恋愛のエクリチュール「と」方法

『intoxicate』Vol.66(2007年4月)

 文章を書く。とりわけ自己表現としての言葉を書き記すという行為。その行為自体は、思考と手の運動とが結びつけられた結果としてある。そして、そのふたつを媒介し、書くという行為を起動させる動機として感情がある。ある感情が、ある個人を思考させ、運動させる、という一連のプロセス。ロラン・バルトが『テクストの快楽』の中で、テクストにおける意味生成性とは、「官能的に生み出されるという限りにおいて」の意味である、と書いたことに倣えば、書くという行為を発動させる、その動機となる感情を端的に表わすもののひとつは、「恋愛」であるにちがいない。著書『恋愛のディスクール・断章』においてバルトは、こうした「恋愛」における営みが「幾千幾万の人びとによって語られて」いながら、「これを公然と宣揚する者はひとりとして」おらず、その「本性」ゆえに、「無視され、軽んじられ、嘲弄されて、権力はおろかその諸機制(科学、知、芸術)からも遮断されてしまっている」、と前置きしながら、「書く」ことを「恋愛感情を「芸術創造」とくに文章(エクリチュール)のかたちで「表現」したいという欲求が生み出す罠、自己弁護、袋小路など」と定義する。
 心の中に生まれたある感情の高まりを言葉で表現しようと試みることにつきまとう困難は、バルトの言うような、それが「芸術創造」に値するものであるという認識以前に、それが届けられる誰かのため、ほかの誰のためにでもない「あなた」のための特別な何か、ただひとつの「贈り物」となるように、慎重に言葉が選ばれ、磨かれなければならない、ということによるだろう。贈与の対象となる相手を、どのように他に代替不可能なその人のためだけのただひとつの言葉で讃えることができるか、そして、それがいかに相手を喜ばせるものたりえるか、ということにわたし(たち)は腐心する。それは、相手が自分にとって、自分が相手にとって、唯一の特別な存在であることを認める/させるということであり、そのためにわたし(たち)は、相手の欲するものを差し出し、自分の欲する物を得たい、という欲求がある(ようだ)。
 たとえば、ゴダールの映画『男性・女性』の中で、マドレーヌ(シャンタル・ゴヤ)がポール(ジャン=ピエール・レオ)に「世界の中心は何か」と尋ねるシーンがある。その唐突な問いかけにポールは、何か気の利いた言葉を返すべく考えをめぐらせるが、結局取り繕ったようなさえない返答しかできない。それに対して、マドレーヌはいともあっさりと、世界の中心は「自分」だと思わないか、と答える。そんなちょっとした認識のすれ違いさえにも、わたし(たち)は苦しまなければならない。
 また、ビートルズ(ポール・マッカートニー)が、そのグループ最後の曲(実際にはエクストラ・トラックとして「ハー・マジェスティ」がでてくるけれど)「ジ・エンド」において、「あなたが受け取る愛は、あなたが生み出す愛に等しい」と歌ったような、等号で結ばれた関係を、わたし(たち)は究極のものとして希求してしまう傾向がある。そうした感情はむしろ、あるふたりが恋愛関係にあるというその場合には、等式が成立している(はずである)という前提において、その等式が少しでもほんとうに等しいものであるように、決してどちらかが大きいということがないような平等な状態へと、煩悶しながら、つねにそれを実現しようと欲することによって確認されるべきプロセスといったものなのだろう。
 しかしそれは、どうしても陳腐なお決まりのクリシェへと堕してしまうことを避けられないように感じられる。だからこそ、彼や彼女たちの言葉はいつだって裏返っていってしまうのだろう。どのような心をこめた意味内容を含んだ言葉であろうと、それは最終的にはひとつの形にたどり着く。
 「わたしの最後の悟りは、同語反復を認めること、そして実践すること、でしかありえない。素晴らしいものは素晴らしい。あるいは、あなたが素晴らしいからわたしはあなたをあがめる。あなたを愛しているから愛する」とバルトは言う。愛するものを「愛している」と表現することは、終わりのない同語反復(トートロジー)であり、そここそが、「恋愛の言語活動を終結せしめる」最終地点である。そこでは言葉は、その対象となる人物が「何故、素晴らしいのか」を「自分の「イメージ」の同一性を言いかえてゆくこと」によってさまざまな言葉でもって語るという運動が、「自分の欲望の的確さを不的確にしか表現」できないということによってもたらされた「言語活動の疲労が残した無益な痕跡」となった末の表現として立ち現われる。結局、わたし(たち)は、最終的には、ひとつの信用されるに値する言葉だけを、他のさまざまな言葉を尽くして確認しようとしている、ということだろうか。ある言葉はおおよそ見当がついているにもかかわらず、そこへ至るための大いなる迂回を、実践というかたちで辿ることになる。
 等号で結ばれた、難解だが簡潔にして美しい方程式が真理を表わすということがわたし(たち)を魅了するように、ひとつの簡潔にして純粋な言葉で言い表わされた感情は、わたし(たち)を魅了するだろう。たとえそれが、陳腐な使い古されたものであったとしても、そこに行き着くまでの人をして疲弊させるだけのプロセスをへた真理がある(はずである)。ゴダールが『アルファヴィル』のラストに感情をもたないナターシャ(アンナ・カリーナ)に「わたしは あなたを 愛しています」という台詞を言わせたように。
 恋愛の言語活動が、ただひとつのある言葉で言い表され、最終的にある定型に行き着くとするなら、それをとりまくあらゆる営みは、そこに至るためのいくつもの方法の模索であり、その同語反復のうちに表われる差異を聴き取ることにこそ意味がある。

