若き武満徹が大阪万博で描いた〈未来へのヴィジョン〉 武満徹とマルチメディア—実験工房の影響と大阪万博

『intoxicate』Vol.124(2016年10月)

 武満徹の作曲家としてのキャリアのはじまりが、詩人、瀧口修造(武満のデビュー直後に知り合った)のもとに集まった多様なジャンルの若い芸術家たちによって結成され、複合領域的な活動を行なった実験工房のメンバーとしてであったことは、それ以降の武満の活動にも大きく影響しているだろう。
 実験工房(グループの命名も瀧口による)は、武満と造形作家の北代省三、福島秀子、山口勝弘、作曲家の鈴木博義、音楽批評家、詩人の秋山邦晴、エンジニアの山崎英夫らが集まり始まった。活動開始以降には、ピアニストの園田高弘、作曲家の湯浅譲二、福島和夫、版画家の駒井哲郎、写真家の大辻清司、作曲家の佐藤慶次郎が参加し、1957年までグループとしての活動は続いた(が、正式な解散宣言はされていない)。その間、美術、音楽、写真、映像、詩、舞台芸術などを総合した領域横断的な作品制作および活動形態によって、独自の先駆的な試みを行ない、武満はミュージック・コンクレート作品《ルリエフ・スタティック》(1955年)などを作曲している。
 実験工房において北代省三や山口勝弘は、作品自身や観客の動きによってその様態を変化させる「不定形美術」を標榜したが、そうした指向性は、武満においてもグラフィック・デザイナー杉浦康平との共作になる《ピアニストのためのコロナ》(1962年)など、図形楽譜による決まった完成形を持たない作品にも引き継がれる。また、1950年代後半、1956年にはNHKに日本初の電子音楽スタジオが開設されると、新しい音楽表現の可能性が追求されるようになる。そこでは、武満をはじめ、黛敏郎、諸井誠、一柳慧、高橋悠治といった作曲家たちによって、ミュージック・コンクレートや電子音楽が制作された。当時の作曲家を電子音楽の制作へと向かわせたものは、いわば「未来の音楽」へのヴィジョンがあっただろう。
 そうした未来のヴィジョンを提示する場として、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会があった。武満は、パヴィリオンのひとつ、鉄鋼館(現在はEXPO’70 パビリオンとして公開されている)に作られた、12チャンネルのテープ再生装置と、天井、床、壁に総数1008個のスピーカーを設置し、美術家、宇佐美圭司によるレーザー空間演出装置を備えた立体音響劇場「スペースシアター」の音楽監督を務めた。自身の作品《クロッシング》のほか、高橋悠治《慧眼(エゲン)》、ヤニス・クセナキス《ヒビキ・ハナ・マ》が上演された。同館には、フランソワ・バッシェによる金属の彫刻楽器が展示されており、武満はこの楽器のために《四季》を、その楽器の録音を素材にして再構成したテープ音楽《トゥワード》(1971年)に制作している。
 武満は、この従来の音楽体験とは異なる新しい体験を創出する場を賞賛しながら、しかし、鉄鋼館が、万博終了後も多目的な公共施設として運用されるといった当初の構想が果たされなかったことに幻滅を感じていたという。そして、このような国家主導の大イヴェントへの参加に対する自己批判とともに、時代の「未来の音楽」への熱狂も醒めていった。しかし、実験工房の時代からの、他者へと開かれた武満の姿勢は変わることがなかった。

没後20年 武満徹 オーケストラ・コンサート 10/13(木)19:00開演
伶楽舎 第十三回雅楽演奏会 武満徹「秋庭歌一具」 11/30(水)19:00開演
会場:東京オペラシティ コンサートホール


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