SHORT REVIEWS 2002-2010

*タワーレコードのフリーマガジン『intoxicate』が『musée』だったころの2002年から2010年まで、短いレヴューを編集部から依頼のあるものほぼ選り好みせず(もちろん当方の指向性にある程度あわせての依頼ではあるけれど)受けて書いたもの。最近はこういう感じのはほとんど書いてない。105編。

1
新たな創造性に向けて——川俣正+ニコラス・ペーリー+熊倉敬聡・編『セルフ・エデュケーション時代』
 現代は自分と世界とのあいだに接点を見い出すことがますます困難になってきている時代だ。ゆえに内省的で、ごく個人的な主題を持った表現が「アート」の領域でも注目されていた。本書では、そのような時代において、積極的に外部とコミュニケートすることから自分自身で何かを学んでいくことで、ある活路を見いだそうとする試みとして「セルフ・エデュケーション」の実践の数々が紹介されている。その方法として川俣正は「アートレス」「脱芸術」といった「新しい手法」を用いて「大胆に応答」する。たとえば、野村誠の老人ホームでの老人達との共同作曲など、それが「アート」として認識されているかどうかは重要ではないところで成立するコラボレーション、プロセスや試行錯誤といった体験、それ自体が外部とのコミュニケーションを切り開く可能性をもつ。本書は、インタラクション(相互関係性)の本来的な意味を気づかせ、新たな創造性に向けての可能性を押し拡げるものとしても「挑発的で挑戦的な本」である。


2
ダムタイプ——新作《Voyage》
 《Voyage》は、本年四月にトゥールーズ国立劇場において初演された、ダムタイプの新作パフォーマンスである。前作《memorandum》から二年あまりの期間をへて制作された本作のタイトルに示された「ヴォヤージュ」とは、「わたしたちはどこから来てどこへ行くのか」という「消費し尽くされたかのような」問いを、あらためて問い直すための、「航海」を意味するものなのだろうか。いくつかの断章が連続性を阻まれながら積み重ねられていく、しかし、そこには特別な物語が生成されるわけではなく、それぞれの細部によって芒洋とした輪郭のようなものが描き出されるだけだ。だから、ここであまり具体的に作品を説明してしまっても、それは意味をなさないだろう。もちろん、この「航海」とは、彼ら自身のものであるとともに、わたしたちのものでもあるに違いない。そしていま、わたしたちは、その芒洋とした未知の海に乗り出す。


3
その出来事の地平——『偶然の振れ幅』
 二〇〇一年の夏に川崎市市民ミュージアムで開催された同名展覧会のドキュメントが、DVD-ROM+本という体裁で発売された。本展では「出来事とその記述」「経験における偶然性」といったテーマに沿って作品が制作されており、音や光、さらには環境としての会場や観客などが作品を構成する重要な要素となっている。このDVD-ROMには展覧会の展示作品が全てムービーで記録されているほか、出品作家によるテクスト、さらには一部インタラクティヴに展示作品のシミュレーションを行なうことができるなど、展覧会を見逃してしまった人も作品を追体験することが可能となっている。また、「場」の記録としてのフィールド・レコーディングにおける記録者の存在や、社会的環境についてのブランドン・ラベルのテクストや、暦における不確定性をめぐるフレームについての深山径世のテクストなどを収録した書籍は、この世界をかたちづくる出来事を成り立たせているさまざまな「偶然」にいま一度思いを巡らせるための書物である。


4
大友良英——もうひとつの『blue』
 どこまでもひろがっていきそうな青い空とか、ゆっくりと時間が過ぎていくような放課後の教室とか。そんな情景が目に浮かんでくるような、切なくなるような、でもなんだか希望が湧いてくるような、とてもセンシティヴでイマジナティヴな音楽。それは、大友良英が手掛けた、魚喃キリコ原作の人気コミックを安藤尋監督が映画化した『blue』のサウンドトラック。大友はこれまでにも、映画音楽の世界で高い評価を受けてきたが、最近ではアヴァンギャルドな音楽家としてのイメージが強かっただけに、ここに展開されるような、リリカルな世界には少なからず驚かされた。正直に言うと私はまだ原作も読んでいないし、映画も見ていない。けれども、この音楽が流れ出したとたん、時計の針が二十年くらい逆戻りしてしまったかのように、目の前に自分のことのようにストーリーが浮かんでくるように感じた。気がつくと過ぎ去ってしまっているもの。だからとても愛おしいもの。儚い夢のような時間。そんな「もうひとつの『blue』」がここにある。


5
恩田晃——記憶の断層
 中古で手に入れたカセット・レコーダーによって磁気テープに記録されたさまざまなサウンドスケープ。恩田は、けっしてドキュメントのようにではなく、街中で、旅先で、気に入った音を耳にしては、憑かれたようにカセット・レコーダーの録音ボタンを押しつづけた。まるで自動筆記のように録音されてテープに堆積した、異なる時間と異なる場所は、音による記憶の地層を形づくる。繰り返し使用され、幾度となく上書きされたテープに現われる予期せぬ記憶の断層。ヒス・ノイズの霞のなかに埋もれそうな音による記憶は、巻き戻され、繰り返され、逆転させられ、伸縮させられ、といった操作によって演奏される。まるで古代の彫刻が永い年月のなかでだんだんと石に帰っていくかのように、音、そしてその記憶は、恩田個人の記憶を離れて、いつかの喧噪へと戻っていく。あらゆる意味から解き放たれた、生の素材としてもういちど立ち現れる、「かつてあったもの」——音による記憶は、リスナーそれぞれの想像力を自由にさせながら、「ある音楽的な状態」として浮かび上がる。


6
『FADER vol.8』——終わり、そして始まり
 「他の何にも似ていない音楽雑誌」を模索してきたFADERが、このたび一年半ぶりに発刊された。一年半と聞くと、随分長い間待たされたものだと思ってしまうが、あまりそういった印象がないのは、HEADZのさまざまな活動が継続して届けられていたからだろう。実際に、コンサートの企画や種々のイヴェント、さらにはCDのリリースなどとその範囲を拡げながらの精力的かつ意欲的な活動は既にみなさんご存じのことと思う。それにしても、このアップ・トゥ・デイトな情報の鮮度の維持には驚かされる。(一年以上前の原稿を改稿しただけの自分が恥ずかしい…)また、あいかわらずのディスク・レヴューの情報量も並ではない。こんな音盤のレヴューが日本語で読めるのはFADERくらいのもので、まさしく他に例を見ない。それは、インタヴューを基本にした内容も同様だ。ところで、FADERはこの号で「第一期終刊」だそうである。ただし、続く新創刊第一号はそれほど待たずに発行されるとのこと。僕らはただワクワクして待とう。


7
Sachiko M『BARさちこ』
 この作品には六十分四秒という収録時間のなかで、楽曲上の変化は二度しか訪れない。最初のパートでは、ひとつのサイン波が三十分ただ鳴りつづけ、その後もうひとつのサイン波が最初のサイン波に重なり二十五分間続き、そのあとの五分間はコーダとして最初の状態にもどる、という二度きりである。したがって、この作品は、「二本のサイン波だけで」演奏され、ひとつの音にもうひとつの音が重なるということが、ある時間により分節化されることによってのみ「作曲」されている。それは、たとえば三十分目にもうひとつの音をスタートさせる、そして、その二十五分後にそれをストップするという、いってしまえばそれだけの作為によって成立しているということではないか?
 ソロとしては三作目のフル・アルバムにあたる本作は、彼女による初の長時間録音作品だという。これまで短い楽曲が中心だったということは、使用する機材や音素材を極限まで制限した演奏スタイルによるものだろう。しかし、本作ではその表現上の制限を極限まで抑制することで最大限の効果を生み出している。もちろん、それは単なる演奏時間の拡張というレヴェルにとどまらない。この作品をヘッドフォンで聞いてみれば、そこには変化し続ける微細なテクスチャーが、非常に豊かな表情をもって現われてくるのを聞くことができる。それはまさしく、ジャケットに描かれた線描そのままに、めくるめく音のモアレが、あなたの感覚を拡張することだろう。


8
RAZ MESINAI『CYBORG ACOUSTICS』
 エルサレム生まれの音楽家ラズ・メシナイ。その音楽的話法は、とても豊かなイマジネーションを与えてくれる。本作は、旧ソ連のグラグ(強制労働収容所)に収監された行方不明の捕虜のための組織、アーク・プロジェクトの委嘱により作曲され、マーク・フェルドマン、マーク・ドレッサーら凄腕の音楽家が演奏した《GHOSTS OF THE GUL-AG》ほか一曲を収めたもの。《GHOSTS〜》の各楽器のあいだをパラパラと小石がちらばっていく様子はまるで幽霊が徘徊しているかのよう。密閉型ヘッドフォンか完全に静かな部屋で聴くこと。


