「あれとこれのあいだ」にあるもの 27年ぶりのデヴィッド・バーン&ブライアン・イーノと小金沢健人

『intoxicate』Vol.77(2008年12月)

 デヴィッド・バーンとブライアン・イーノの共作が27年ぶりに発表されるという報せを聞いた時、最初に思い出されたのは、1981年に発表された『マイ・ライフ・イン・ザ・ブッシュ・オブ・ゴースツ』のことだった。おそらく多くの人が同じ様に感じたかもしれない。なぜなら、彼らのコラボレーションによる作品は、これまでにその一枚しか制作されていないのだから。また、それがポピュラー(という枠ににとどまらない)音楽史において記念碑的な重要作品とみなされているならなおのこと、それに続く作品はおのずと『ブッシュ・オブ・ゴースツ』との比較対象となり、さらには同等もしくはそれ以上の作品を期待されることを避けられないだろう。
 『ブッシュ・オブ・ゴースツ』は、バーンとイーノ以外はすべてリズム楽器(ベースとパーカッション)の演奏者をゲストに迎え、ファンクやアフロ音楽のリズムをベーシックトラックに、イスラム圏の音楽のレコードやラジオのニュースやその他の番組などを音源として、カットアップやコラージュの手法を用いて制作されたものだ。それゆえ、その後80年代後半以降に隆盛した、ポピュラー音楽界を席巻したワールド・ミュージックやサンプリング・ミュージックに先がけ、その登場を予見(あるいは準備)したものとされている。また、作品中に使用された音源の権利問題によって曲の差し替えが行なわれたという理由から、トーキング・ヘッズがアフリカ、アフロ音楽へ本格的なアプローチを試みた問題作であった『リメイン・イン・ライト』(1980年)以前に録音されながら、発表の順序が逆になってしまったといういわく付きの作品でもある。しかし、この予期せぬ偶然によるリリース時期の遅延は、ポピュラー音楽のフィールドで、こうしたアヴァンギャルドな方法論がより理解されやすいものとなる状況を準備するための時間を経て、むしろ作品にとっては好機を得たともいえるだろう。
 ともあれ、前作が与えたインパクトは、彼ら自身とその音楽とを強く印象づけ、結びつけた。しかし、それは当時の彼らが関心を寄せていたアフリカ音楽、アラブ音楽への憧憬から生み出されたものである。(同時期にイーノはガーナのグループ、エディカンフォをプロデュースしている。再発希望!)しかし、前作からの27年という、けして短くはない年月は、ふたりにとって交友関係やゲストとしての共演はあったかもしれないが、共同作業においては長い空白であり、それだけの年月を隔てて、ふたたびふたりが共作する背景には、また当時とは異なる機縁があるにちがいない。もちろん、前作と同様の衝撃をもたらす作品を期待することもできるだろうし、そうした想像はリスナーの自由である。しかし、バーンとイーノのコラボレーションは、たとえばフリップ&イーノのような、ふたりの音楽家の資質や役割のようなものの分担が明確に規定され、ユニットとしての性質やスタイルがある程度確立されているものとは異なるだろう。それは彼ら二人の作品をふたたび聴くことができるということを待ち望んできた者にとって、あまりにも容易に想像される範囲のものだったかもしれない。はたして、それはいい意味で、わたしたちの期待をあっさりと裏切ってくれるものだった。
 それは当然のように、現在のふたりのそれぞれの活動を反映したものになっている。05年に、やはり28年ぶりにヴォーカル入りのアルバムを発表し、ポール・サイモンやU2、コールド・プレイなどのポピュラー・サイドでの成功を収めたプロデューサーとしてのイーノと、トーキング・ヘッズ解散後ブラジル音楽へ傾倒し、以降ソロでのキャリアを継続しているバーンが、06年の『ブッシュ・オブ・ゴースツ』再発をきっかけにイーノと再開し、後日イーノから制作途中のトラックを聴かされたことが発端になっている。したがって、ベーシックトラックを制作し、サウンド面でのイニシャチヴを握っているのはイーノであり、今回バーンは作詞とヴォーカルに徹している。それは前作のような難解なものではないにせよ、アヴァンギャルドな手法によるものではなく、完全にポピュラー音楽のフォーマットで制作されている。むしろ、そのこと自体にある種の新鮮さを憶えるくらいに前作からの作風の変化は大きい。しかし、ライナーノートにバーンが書いているように、この作品の土台になったのは、「通俗的になる前の伝統的なフォーク、カントリー、もしくはゴスペル」であり、その意味では、前作で自分たちの歌にない、エモーショナルなものを求めることから、アラブの音楽を使用したということと同様、本作もイーノの制作したトラックをもとに、音楽の持つ根源的な力を求めて、アメリカ伝統音楽の要素をミックスしたものだと言えるだろう。たしかに、一聴して印象的なバーンのヴォーカルは、いままでになく表現力に満ち、どこか包容力のようなものさえ感じさせるし、イーノのバック・ヴォーカルも大きな広がりを楽曲に与えている。それは、たしかに彼らが言うように、それぞれひとりでは成し得ない作品であり、そこにこそコラボレーションの意味がある。
 アルバムのタイトル、『Everything That Happens Will Happen Today』(起きることすべては今日起こる)は、こうしてふたたび行なわれたコラボレーションが、起こるべくして起こった必然のように感じさせる。たしかに、起こるすべての出来事は、明日でも昨日でもなく、確実に今日起こるのである。この瞬間は今にだって過去になってしまうし、明日もやがては昨日になる。そして、彼らの2作目が発表された今、わたしたちの期待と、この新作を準備させたものが、前作からの27年という年月という「あいだ」であるということに気がつくだろう。

