーモラスに演奏するトーマス・レーンと、ラップトップ・コンピュータのディスプレイを見つめて演奏するマルクス・シュミックラーの演奏は対極にあるかのように見えるが、その電子音の応酬は圧倒的であった。クリス・マルケルやゴダールらの映画の画面の一部をカメラで再撮した映像を映しながら(彼らのCDには両者の作品名を冠した曲が収録されている)演奏したブルクハルト・シュタングルとクリストフ・カルツマンのセットでは、残念ながら演奏との関連性は理解できなかった。大友良英とギュンター・ミュラーのデュオにおける、中盤のパーカッシヴでアグレッシヴな展開。サイン波やアナログ・シンセサイザーと溶け合う吉田アミのヴォイス。Sachiko Mと中村としまるとのデュオでは、断続的に交信しあうかのような電子音による、音と音との連続性を保つぎりぎりの緊張感。キース・ロウ、ギュンター・ミュラーのつくりだす持続音のなかに、一音を穿つ杉本拓のギターの響き。どれもが筆舌に尽くしがたい、瞬間を生け捕ろうとする緊張感に満ちていた。

 これらの演奏から伺えることは、即興演奏の残された可能性のなかから、自らの語法を模索する作業であり、こうした現在の即興音楽の様相に、まぎれもなく同時代音楽の突端を垣間見ることができた。

Erstwhile Records presents AMPLIFY 2002: Balance
2002年10月18日—20日 吉祥寺STAR PINE’S CAFE

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