9
HACO『Stereo Bugscope 00』
 コンピュータの電源を入れる、カリカリと音をたてて起動するHD。その時、コンピュータの内側ではなにが起こっているのだろう? ここに聴かれる音は、パソコンや無線ルータ、携帯電話やMDプレーヤー、DATなどの電子機器の発する動作音や微弱信号を、ふたつの誘導性マイクロフォンを使って検出し、それをそのまま記録したものである。しかし、なんと豊穣な音響世界が繰り広げられていることか。まるでミニマル電子音響さながらのグリッチがめくるめく、これらの音たちは、現代の日常生活環境における「サイレンス」の不可能を教えてくれる。


10
THOMAS KOENER『NUUK』
 二〇〇四年のアルス・エレクトロニカのデジタル音楽部門でグランプリを受賞したトーマス・ケナーによるCDとDVDの二枚組オーディオ・ヴィジュアル作品。受賞作と同一シリーズの別作品である本作は、雪に覆われた街頭とロングでとらえた海岸のショットが、長時間のトランジションで移行する、あるいは同一アングルで昼から夜へ変化する、というシークエンスがただ続く。『大寒』という作品もあるケナーだが、その凍てつくような静謐さを湛えた凛とした世界が、微細なテクスチャーを持つ吹雪のようなクラスターと相まって、ただひたすら寒い。


11
デヴィッド・シルヴィアン『オンリー・ドーター』
 まず「声」なのだ。『ブレミッシュ』は、デレク・ベイリーやフェネスが参加したことでサウンド面が話題にされることが多かった作品だった。しかし、当たり前のように、あらためてこの作品は「声」のアルバムなのだと思う。サウンドは点描的にヴォーカルと絡み合い、実際にはほとんどいわゆる伴奏の役目は果たしていない。リミキサーの面々は、そのことを重々承知のように非常に適切な音をその「声」に対して付加していく。しかし、この作品を聴いていると、音がないということが静けさなのではない、ということを知らされる。


12
秋山徹次『獄門逝きの十三号線、雷舞院刀狂』
 良いギターのサウンドというのはそれだけで延々と聴いていたい気分にさせられる。ギターというのはやはり音色なんだと思う。それは、倍音の震え、ちょっとしたピッチのずれ、ボディや弦の共鳴、といった微視的な要素を含めたもので、自分が何かを感じるギターの演奏にはいつでもある種の恍惚感のようなものがある。本作は前半アコースティック、後半エレクトリックで演奏されたギターソロによるライヴ録音。特に後者ではブギーのリズムがその構造を拡張され、コードひとつでキメることができる。さて、ハイウェイでLSDを一服?


13
近藤等則『風狂』
 「FUKYO」と題されたソロ作品集。『不況』ではなく『風狂』である。異次元から音を響かせる「ふいご」吹きである近藤さんは、その風によって聴く者を狂わせる。エリック・ドルフィは「音楽は終わってしまえば空中に消え去ってしまう」と言った。それを阻止するためには同じディメンションから音を発していては無理なのだ。ゆえに空間は、エレクトリック・トランペットにより身体的なレベルから電子的なレベルを経由し、ゆがめられる。どこか初期ソロ作品とも共鳴するように聴こえるのは気のせいか。傑作。


14
Synapse『Raw』
 HACO、モリイクエ、恩田晃とゲスト内橋和久の三人+一人からなるユニット「シナプス」は、まさしく神経細胞が触手をのばすがごとく、それぞれの個性を有機的に連結する。しかし、ここにできあがった音楽は、ひとつの集合体としての音を指向していないようにも聴こえる。そこでは各人はただ自分の個性を提出し、それぞれが四分の一になることを拒むかのような、アイデンティファイされた音が独立して聴こえてくるからだ。にもかかわらず、全体は緊張感のある総合された音楽に聴こえるのが不思議なのだ。


15
ブラジル『希望』
 この絶妙な「間」、タイミングは、けっしてズレではない。すごく緩いようでいて、じつに厳格。希望なさそうでいて、じつはとても幸せ。それは曲の中で音が自由に構成されているように聞こえるから。蜃気楼のなかにふらふらと立ち上っていくのが見えるような、それぞれの音と声とがくっついたり離れたりしながら、響きあい漂っているような音楽。なにかの情景を喚起するような、しかし具体的に像を結ばない歌。こんな音楽をうまく言葉にするのは難しい。それを二百四十字で説明するのは正直、野暮というものだ。


16
teiji furuhashi + toru yamanaka『works. vol.01』
ダムタイプの故古橋悌二と山中透が、一九八五年から八六年にかけて制作した、ダムタイプの前身であるダムタイプシアター名義で発表したカセットブック『庭園の黄昏』、『睡眠の計画』の音源に、古橋個人によるヴィデオ作品のサウンドトラック、さらには二人が結成していたロック・バンドのデモなどを集めた、録音期間にして八二年から八六年までの貴重なアーカイヴである。ここに聴かれる音楽のヴァリエーションの豊富さは、シリアスさとどこかコミカルな要素のないまぜになった、当時の彼らのパフォーマンスと結びついたものだろう(古橋のヴィデオ作品のなかには、電話の発信音のような音のみを使った、池田亮司加入後のダムタイプの音響へと通じていくような作品もある)。山中はこれらの音楽を「ヴィジュアル表現と密接に繋がって」いるものとしながらも、しかし、その音楽自体が新たなイメージを喚起するものであることを想定しているように、「記録」を「追憶」にとどめないという意志がある。


17
PACJAP『D-SYSTEM v.1.0』
二〇〇〇年から〇三年まで、フランスと日本の音楽家、メディア・アーティストたちが、マルセイユ、東京、大阪などを往復し、コンピュータ・ネットワークを介した音楽,言語、映像などを使用した実験的ワークショップを行なった、その成果としてのライヴ録音。この「D-SYSTEM」と名づけられたプログラムは、二〇〇〇年にICCでそのプロトタイプが制作され、以降この協同作業のプラットフォームとなったもの。イトケン、きょうこ、小島剛、山口優、横川理彦が日本から参加。両国の国歌をモチーフとした冒頭から、脱構築された音楽が展開される。


18
ロジャー・イーノ・ウィズ・ケイト・セント・ジョン『ザ・ファミリアー』
 一九九三年のアルバムの再発。ロジャー・イーノは、周知のようにイーノの実弟で、ミュージック・セラピストとして働いていた経験をもつ。ここにはイーノのアンビエントのようなアトモスフィアのような不定形な音楽とは違い、より構築的な音楽が展開されているが、やはり穏やかで鎮静感のある作風と、ビル・ネルソンによるものだろう、全体的な空気感を醸し出すトリートメントは、そうした経験に基づくものだろう。ケイト・セント・ジョンの透明感溢れるヴォーカルは、よりトラッド・ミュージックに根ざしたものである。


19
fishing with john『鈍行ブックモービル』
 三本のアコースティック・ギターを中心としたアンサンブルによるフレーズの反復に、淡い調子でエコーを伴ったサックスやヴィブラフォン、ピアニカ、さらに具体音などさまざまな音が織り重なる。この情景的で透明感のあるサウンドは非常にナイーブなものだが、しかし、けして無駄に叙情的になることはない。つねにおなじようにそこにあるのに、流れを止めることはない、川のせせらぎのような音楽。こんな音楽のような日があればいいと願う。ぼくはただ釣り糸を垂れて、そして止まったかのような時間をただすごす。


20
ブライアン・イーノ『14 Video Paintings』
 テレビモニターがもつ横長の画面比率は無自覚に受け入れられているが、イーノは、モニターを縦に置くことによって、あらかじめ規定されている横長の劇場的な空間が示唆する運動性、物語性を切り詰め、さらには、ヴィデオのマイナスの性質を受け入れることで、独自のテクスチャーをもった、静的で絵画的な映像作品をつくりだした。そこでは、縦長の画面の中にマンハッタンや裸婦が、その画像の荒さや滲みと走査線の点描によって、まるで印象派の絵画のように、うつろいゆく時間と変移する光線とが描き出されている。


21
『音の始原を求めて第四集 佐藤茂の仕事』
 日本の電子音楽の黎明期を支えたNHK電子音楽スタジオのドキュメントである本シリーズも四枚目を数える。今回は、一九六〇年代に入ってから、三保敬太郎、高橋悠治、一柳慧、小杉武久といった作曲家が参画し、多様化していく作曲家のアイデアによる作品を取りあげている。こうした電子音楽作品は、その再現性の困難さから、記録された作品自体の保存が唯一の再現方法となる。また、これらの試みが、一過性の実験という枠を超えて、その意義の再確認がもとめられている現在、こうしたアーカイヴは非常に貴重である。