 「旋律において楽譜的、作曲的に多くの人が覚えられ口ずさめるような歌はどう考えても‘組み合わせ的に’出尽くしている」(方法第三号)と、美術家の中ザワヒデキ、詩人の松井茂とともに、芸術における「方法的還元」を標榜するグループ「方法」(二〇〇四年一二月三一日にすでにその活動を終えている)のメンバーであった作曲家の三輪眞弘は言う。あらゆる言葉、音楽は言い尽くされ、すべてがクリシェたろうとしているなら、なぜそのような音楽が、わたし(たち)を感心、あるいは感動さえさせるのだろうか。
 「芸術歌曲の対極にあるともいえる、大勢の人によって歌われるための歌」である「校歌」(岐阜県立国際情報科学芸術アカデミー校歌)を作曲した際のことを三輪は先に引用した言葉に続けて次のように述べている。
 「この実験で確認できたことは、メタレベルの意味に対する理解とは別に、実際に(みんなで)歌うという行為そのものが持つ楽しさや快感が問答無用で存在するという事実である。それはまさにぼくがうたわれる歌を作りたいと思った必然に答えるものでありながら、メタレベルにおける表現という戦略を青白くか弱い知的な遊びとしてしまいかねない強力な経験でもあった」。
 たしかに、「校歌」とは、それ自体には決まった形式がある訳ではないが、しかし、「校歌」らしさ、のようなものが自ずと求められてしまう、それゆえ、ある意味で作曲家が自己規定を課せられてしまうテーマに違いない。だからこそ、三輪はそれを「実験」、と位置づけたのではないか。そして、そうした表現においても「楽しさや快感」(あるいは苦しみや苦悩でもあるかもしれないが)というものが存在する、ということが発見された、ということだろう。たとえば、「方法芸術を見極め、具現化させるという任務のもと」結成され、方法芸術を人力で再現しようとする集団、方法マシンの方法論には、どこかそれを実践に移し替える際に生じる「楽しさや快楽」が、意図してかしないでか、感じられる。
 その命名者であり、「方法」の終了後も「方法詩」の実践を続けている松井茂は、「二〇〇一年一月七日以来、決して止むことなく詩を書き続けている。ゆえに、私は詩人である」と自己を規定する。詩というものが形式において、それらを定義づけてきたのだとすれば、形式それ自体がもつ規則や構造を作ることによって、その条件を満たすことによってそれらは詩と呼ばれ得ることになる。
 また、中ザワヒデキは、二〇世紀のモダニズム芸術が辿ってきた「還元主義」の時代を、「論理の内部に同語反復的な無意味が宿ることが露呈した時間」と規定する。それを形式によってではなく、方法によって還元することによって「諸芸にまたがる単一原理」を具現化するのが「方法芸術」である。
 昨年発表された『中ザワヒデキ音楽作品集』(ナヤ・コレクティヴ プロデュースは前「方法」同人の足立智美による)は、その副題に表わされているとおり、中ザワヒデキの一九九七年以降の方法音楽と一九九六年以前に制作されたバカCGアニメ音響の集大成となっている。
 中ザワの「方法」が、第一次大戦後、冷戦前後に続く「三番目の還元主義」を標榜したものであるのは興味深い。それは、前衛が終焉を迎え、あらゆる還元主義がその無意味を露呈し、新たな表現主義や主題の復古といった動向に晒されたあとの、いわば遅れてきた前衛としての振る舞いと映るかもしれない。しかし、ここに聴かれる音楽のいかにも芸術音楽然とした表題からも窺われるのは、中ザワが、むしろそうした同語反復による無意味を超克するものとして二一世紀に向けて「方法」という方法を打ち出したのではないか、ということである。ゆえにここにはすでに「方法」を超えた方法が宿っている。

参考文献
ロラン・バルト『テクストの快楽』沢崎浩平訳、みすず書房、一九七七年
ロラン・バルト『恋愛のディスクール・断章』三好郁朗訳、みすず書房、一九八〇年
方法 ホームページ http://www.aloalo.co.jp/nakazawa/method/index_j.html

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