田中功起「買物袋、ビール、鳩にキャビアほか」

*2004年11月に群馬県立近代美術館で開催された、田中功起「買物袋、ビール、鳩にキャビアほか」の展評。当時、某誌にレギュラーでレヴューの枠をもらっていて、そのために書いたものだったが、掲載予定号の発行が遅れ、そのままお蔵入り、未発表となった。

 なんという即物的な展覧会タイトルだろう。しかし、この言葉の並びは一体なにを意味するのか。と、考え始めるとすでにそれは田中功起の術中にはまっているのかもしれない。田中はこれまでに国内外の展覧会に数多く出品している若手アーティストだ。短いシークエンスをループ状に編集し、延々と同じ状態が繰り返される、どこか人をくったような不可思議なビデオ作品などで知られる。僕はこの展覧会に先だってプレヴューを書いた際、この作家の作品が持つある種の「軽さ」を、作品の解釈をすり抜ける「軽妙さ」と重ね合わせた。それは意味を求めようとしても、ちょっとした笑いを誘いながらどこまでも違うところへズレていってしまうのだ。
 この展覧会は、二〇〇四年の二月から八月までニューヨークでアーティスト・イン・レジデンスを行なった田中が帰国し、彼の地で制作された作品によって構成されたものである。この半年間の滞在が作家にどのような変化をもたらしているのか、ということは僕の大きな関心でもあった。美術館の展示室の一室に展示台や陳列ケース、ソファやら目一杯の美術館の什器を持ち込み、まるで迷路のような小美術館をこしらえ、そこにモニター、プロジェクターなどを点在させ映像作品一〇点が上映された。
 作品を見てまず驚いたのは、一見以前と同じように見えながら、しかし、これまでの特徴だったある時間を円環状に閉じ込めた作品とはじつに正反対のものだったということだ。ループ再生こそしているが、そこにはしっかり始まりと終わりがあるのだ。そして、タイトルどおりそのままのものが登場し(展覧会のタイトルも作品名をただ列記したものだ)、そして対象とカメラが向き合っている間に起こった、ただ一回きりの出来事が映し出される。
 グラスをとらえたカットにビールを持った手がフレームインし、おもむろにビールを注ぎ始めると、ビールはグラス一杯になりやがて溢れ、泡がテーブルに拡がりこぼれ落ちる。ばらばらと矢継ぎ早に階段から転がり落ちてくるスニーカーの、最後の一足がゆっくり転がりながら最終段にピタリとおさまる。買物袋はたしかに飛んだ、しかし途中で取られた。路上に置かれた皿に盛ったキャビアを鳩はたしかに口にした。それはそれぞれが違う一回きりの出来事から、小さな決定的瞬間を抽出する。世界がそのままで不可思議なものであるとでもいうように。世界はずらす対象ではなくむしろ凝視されるべき対象となった。
 《トルティーヤ・チップスからパンケーキへ》という作品では、トルティーヤ・チップスの袋が開封され、砕かれ、粉末状にされ、焼かれ、焦げる、という断続的な素早いカット割りでチップスがパンケーキへと変容する。すると一転、それ以前の性急なつなぎと対照的なスローモーションによって焦げたパンケーキは窓から放り投げられ、植木を擦る音とともに視界から消える。それがふと、田中の「前提」としてあった方法の放棄とだぶって映った。

田中功起「買物袋、ビール、鳩にキャビアほか」群馬県立近代美術館、二〇〇四年一一月一三日—一二月一九日

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