22
MONO & world’s end girlfriend『palmless prayer/mass murder refrain』
 この七十四分にわたるサウンド・トリップは、レクイエム、あるいはひとつの物語のようでもある。作品は五つのパートからなり、タイトルからは大量殺戮の繰り返しやそれに対する祈りのようなものが示唆されはするが、それがある具体的な物語へと収斂することはない。しかし、荘厳なストリングスに導かれて、出口がないかのような漆黒の闇をさまようような導入から、徐々に眩いばかりの光芒に包まれ、希望を暗示するかのようなクライマックスへと向かう、そこには大きなカタルシスが待ち受けていることだろう。


23
marina rosenfeld『joy of fear』
 softlmusicからの久々のリリースは、ニューヨークのターンテーブリストによる作品。ピアノ、ターンテーブル、チェロ、エレクトロニクスなど、ほとんどの楽器を自身で演奏し、そしてコンピュータによるプロセッシングが施された楽曲は、残響を生かした生楽器のあいだを電子音が飛び交うかのような浮遊感を特徴とする。ときに沈黙を含んだ、隙間の多い、微かで、おぼろげな音楽であるが、それゆえに非常に集中力を要求されるものでもある。ひとつひとつの音が現われ、そして響きあいながら消えていく。


24
Town & Country『up above』
 インクレディブル・ストリング・バンドと聴きまごうかのごとき、どこかレイドバックしたサイケデリックなトーンで幕を開けるタウン&カントリーの新作は、彼らの新境地を示す意欲作である。反復と持続によって緩やかに展開する楽曲には、ヴァイオリンやハーモニウム、タブラ、カリンバ、さらには前回の日本ツアーで購入したという尺八までが演奏されている。またこの作品には、トニー・コンラッドとのツアーで得られた彼からの影響や、さらにはミルトン・エリクソン、ポール・ボウルズといったキーが隠されている。


25
Diane Labrosse, Martin Tetreault, Haco 『Lunch in Nishinomiya』
 「西宮で昼食を」と題されたこのCD。曲のタイトルからは、三人の音楽家が、レシピを選び、料理して、それを食べ、食後の散歩をして、残ったものは冷蔵庫にしまわれて、また食べられるのを待つ、そんな光景が浮かんでくる。オシレーター、コンタクトマイク、ターンテーブル、サンプラーによって演奏される、微小な電子音や擦過音を用いて作られた、非常に繊細なテクスチャーを持った作品だ。これはたとえば「ナイフとフォークの音と混ざりあう」のではなく、いわば「ナイフとフォークの音」そのものを聴く作品である。


26
James Chance & Terminal City『Get Down and Dirty』
 二〇〇五年七月の来日公演では、多くの人々が「生きた伝説」としてのジェームズ・チャンスを葬り去ったにちがいない。スタジオ録音としてはなんと二十年ぶり(!)になるという本作は、ライヴでも証明されたその健在ぶりと、どこか場末のいかがわしい香りのする危険な音楽を堪能するに十分だ。ここで繰り広げられる音楽はコントーションズとはやや趣を異にしたものだが、しかし、「ジャズと初期のリズム&ブルースを俺なりに歪めてみた」と語るチャンスはいまだ、「コントート・ユアセルフ」の態度を貫いているのだ、と実感。


27
飛頭『crumbling steeple』
 ジャズ、ダブ、エレクトロニカ、ヒップホップ、などの多様な要素がエコーの薄靄の向こうで溶けあったかのようなサウンドはひたすら心地よい。まるで地上はるか高くから見た極彩色のネオンの点描画を眺めるかのような浮遊感がある。感情表現による演奏者同士のインタープレイというよりは、個々の楽器とその演奏者が、色を置くように音のレイヤーを重ね、それを塗り込める音響的操作によって生まれるアブストラクトかつ情景的な音楽。いつでもその気になればあなたを空中散歩に連れ出してくれることだろう。


28
テュ・ム『フラジャイル・タッチ・オブ・ザ・コインシデンス』
 マルセル・デュシャンが絵画を放棄した後、一枚だけ制作した絵画と同じ名前を持つイタリアの音響デュオ。随所にフィールド・レコーディングと思しき音も聴き取れるが、基本的にアコースティックおよびエレクトリック・ギターとコンピュータによる、それらをプロセッシングしたサウンドで全編が構成されている。ギターの断片的な響きのループにドローンが幾重にも織り重なり、どこか郷愁を誘う映像的なサウンドを浮かび上がらせ、曲名のとおり、光を反射する「煌めく川の水」のような脆くも美しいサウンドスケープ。


29
『トム・ダウド/いとしのレイラをミックスした男』
 この映画は、録音技術に革新をもたらしたレコーディング・エンジニアおよび優れた音楽プロデューサーのドキュメンタリーであることを超えて、現代の録音技術がどのように進歩してきたのかをたどるドキュメントでもある。それはダウドが、原爆開発の「マンハッタン計画」に携わり、ビキニ環礁での核実験で放射線量測定を行なった経歴をもつことと、軍事技術と音響技術がともに発展したという歴史を振り返ると興味深い。が、やはり、最後に当時を回想しながら「レイラ」をミックスしてみせるシーンには涙を禁じえない。


30
ルー・リード『ロックンロール・ハート』
 「ロックとは崖っぷちに立つことである」と言ったのはエリオット・マーフィーだが、ルー・リードの歌を聴くと、地獄の扉をノックしてきた者のもつどこか醒めた「凄み」のようなものが感じられる。このドキュメンタリーは、さまざまなミュージシャンらの証言と本人の回想などによって、過去と現在を行き来しながら、「闇の帝王」から「ロックの詩人」へと至るルー・リード像を描きだし、「心の奥底にはロックンロール・ハートがある」と歌ったリードの、今も昔も変わることのない「凄み」を確認することができる。


31
デレク・ベイリー『トゥ・プレイ〜ザ・ブレミッシュ・セッションズ』
 デイヴィッド・シルヴィアンのアルバム『ブレミッシュ』に提供するために演奏されたギター・ソロ音源を収録したこのCDは、デイヴィッド・トゥープをして「ベイリーの演奏のなかでも素晴らしいもののひとつ」と言わしめた。彼はこの音源を聴いてリリースすることを進言し、さらに、「演奏すること」という秀逸なタイトルをこの「演奏」に与えた。ベイリーの作品でもある意味聴きやすいものになっている、シルヴィアン不在で録音されたこれらの音源は、いまだその「歌」を待っている「演奏」であるとも言えるだろう。


32
『ジム・ジャームッシュ アーリー・コレクション DVD-BOX』
 ジム・ジャームッシュがどのような監督かを知りたければ、この初期三作品を収めたボックス・セットを観ればよい。ここには以降さまざまなスタイルで展開されるジャームッシュのエッセンスのようなものが、たしかに凝縮されているから。この俗に言われる初期三部作においてすでに確立されていた、風変わりな登場人物によって描きだされる、淡々とした「大いなる結末」を欠いた世界。しかし、それは、『パーマネント・ヴァケーション』において主人公パーカーが語る「点と点を結んでできあがる絵」のようなものだ。


33
『TVパーティー』
 一九八〇年代初頭、あらゆる芸術文化の爛熟期を迎えたニューヨークで興ったケーブルテレビは、画期的かつ可能性を秘めたメディアだった。この、グレン・オブライエン司会による異色のプログラムは、バスキア、ブロンディ、クラウス・ノミ、ロバート・フリップなど、当時のNYアンダーグラウンド・シーンの顔が一堂に会し、毎回アナーキーなパーティーを繰り広げるというもの。知名度は低いが重要な音楽家ウォルター・ステディングがフィーチャーされているのが貴重。とにかく今こんなものが見られることに感謝しよう。


34
『フリクション ザ・ブック』
 フリクションの存在がそれ以前の日本のロックとの間につくりだした断絶は、まさしく軋轢としてその音に反響しつづけている。ゆえに多くのバンドがそこを通過しなければならない。この本では、日本のパンク/ニュー・ウェーヴ黎明期から四半世紀以上にわたって断続的に継続されているその活動の詳細が、メンバーや当事者たちの証言によって記録されている。しかも貴重なライヴ映像をまとめたDVDまで付属した、このような書物がバンド全盛期から二十五年以上をへてついに発行された、ということを喜びたい。