 ベルリンを拠点に活動しながら、近年ではアメリカ、インド、ブラジル、ギリシャといった世界各地を旅しながら作品を制作している美術家、小金沢健人の作品は、作品を固定的にとらえようとする意味づけや、位置づけのようなものを軽やかにすりぬけ、常にそうしたものの「あいだ」を意識させる。先ごろ開催された展覧会「あれとこれのあいだ」(2008年11月1日—29日 神奈川県民ホールギャラリー)は、プロジェクションおよびモニターによるヴィデオ作品とドローイングから構成され、そのタイトルに表わされているようなどこか茫漠とした「あいだ」の領域が、ぽっかりと出現するものだった。
 会場の最も大きな展示室を囲む壁全面に、十数台ものプロジェクターで映像を投影した巨大なヴィデオ・インスタレーション《速度の落書き》は、まさにタイトルどおり、動く光のグラフィティである。それは、夜の街に煌めくネオンかあるいは自動車のライトだろうか、さまざまな色の光の軌跡となってカメラに焼き付いた線条が乱舞する広大な映像空間を作り出している。それは、環境的なマルチ・プロジェクションの映像提示のようでありながら、会場にほとんど人がいなかったこともあるかもしれないが、映像の中の運動とはうらはらの静寂とともにそこはかとない孤独感を味わうものであった。おそらくは喧噪の中で撮影されたであろう映像から、映像の具体性や音を消し去ることによって、近藤幸夫が展覧会カタログで「孤独な叙情性」と呼んだような、新たな感情を創り出している。
 また、インド、デリー滞在中に制作された《デリーで迷って》は、インドの街中を走るリキシャー(バイクを改造したインド式タクシー)の後部座席から撮影したものと、商店街とその路地裏を撮影したもののふたつのシーンから構成された作品である。どちらのシーンも映像の演出的な編集および加工はなされておらず、目の前に起こる出来事がただ記録されている。それは、小金沢がデリーで同時に複数の作業をこなすことが普通であるような生活習慣を目の当りにしたことで、自分が表現において行なっている「撮影—編集—発表」という一連のプロセス自体に疑いを持ったことに起因しているのだろう。そこで、この作品では、すべての出来事をカメラの前で起こして見せている。それは、雑誌から切り抜かれたと思しき白人モデルたちの顔がレンズの前に掲げられ、まるでデリーの街を浮遊するかのように画面の中に介入する、不思議な光景となって表われている。それはどうやら撮影者=小金沢の手に持たれているのだが、切り抜きのモデルの視線が、背景の街や人びとに向けられているように見えたり、風にあおられてめくれたりといった、偶発的で瑣細な出来事がコミカルな印象を与えている。

 ヴィデオは、機動性、即時性に優れているなどの点で、映画やテレビという、先立つ映像メディアと異なる性質および可能性を有する新しいメディアとして登場し、アーティストたちは、表現のための自身のメディアとしてヴィデオを使用した。それが、その初期には、市民運動とも連動したゲリラ・テレヴィジョンなどの活動のように、ある種のオルタナティヴなドキュメンタリーもしくはルポルタージュ作品として表出したことは興味深い。また、目の前の出来事を記録するという、カメラのごく基本的な機能によって制作されながら、たとえばウォーホルの《エンパイア》のようなほとんど画面に変化のない長大な作品や、イーノの初期のヴィデオ作品のように、出来事が何も起こらないということがすなわち表現になるという逆説的な作品がある。しかしそれは、それでもそこにカメラがあった、ということを想起させるように、その意味で、「あれ」と「これ」との「あいだ」とは、「撮影—発表」というプロセスのあいだにある、前で起こった出来事と、その経過した時間、あるいは訪れた土地、といった世界との関係性を見つけ出そうとする、小金沢のテーマを端的に表わしたものだ。


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