35
『タウン&カントリー』
 アコースティック楽器のみを使用したアンサンブルによって、フォークやカントリー、ジャズの要素とミニマルな反復とドローンなどの手法を基調にした演奏を行ない、ポスト・ロック以降の展開を示唆してきたタウン&カントリー。十年におよぶ活動において、彼らは作品ごとにそのスタイルを変化させ、さまざまな可能性への試行を続けている。一九九八年に発表された、彼らの原点ともいえるファースト・アルバムには、すでに一貫した「変わっていく同じもの」を聴くことができる。リマスター&ボーナス・トラック収録。


36
組原正『hyoi』
 日本のパンク/NWの黎明期から、グンジョーガ・クレヨンを率いてその独特のギター・スタイルとサウンドによって異質な存在感を放っていた組原正。バンドでのフレッド・フリスとの競演、ソロでの坂本龍一のアルバムへの参加といった形でも、存分に発揮されたその異才を、このソロが発表された今、「早すぎた」などと簡単には言うまい。なにしろグンジョーガ・クレヨンは四半世紀のあいだ現役なのだ。ここにもあの当時の空気が充満しているが、それは時代によって風化しない、今こそ聴かれるべき音である。


37
マニュエル・ゲッチング『ライブ・アット・マウント・フジ』
 反復するシーケンシャルなビートと永遠に飛翔を続けるかのような官能的で陶酔感を伴ったエレクトリック・ギター。この、まさしく彼によって「発明された」新しいギターのスタイルは、「テクノ」やクラブ・シーンからの新たなパースペクティヴによって時代を超えて受け止められた。この、二〇〇六年富士山麓で開催された野外フェスティヴァル「PRISM」における実況録音盤には、場所による作用によるのか、『New Age of Earth』を地でいくかのような高揚感、恍惚感あふれる演奏が収録時間限界まで記録されている。


38
メビウス&ノイマイヤー『ZERO SET 2』
 一九八〇年前後のジャーマン・ロックにおけるアフロやエスノとの融合が多く試みられていた時期に発表された、メビウス・プランク・ノイマイヤーによる『ZERO SET』(一九八二)は、九〇年代中頃にいわゆる「テクノ」によってその意義を逆照射されることになった名盤であり、これはその続編となる。もちろんここには故コニー・プランクの不在というものが大きく横たわっているのだが、ノイマイヤーのトライバルなリズムとメビウスのプリミティヴなシンセサイザーは、より複雑で繊細なものとなり、スケール感を増している。


39
フェネスサカモト『サンドル』
 ラップトップ・ミュージックにおける、グリッチ以降の展開として、よりエモーショナルで洗練された表現を導いたクリスチャン・フェネスと坂本龍一の共演による二作目。透明感のある残響を伴ったピアノ、有機的な動きを持った電子音、変調されたギターといった要素が音による想像風景を形成する楽曲は、イーノがアンビエント以降到達した境地などを想起させる。フェネスの抽象的でアモルフな電子音によるアトモスフィアの上に坂本がピアノを即興で点描的に重ねて完成された。いわゆるエレクトロニカを超えた一枚。


40
ホース『ホース』
 ある音楽が「変わっている」という印象を与えること。たとえば、それは作曲や録音のギミック、あるいは演奏の優劣によって醸し出されるのではない。たとえそれがぽっかり抜けた空を見ているような、放課後の音楽室で録音されたかのような、なんとも朗らかな気持ちのよい音楽だとしても。宇波拓による復活ホースによる作品集には、そんな音楽の不思議さが不思議のまま放置されているようだ。素のままなのか、狙っているのか……。もちろん、そんな勘ぐりなどこの音楽を聴くためにはまったく必要ないけれど。


41
アニア・ロックウッド『アーリー・ワークス 一九六七—一九八二』
 ゴットフリート・ミカエル・ケーニッヒに師事し、アンリ・ショパン、ポーリン・オリヴェロスといった音響詩人、音楽家と交流のある前衛音楽家/パフォーマーの一九六八年から七〇年の作品集。ひとつひとつ鳴らされるガラス瓶の振動、表面の形状の違うガラス板や細いガラス管のぶつかりあう音が耳を鋭敏にする。消えていく音の細部を耳で追っていくとまた次の音が誘発されるように響く代表作『グラス・ワークス』。その他、当時の過激なパフォーマンス『ピアノ移植』の記録写真も同封。エム・レコードの快挙。


42
コリーン『静かな波〜レゾンド・シランシウーズ』
 二〇〇六年十月の来日公演でもアコースティックな佇まいの演奏によってその変化の兆しを聴かせたコリーンの新作は、アコースティック楽器のみを使用した古楽的要素を強めたものとなった。ループによらないドローンとその深い響きは、エレクトロニクス、デジタル楽器を使用した前二作とは異なる情感を与える。発された音が残響となって沈黙に消え入る。無音の部分ではなく消えゆく間としての沈黙が音楽の重要な構成要素となっている。また、過剰にスピリチュアルになることが回避され、清澄な印象を与えている。


43
『ドント・ルック・バック』
 一九六五年、ボブ・ディラン二十三才。当時、「時代は変わる」と歌ったプロテスト・シンガーから脱却し、その支持者たちにさえも「時代は変わる」ということを自身の変化によって体現していたディランの英国ツアーを追ったドキュメンタリー。時代の扇動者と見なされながら、そんなものには飽き飽きしたとでもいうように、時代に屹立するカリスマとしてのディランの姿が記録されている。どこか醒めた態度はむしろ自信と才能に溢れたディランの姿を浮かびあがらせ、すべてはこの若き表現者の振舞いによって語られている。


44
岡崎乾二郎『芸術の設計—見る/作ることのアプリケーション』
 コンピュータの普及によって、多くの人がキーボードやマウスなどの同一のインターフェイスによって異なるジャンルの創作を行なうという状況が生まれた。本書はそれを、建築、音楽、ダンス、美術といった「芸術諸ジャンルの表現形式を、それぞれの技術を通して見直してみる」ことで、それぞれの制作過程における「共通の論理」を導きだそうとする。それは、技術や技法に誘発、誘導されてきた文化を、コンピュータによって再現することの可能性と不可能性を抽出し、表現体系を模索する、示唆に富むものである。


45
tenniscoats『totemo aimasho』
 オーストラリアの音響系レーベルROOM40からリリースされた新作。これまでの作品よりもインストゥルメンタルの比重が増しているのはそのためだろうか。各楽器のリヴァーブや細部にわたる音処理、フィールド・レコーディングによる録音素材の使用にレーベル主催者であり、プロデューサーであるローレンス・イングリッシュの手腕が発揮されているようだ。どこか、凛々しささえ感じさせるようになった歌、そしてギター、キーボード、そして細かな質感を付与するエレクトロニクス。言葉を超えた意志が胸を打つ。


46
soundworm『instincts and manners of soundworm』
 この「なつかしい」感じ、「楽しい」感じ、それでいて「不可解な」感じ……。最近ではついぞお耳にかかれなくなって久しい、不思議なぬくもりを感じる、聴いていてわくわくしてしまう作品である。なぜかこのような音には惹かれてしまう、としか言いようがない、めくるめく音の連なり。このCDを聴くと、これこそが「音響派」と呼ばれうるものであり、その名称を生み出したのだということが実感できる。で、これが七枚もでるのだから、全部聴き終わったあなたの耳にはこの音虫が住みついてしまうだろう。


47
Tape & minamo『birds of a feather』
 ラップトップ・ミュージックの台頭は、それに伴う均質化を同時進行的に随伴させることにもなった。そうした状況は、エレクトロニカ・コーナーにいくら聴いても追いつかないほどの新譜が発売されているということにも反映されている。それがあるスタイルに収斂されていけばこそ、それは「定型」となっていくことを避けられない。minamoにとってこの作品は、そうした問題意識によって始められた共同作業でもあるという。ある集団が、異なる互いの作法の中に入っていくことによる異化作用。単なる似た者同士ではない。


48
カヒミ・カリィ『SPECIALOTHERS』
 魅力を感じるヴォーカリストというものは、あたり前のようだが、何よりもその声の存在感において際立っているものである。これまで彼女が「客演」してきた楽曲、CM、ゲーム音楽などをまとめたこのCDは、それぞれの音楽家やあるいはプロデューサーにとってのある役割を担っているという意味で、彼女の主体となった作品とは性質を異にするものである。だからこそ彼女のキャラクターが際立つことにもなっているのだが、とはいえ、番外編的に聴こえるわけではないところは、やはり声の存在感のなせる技だろう。


49
渚十吾『グリーン・ボックス』
 はたして、このタイトルはマルセル・デュシャンと関係があるのか、ということはこの際どうでもよい(なんの関係もないかもしれない)。この小箱に収められた十四曲から聴こえてくる「あの感覚」。それは、「おもちゃ箱をひっくり返した」ような、音の魅力がそこここにちりばめられた夢のような音楽。その魅力に取り憑かれたことのある人なら、(ひそかに)『ストロベリー・ディクショナリー』が愛読書だった、なんてことを告白してしまいたくなるだろう。もちろん、これからそんな感覚を味わいたいという人にも。


50
WILLITS+SAKAMOTO『OCEAN FIRE』
 これまでにカールステン・ニコライ、フェネスといったアーティストとのコラボレーションを続けてきた坂本だが、今作は前二者における方法論とはやや異なり、ふたりが即興的に演奏したものをウィリッツが仕上げて完成させたもの。ドローンを基調にした、大きなうねりの中に微細なテクスチャーが幾重にも織り込まれた楽曲からは、アルバムタイトルや曲名が示すように、「海」のイメージが喚起される。それは人間の存在を凌駕するようなもののイメージとして表われ、これまでにない印象派的な作品と言えるだろう。


51
The Red Krayola With Art & Language『Trapped by Liars』
 本作で、メイヨ・トンプソンは歌っていない。ドラッグ・シティ時代のクレイオラは、メンバーこそ不特定の集合体であったが、彼を中心にしたバンドとして成立していたように見える。しかしながら、70年代後半からのアート&ランゲージとの共闘においては、これまでもメイヨ・トンプソンはあくまでも構成員のひとり、というスタンスであったことを思えば、けして脱ヴォーカルも不思議なことではない。アコースティックなアンサンブル、ジム・オルークによる生々しいミックスは一切の無駄がない。またもや傑作。


52
3/3 『3/3』
 フリクションの前身である、レック、チコ・ヒゲ、ヒゴ・ヒロシの3人による、3/3が一九七五年にたった十枚だけ制作した幻のアルバムが奇跡の復刻。ジミヘンやストゥージズを彷彿とさせる楽曲には、驚くべきことにフリクションの特徴だった、記号的、機械的といった、いわば脱ロック的な志向がすでに確立されている。二枚組仕様となって今回発表される当時のライヴでは、のちのフリクションの楽曲が演奏されており、フリクションがNO NEW YORK一派との邂逅によって誕生した、という認識を覆す。


53
F.L.Y.『F.L.Y.』
 山田民族のソロ・プロジェクトからバンド編成になったF.L.Y.の新作。前作のエンディングの圧倒的な高揚感が忘れられず、待つこと3年、唯一無二のスペース・アヴァン・ポップが帰ってきたことを喜びたい。今作では、独特の電気的、人工的な質感に、アコースティック楽器も加味され、彩りを増している。どこかギクシャクしているのに極めてポップなそれは、まさに「奇妙なダンス」。ちょっとしたカートゥーン・アニメを音で見ているかのような楽しい音楽。蛍光色のネオンの鬼火に照らされた人工美の世界。


54
テニスコーツ『タンタン・テラピー』
 前作から、早くも届けられたテニスコーツの新作は、自他ともに認める傑作となった。スウェーデンのエレクトロ・アコースティック・バンド、テープが全面的にバックアップしている。テニスコーツの音楽はいつもどこか物悲しい。それは、どこからともなくやって来て、どこへともなく去って行ってしまうかのように儚げで、だからこそ美しく響く。ピアノ、管楽器、ギターが伝えるどこか寒々しい情景に、まるで歌は震えているかのよう。「嗚咽と歓喜の名乗り歌」をはじめ、この美しさをとにかく聴いてもらいたい。


55
恒松正敏グループ『欲望のオブジェ』
 あえて「フリクションの」という必要はないだろう。EDPS〜ソロをへて、また画家としてのキャリアも揺るぎないものとし、ついに「8年ぶりのニューアルバム」を発表する恒松正敏。あくまでも等身大、虚飾のない表現は、きわめてストイックだ。それにしても、堰を切ってあふれ出てくるかのようなエネルギーの奔流には圧倒される。ギターはいつになく鋭く、タイトなリズム隊は疾走しながらも重量感十分。アレンジもこれまでにないアプローチがとられている。ちかごろかっこいいロックがないとお嘆きの貴兄に。


56
T.REX『軌跡〜ベスト・オブ・T.REX』
 マーク・ボランがこの世を去ってから30年。三島由紀夫は、人間の寿命が長くなった現代、「このごろの天国の景色はさぞ醜悪だろう」と言った。ボランは、「30歳までは生きないだろう」という言葉通りに去っていったけれど、わたしたちがいま聴くこと、見ることができるのは、いつだって「あのころ」のきらびやかな「ブギーのアイドル」である。そのスタイルは彼自身と密接な関係にあり、ゆえに、彼が仮に60歳になったとしても、きっときらびやかであり続けたのではないかと思わせる。最後のロックアイドルの軌跡。


57
パスカル・コムラード『Monofonicorama』
 トイ・ピアノや手回しオルガンの響きが持つ軽金属の軽さのようなもの。トイ・ポップに惹かれるのは、そんな音の質感が醸し出すどこか手工業的で人工的な輝きのようなものに魅せられるからだ。「元祖トイ・ポップ」パスカル・コムラードの92年から05年までの音源を集めたベスト盤には、ちょっと異国情緒を感じるような、ノスタルジックでメランコリックなメロディを持つ、不思議と情景的な音楽がたくさん収められている。ロバート・ワイアットが歌うクルト・ヴァイルの「セプテンバー・ソング」も素晴らしい。


58
宇波拓/伊東篤宏/Hair Stylistics『FAR FOR FUR』
 ファッション・デザイナー古橋彩のブランドFURのコレクションのための音楽として、宇波拓、伊東篤宏、ヘアスタイリスティックス(中原昌也)の3人に委嘱制作された3曲を収録したもの。この3人のクセモノによるそれぞれの楽曲は、個々でも騒々しいものだが、実際には会場で同時に再生されたそうだ。その実況録音も追加収録されているが、しかし、この音盤を聴いて一体どのような状況が想像できるだろうか?という意味でサウンドトラックとしての本来の機能をあっさりと超越してしまっているところがすごい。


59
Jean-Jacques Perry & Luke Vibert『Moog Acid』
 電子音楽〜元祖テクノ・ポップの巨匠ジャン=ジャック・ペリー。御歳77歳のペリーとブレイク・ビーツ、ドラムンベースの奇才ルーク・ヴァイバートによる奇跡的なコラボレーション。ご存知ペリー&キングスレイの「ポップコーン」(作曲はキングスレイ)やエレクトリカル・パレードの「バロック・ホウダウン」などの名曲で聴かれる、あのドリーミー&レトロ・フューチャリスティック・サウンドが健在であることを超えて、オリジネーターとのあまりに息のあったヴァイバートのサウンド・メイキングにも驚かされる。


60
 ボアダムス『ボアダムス・ライブ・アット・サンフランシスコ』
なんという高揚感、そしてなんとオリジナルで非凡な音楽だろうか。2005年のサンフランシスコでの演奏をおさめた、ボアダムス初のライブDVDであるという。冒頭の(城一裕と澤井妙治の制作による)光るセンサー楽器を演奏するEYEの映像から、それに呼応するようにトリプルドラムが一斉にトライバルなリズムを叩き出し、どこか儀式的なステージが繰り広げられていく。この高テンション、高純度のエネルギーは一体なんだろうか。ここには、音楽による非常に良質なコミュニケーションを見ることができる。


61
anonymass『anonymoss』
 ある楽曲をリ・アレンジするということは、すでにあるアレンジを取払って、もう一度新しい素材で曲を組み立て直すことだろう。痒いところに手の届く選曲センスの良さもさることながら、あらためてYMOの楽曲の非凡さを実感させられる、原曲の適切な解釈と再構成。当然、編曲者/演奏者に楽曲およびアーティストへの愛情と深い理解がなかったならば、このような傑作は作れない。「YMO結成30周年記念」という、全曲YMOのカヴァーによるアルバム。だからといって、決して企画モノのようなものではない。


62
『謎のスイス人建築家パスカル・ホイザーマン』
 「生活を住居に合わせるのではなく、住居を生活に合わせるのだ」という考えにもとづき、自然界で作られるもっとも無駄のない形であるという「泡」をモチーフに作られた、有機的なフォルムの建築。彼のアナーキーな姿勢は、移動可能な住宅(可動住居)や異なる建築同士を連結する建築、さらには集合住宅に寄生する住宅といった奇想天外なアイデアを生み出した。外壁に苔の生えた40年前に設計した住居を訪ねるシーンでは、自然から生み出された建築が、時をへてやがて自然と一体化していくかのように見えた。


63
Real Fish『遊星箱』
 矢口博康を中心にした無国籍インスト・ポップバンド、リアル・フィッシュの全てを収めたボックス。テクノ・ポップ、ニュー・ウェーヴを経た80年代初頭から、これだけ洗練され、かつ不可思議な魅力をたたえた音楽を演奏していたことは驚きに値する。サックスやピアノやヴァイオリン、あるいはフェアライトCMIの乾いた音色。どこか印象派音楽のような映画音楽のようなミニマル・ミュージックのような、かといって小難しさのカケラもなく、耳を離れないメロディラインと、その不思議な魅力はいや増すばかり。


64
スティーヴン・ブラッシュ 横島智子訳 『アメリカン・ハードコア』
 アメリカのアンダーグラウンド音楽がイギリスへ伝播し勃興したパンク・ムーヴメント。それはニュー・ウェーヴへと変化しながら、80年代にはその勢いを失い退屈なものになっていた、と筆者は言う。パンクが持っていた反骨精神を「アート・スクール風能書き」抜きにして、極限まで、あくまでも過激に展開する。それが「ハードコア」の謂いであり、これはその「伝説」を知るための決定版的書物だ。それはオリジナルで、自分たちのカルチャーをつくり出すことを希求する、非常に純粋な行動原理であったのだ。


65
キャピタル・バンド1『プレイング・バイ・ナンバーズ』
 マーティン・ブランドルマイヤーとニコラス・ブスマンは、このアルバムで、数字で遊んだり、ウィーンで夜遊びしたり、波を数えたりしている。「数字で遊ぶ」ことをテーマに制作された3曲からなるサード・アルバムは、アコースティック楽器を中心に、静寂とフィールド・レコーディングを取り入れた、それぞれに隠された構造を持つという楽曲による実験的な作品だ。たとえば、フィールド・レコーディングによる環境音をスコアとして作曲された作品では、映像的な音のレイヤーによってディティールが浮かび上がる。


66
SymmetryS『SymmetryS』
 シンメトリーズは、ラーメンズの小林賢太郎とFantastic Plastic Machineの田中知之によるスーパーユニット。このCDは、ヘッドフォンで聴くことを前提とした、「ヘッドフォンで楽しむ新しい歌劇」である「ヘッドフォン・オペラ」と称されている。それは音響コントという枠にとどまらず、当然ながら、音響、音楽、そしてCDというメディアで発表されることを意識して作られている。ちょっとサウンド・アートさながらな作品もあり、音の想像力の自由さを十分に活用した快作だ。


67
佐々木敦『LINERNOTES』青土社
 一般的に「ライナーノート」とは、ある音盤に付随するテクストであり、通常、音楽を聴く前か、後か、あるいは聴きながら読まれるものであり、その音楽をすでに知っている、これから知ることを前提としているものである。だからこうして音盤から切り離された150篇ものライナーノートをまとめて読むということにはちょっとした違和感が伴うはずなのだが。この本は、もしあなたがその音楽を聴いたことがないなら、関心を促し、聴いたことがあるなら、持っているCDをひさしぶりに引っ張り出させるだろう。


68
Gavin Bryars / Philip Jeck / Alter Ego『Sinking of Titanic』
 沈み行く船とともに楽団が最後まで演奏を続けていたという逸話を、残された証言によって再現した、実験音楽の古典ともいえるG・ブライアーズの『タイタニック号の沈没』。2005年に行なわれたブライアーズ本人とP・ジェック、そしてP・グラスなどで知られるアンサンブル、アルター・エゴの演奏による最新録音盤。演奏時間は72分にもおよび、冒頭のスクラッチ・ノイズから、やがて現れる賛美歌『オータム』、語りや効果音、音響処理は、単純に音楽から感動を引き起こすことを拒絶する音のドキュメントである。


69
池田亮司『1000 Fragments』
 一九九五年にリリースされた池田亮司の1stアルバムは、次作『+/-』で確立され、以降徹底されていくミニマリズムと対比するなら、たたみかけるようなカットアップと静謐なドローンがきわめて映像的であるとあらためて感じる。現在、池田が行なっているコンサート・ピースでは、映像もまた重要な要素であるが、それがかつてはひとつの作品の中に未分化に存在していたということか。CDとしての最新作である『Test Pattern』にいたるまで、聴覚体験としての強度を先鋭化していく池田の前史としての重要作である。


70
John Zorn『The Dreamers』
 『The Gift』に続く、ジョン・ゾーンのモンド・ミュージック集、第二弾。演奏されているのは、サーフ・ミュージックからエキゾチック・サウンド、ラウンジなどなど、トラックごとにめまぐるしく変化する。ゾーンのイージー・リスニングへの愛着によるものなのか。しかし、ジャケットにあしらわれたかわいいキャラクター(ステッカーの付録も封入)にそそのかされて、それを緩いと勘違いしてはいけない。マーク・リボーのギターをはじめ、演奏はとてもタイトでスリリングだ。多羅尾伴内楽團と合わせてどうぞ。


71
aleph-1『aleph-1』
 カールステン・ニコライの新プロジェクト「aleph-1(アレフ・ワン)」は、ドイツの数学者ゲオルグ・カントルによって提唱された無限集合の濃度を表わす単位に由来するという。無限とは、かつてニコライのトレードマークともなっていたものだが、そのサウンドも、alva notoでの作品による時間分割とは異なる時間軸を持った、どこか初期のnotoを彷彿とさせるものになっている。いくつものループが織り重なって、いろいろなサイクルの、サイズの異なる粒子が運動しているかのような、有機的な粒子状の音楽。


72
コーネリアス『SENSURROUND』『from Nakameguro to Everywhere tour ’02-‘04』
 映像とサウンドがシンクロすることに快感をおぼえてしまうのはMTV世代特有の反応というわけではきっとないだろうが、『sensuous』の全曲に映像がつけられていること自体に驚く。トリッキーなサウンドにトリッキーな映像、さらに5.1chミックスで完全にコーネリアスの世界に没入。それが映像によるアルバムだという証拠に、各曲ともすでにしっかり映像とセットで頭にインプットされてしまっている。音楽とシンクロした映像にシンクロした演奏がキマリまくる、近年のツアーを集めたライヴ集も同時発売。


73
アラン・リクト&恩田晃『Everydays』
 思いつくままにRECボタンを押されたレコーダーによって、いつ録音されたとも知れない、音の記録による記憶の積層とその断層が聴こえてくる恩田のカセット。叙情的に、フリーかつノイジーに、ミニマルなフレーズやサイケデリックにも響くリクトのギター。この音楽が伝えるのは、あたりまえのことだが、それがふたりの音楽家がある時間を費やして作り上げたものだということだ。それが濃密な時間であったということは、ここに収められた音楽を聴けばわかる。ドラマティックですらある展開に引き込まれてしまう。


74
小沼純一『ミニマル・ミュージック』青土社
 「ミニマル」という言葉は、形容詞としても手法としても、10年前以上にさまざまに用いられるようになった。現在、スタイルとして「ミニマル」に類した音楽も多く存在するだろう。著者曰く「ミニマル・ミュージック」は何処にでもある。そのような状況から書きはじめられた本書は、ヤング、ライリー、ライヒ、グラスといった現在ではそれぞれの方法論によって「ミニマル」を超克した音楽家たちの、より根源的な「ミニマリズム」を見いだそうとする。その著者および音楽家の現在と対比できる増補版。


75
ヒカシュー『生きること』
 「生きること」「食べること」「息をすること」、といった人間の生の営みと「音楽すること」が同列にあることを実感させられる、ニューヨーク録音の新作。秀逸なジャケットそのままの不可思議な音楽は、わたしたちを現実と非現実のあわいに置き去りにする。まさに、あらゆる奇想天外な事象の非整合性を想像力によって解消してしまう、ヒカシューならではのパタフィジック・ロック。といいながら、たいへんがたくさんな日本の状況をチクリとひと刺しされると、みんなベトベトしてるなぁ、と我が身を振り返る。


76
いわいとしお『100かいだてのいえ』偕成社
 星を見ることが大好きなトチくんに届いた、100階建ての家のてっぺんに住む誰かからの手紙。そこは動物や昆虫が住む塔のような建物。トチくんは、100階ぶんの階段を歩いて上っていく。本といえば普通は横開きだけれど、この絵本は縦に開くようになっている。ちょっと読みにくいかもしれないけど、そうすると縦長の大きな画面ができあがり、見開きが建物の10階分になるという仕掛け。もともとは数の数え方を教える本だったそうだけど、なんとなく設定にバラードやオールディスの小説を思い出したりして。


77
テープ『ルミナリウム』
 「テープ」とはなんと秀逸なグループ名なのだろう。どことなくノスタルジックでミスティックな印象を喚起させる、銅版画のようなジャケットのイラストさながらに、その響きは、まさに音の記録されたテープがするするとあらわれてメロディーを奏でるかのよう。生楽器をフィーチャーしたアンサンブルで、所謂エレクトロニカやデジタル音響ものとは異なる質感の持つ彼らだが、本作ではギターやオルガンがより前面に出ていて、アナログシンセの音色などにプログレ色を感じる。時代感覚の不明瞭なのが心地よい。


78
V.A.『それぞれのシネマ』
 「映画館」というのは、ある意味で特別な場所だ。なぜなら、そこではこれまでに数えきれぬほどの出来事が起こってきたのだし、また多くの映画作家が、この特別な場所で特別な体験をしたことによって、映画を作り始めたのだから。カンヌ国際映画祭の60回を記念して製作された本作は、33人の監督が「映画館」へのオマージュを3分間の作品に凝縮したオムニバス。「映画館」という特別な場所が、さまざまなシチュエーションや手法によって描き出されている。個人的にはケン・ローチの作品に考えさせられた。


79
『タウンズ・ヴァン・ザント/ビー・ヒア・トゥ・ラヴ・ミー』
 アメリカの生んだ不世出のシンガー・ソングライター、タウンズ・ヴァン・ザントとは一体何者だったのか。52年という決して長いとは言えない、「死」の妄想に取り憑かれたかのような、その数奇な人生を追ったこのドキュメンタリーには、そんな謎が暗雲のようにたれこめている。その楽曲は現在にいたるまで多くのミュージシャンに取り上げられ、ヒットさえしているが、本人は不遇のまま。彼のアルバムのタイトルのごとく、彼にとってこの世の出来事はすべて歌のために捧げられている。その純粋さが胸を打つ。


80
ジュリアン・コープ『ジャップロック サンプラー』白夜書房
 いまやカルト・ミュージシャンの仲間入りをしてしまったらしい著者による、日本のニュー・ロック研究書。どうやってこれらの資料を収集したのか、前衛芸術と実験音楽からフリー・ジャズ、サイケが渾然一体となった、特異な状況がマニアックな情報の奔流のように綴られる。日本におけるロックの受容が黒船来航から語られているように、やや偏った日本観による誤解や偏見、事実誤認や勘違い、信憑性の疑わしい記述も頻出する。しかし、邦訳では、修正と補足が詳細な註で補われているので安心。日本の誰もが書き得なかった奇書。


81
ペンギン・カフェ・オーケストラ『ペンギン・カフェ・オーケストラ』
 ペンギン・カフェからの音楽の二作目。日本ではまずこちらが先に国内盤発売され、ポピュラー音楽の領域で所謂「環境音楽」というジャンルを多くの人びとに知らしめた。アンビエント、ミニマル、エスノといった、当時の先端的音楽に特徴的だった諸要素や実験的手法を導入しながらも、けして難解になることなく、むしろ軽妙に演奏される。1枚目にくらべると、音楽的なヴォキャブラリーが格段に豊富になっており、現在の耳で聴くと「環境音楽」という側面からだけでは語ることができない、なんとも懐の深い名盤である。


82
今井和雄トリオ『Blood』
 電子音と蛍光灯の放電とギターによるトリオ、それはこの編成からも窺えるように所謂バンドのようなものとは違う。そこには、3人の演奏家による、ある曲をモチーフにした、調性的な関係に拠らない音の状態がある。唯一の旋律楽器であるギターが奏でるジャズやクラシックなどのメロディは、他2種類のノイズと違和感なく共存しているようでいて、各パートはそれぞれが孤立して無関係に音を発しているように聴こえる。それぞれの音に序列はなく等価であり、ギターに意識を向ければメロディが前景化し、電子音や放電音に集中すればノイズが前景化するというように、焦点の設定によって曲の聴こえ方も変化する。DVDで映像によって視聴する場合と、CDで音だけを聴く場合とでも、その音楽の受容のされ方は変わる。これは、その視聴状況によってさまざまに様態を変化させるような、つねにある固定したイメージから逃れ、「のようなもの」であり続ける、不定形な音楽である。


83
HOSE『HOSE II』
 ホースの音楽には、笑ってはいけないような状況で笑いを押し殺すことにも似た、ある種の苦悶/快感を与える要素がある。さらに今作では、録音編集による音響的な細工も極まり、意図的に仕組まれているのか、音楽としての整合性のようなものの「ほころび」が、そこここで顔をのぞかせる。すると、音楽的な整合と破綻の主従関係が入れ替わってしまい、瞬間真空を生じさせるのだが、それを、「宙吊り」とか「判断停止」と簡単に言ってしまっていいのかどうか。タイトルのシンプルさに潔さを感じる、ホースの2作目。


84
イーサン・ローズ『オークス』
 ノスタルジーを感じさせる音というものは、それを聴いた人それぞれの記憶のどこかにひっかかりを持ち、その曖昧さゆえにさまざまな記憶と結びつく。ローズは、一貫して楽器やオルゴールや映写機といった装置と、それにまつわる歴史や場所といったものをモチーフとして制作をしているが、今作では、ローラースケート場に設置されていた古い劇場用オルガンの音が使用されている。その音や、音を発する際に生じる音を記録し再構成することで、それぞれの記憶や空気を封じ込めた映像的とも言える音像が記憶を呼び覚ます。


85
『ReComposed by Carl Craig & Moritz von Ozwald』
 ドイツ・グラモフォンの音源を素材として「再作曲」を試みるシリーズの新作は、デトロイトテクノとベーシック・チャンネルの共演。カラヤン指揮のベルリン・フィルによる、ラヴェルの「ボレロ」「スペイン狂詩曲」、ムソルグスキーの「展覧会の絵」を素材として、追加録音を行ない完成されている。とはいえ、原曲のフレーズは断片化され、反復、重層化されているため、冒頭「ボレロ」のリズムが曲を先導するが、以降はまったく違うオーケストラ作品に聴こえてくる。リミックスではなくリコンポーズの所以である。


86
平井玄『千のムジカ』青土社
 「資本主義の奴隷」とは、まさしく与えられた、お仕着せの音楽に聴き馴らされ、その聴き方さえ画一的に規定されてしまっているわたしたちの謂いであろう。音楽とは、それを取り巻く状況が生み出すものであるとすれば、現在のわたしたちを奴隷化し支配するような音楽のあり方も、そうした状況や環境から必然的に生み出されたものかもしれない。しかし、音楽とは、そうした支配から自由であるべきものであり、ゆえに音楽はそれに抗い、移動し、離散し、変化してきたのだ、ということをあらためて考えさせられる。


87
MONTAGE『Metafiction』
 所謂「ポスト・ロック」と呼ばれる音楽に特徴的なもののひとつに、ポスト・プロダクションに重点をおいた人工的で無機的な質感があげられる。ヤマミチアキラ率いるブレイクビーツ・ジャズ・ユニットによる新作は、そうしたポスト・ロック的な手法を用いながら、生楽器によるジャズのテイストと音響のデジタル処理によって、そのサウンドに鉱物質なテクスチャーを与えている。それは、J.G.バラードの小説世界の架空のサウンドトラックを描き出し、タイトルに直截に表されたメタフィクショナルな音世界が展開されている。


88
湯浅湾『港』
 世の中どうにも判らない。だからといって考えて判るものでも、どうなるものでもない、というのが世の中。湯浅湾の音楽は、その音楽自体が湯浅湾をよく表わしているという感じがする。ギター、ベース、ドラムス、ヴォーカル、どれもがなんともいえないアクと存在感を持って存在している。だからすぐには効かないかもしれない。しかし、ロックをとにかく聴き込んだ耳が作るロックは、やはりカッコいい。ロックとは永遠の疑問符とか誰かが言ったろうか、どこまで行っても「判らない」ということが「よく判る」音楽だ。


89
Omu-Tone『Omu-Life For BankART Life II』
 オムトンは、マリンバとパーカッション(とピアノ)による女性3人組のアンサンブル。彼女たちが提案する「オムライフ」とは、一体どんなものだろう。ただ、この音楽がこっそりとその場の空気を変えてくれることは確か。軽快なリズムとマリンバとピアノの清々しいメロディ。最初は、ミニマルっぽいけど、でもだんだんとポスト・ロックみたいに、カッコ良くなってくる。マリンバの音というのはなんとも素朴な音だなぁ、と思わせるライヴ録音盤。なによりも本人たちがすごく楽しそうなのが音から聴こえて来るのがいいです。


90
Stephan Mathieu + Taylor Deupree『Transcriptions』
 現在のアナログ・レコードは、エジソンの発明した蝋管による円筒型レコードと、ベルリナーの発明した円盤型レコードをその起源としている。この作品は、128回転の蝋管レコードと78回転のSP盤を音源にして、それを編集して完成されたデジタル・オーディオ作品である。そのタイトルどおり、アナログからデジタルへ、メディアの転写が行なわれ、ジャケットに写る傷だらけの盤面の質感が誘発するノスタルジックな感覚は、トリートメントを施され、電子音響の彼方にかすかに聴き取られるように響いている。


91
徳井直生、永野哲久、金子智太郎『iPhone X Music iPhoneが予言する「いつか音楽と呼ばれるもの」
 音楽を携帯して聴くことが、「音楽を聴く行為」をどのように変えたかは「ウォークマン」の登場以来さまざまに考察されてきた。そして、iPod以降、携帯音楽装置は、web 2.0の潮流と同調し、音楽の流通や聴き方さえも変えてしまった。さらにiPhoneの登場によって、音環境を作り出す装置として、複製音楽の聴取環境であることを超えた携帯音楽が示唆されるようになった現在が、RjDjやBloomなどの多数のアプリの紹介とともに、実験音楽などのレファレンスを通して判り易く解説されている。


92
『アラザル2号』
 私も講師として参加したHEADZの主宰する私塾、BRAINZの佐々木敦「批評家養成ギブス」受講生たちによる批評誌「アラザル」が、ついに第2号を発行した。あるジャンルに固有の批評として定位しない批評誌を標榜するだけあって、領域横断的でヴァラエティに富んだ内容は、論考や全体の文字数も、インタヴューなどのコンテンツも増量で前号と比較しても、内容は格段にアップデートされている。不在ではなく非在であること。存在しないのではなく、まさに「10年後のための言葉」たちの存在がここにある。


93
『「芸術」の予言!!』
 60年代という変革の季節、芸術もまた映画をはじめ「破壊的な起爆剤」としてのラディカリズムが模索された時代でもあった。1968年に創刊された『季刊フィルム』『芸術倶楽部』からよりぬかれた、同時代のアクチュアルな表現を求める先鋭的な思考による、映画、美術、音楽、演劇、建築といったジャンルを超えた熱い議論や論考の数々。そうした「前衛」の時代が、それ以降の芸術の未来を「予言」するものであったのかどうか、果たしてそれはどのように継続されたのかを再考察するための資料でもあるだろう。


94
図書館『図書館の新世界』
 図書館には、探しものや調べものなど、何かの目的のために行く場合もあるけれど、これといって読みたい本があるわけでもない一日に、これまで知らなかったような素敵な本との出会いを求めて行くのだっていい。ぶらりと書棚の間を散策しながら、偶然に出会った一冊が、とても大切な一冊になってしまう瞬間。彼らの音楽もそんなふうに発見されるのがふさわしいような、懐かしいような新しいような佇まいを持っている。聴いたとたん、すぐにでも誰かに教えたくなってしまう、そんな一枚に間違いなくなるはず。


95
ジョン・ゾーン『O’o』
 エキゾチカ、モンド・ミュージック的アプローチを試みるプロジェクトの3枚目。タイトルは、ハワイに生息した絶滅種の鳥の名前に因んでいるという。(収録曲も鳥の名前に因んだものが多い)だからか、前二作と比較してエキゾチック度が増しているような気がするが、どこか架空の映画音楽然とした、スリリングでシャープな演奏が繰り広げられるのが特徴。また、今作ではゾーンは作曲家としてのみ関わっており、演奏は行なっていない。ジェイミー・サフトのキーボードとマーク・リボーのギターの演奏は特筆に値する。


96
Tetuzi Akiyama+Toshimaru Nakamura『Semi-Impressionism』
 欧米から見ると、音数が少なく、隙間の多い音楽などを聴くと、なぜいとも簡単に「日本人の精神性」のようなものが垣間見えてしまうのだろうか。そんなとき、非常に便利な言葉のひとつが「禅」ということになるのだろう。そんな勝手な思い込みを一蹴するかのように、「禅印象派」ならぬ「蝉印象派」を名乗るこのふたり。どこか幽玄さのようなものをたたえる秋山のアコギの作り出すゆらぎと、それを鋭利に断ち切る中村のミキサーの対比。「禅」ではなく、むしろ「静けさや岩にしみいる蝉の声」を想起するべきなのか。


97
ミック・ファレン 赤川夕起子訳 『アナキストに煙草を』
 60年代後半、スインギング・ロンドンの時代に、ノッティングヒル周辺に形成された、地下文化シーンには、ミック・ファレン、シド・バレット、スティーヴ・トゥックといったミュージシャンが参集していた。UFOクラブ、14アワー・テクニカラー・ドリーム、さらにはITやOZといったアンダーグラウンド・マガジンにおいて、ロックとアヴァンギャルドやビートニクやアナキズムやサイケデリックなどの混交された時代。SF作家でもある筆者による、自伝的ドキュメンタリーは、当時の裏シーンの貴重な証言だ。


98
William Basinski 『Vivian & Ondine』
 バシンスキーの作品制作にまつわるエピソードには、どこか出来過ぎた話に感じるところがあるのだが、たとえば「タイタニック号の沈没」がそうであるように、なぜか納得させられてしまう。本作は、彼の弟の子供と、従兄弟の孫娘の誕生にあやかって制作されている。見つかった古いテープ・ル−プを素材に、それを2台のテープ・デッキで再生し、出産予定日が遅れていた子どもを、音楽によって外界に誘い出そうとする試みとして、ライヴ・レコーディングされている。それは、まさに羊水の中に響く音楽のように聴こえる。


99
江渡浩一郎『パターン、Wiki、XP ~時を超えた創造の原則』
 昨今、インターネット上のウェブ・サーヴィスなどの情報環境において形成される社会秩序を、建築・都市論との対応関係において論じ、現実社会へと適用していこうとするアーキテクチャ論が旺盛な議論を展開している。本書では、60年代に始まり、のちにパタン・ランゲージとして完成される、アレグザンダーの社会変革としての建築思想が、ソフトウェア開発やウェブ上の共同制作環境であるwikiの起源であるということを判りやすく解説している。コンピュータの実用書ではなく、読み物として非常に興味深い。


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EDIT CONFERRENCE『THE EDIT エディット・ミュージック・ディスク・ガイド』
 いまや、ハードディスク・レコーディングの時代に、なぜテープ・エディットか?いや、むしろ両者を貫通する「編集」という方法にフォーカスした本書では、磁気テープの発明から、ミュージック・コンクレート、サンプリングからダンス・ミュージックまでを貫通する、(リ)コンポジションの伝統を遡りつつ、80年代中期に隆盛をきわめた脱文脈的手法「エディット」に再びスポットを当てている。マッシュアップなどの手法による、ユーザーの二次創作が注目される現在、再確認が待たれていたジャンルとも言えよう。


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水戸芸術館現代美術センター編 『BEUYS IN JAPAN ヨーゼフ・ボイス よみがえる革命』
 一九八四年、ついに日本にやって来た現代美術界のカリスマ、ヨーゼフ・ボイス。人間の創造力を本当の資本であるとし、誰でもが芸術家であり、すなわち「生」そのものが芸術たり得るとする彼の考えは、美術界のみならず、当時の社会に少なからず反響をもたらした。「パフォーマンス」が流行語のように流布した80年代の日本で、学生との対話において「過大評価」とも言われた彼がどのように受け止められたのかを再検証し、いまこそ、文化的アイコンとして消費されえない、彼のメッセージの意味を再確認してみたい。


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サイモン・レイノルズ 野中モモ訳 『ポストパンク・ジェネレーション 1978—1884』
 産業化、肥大化したロックに対する解毒作用となったのがパンクだったとするなら、ポストパンクとは、パンクが切り開いた白紙還元された地平から、より自由かつ斬新なヴィジョンを打ち出したものだと言える。あるものは挑発的な態度を受け継ぎ、理知的にさらなる破壊を促進し、あるものは、趣味的かつ雑食的にあらゆる音楽スタイルを取り込み、独自の音楽を生み出した。本書は、70年代後半から、思想、政治、文化などが渾然一体となって、革新的、創造的であることだけを標榜した動向の記録とも言えるだろう。


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東浩紀 濱野智史『ised 情報社会の倫理と設計 倫理篇 設計篇』
 これまでにも社会環境の変化に伴って、それに示唆を受けて新しい思想が築かれてきた。たとえば写真やレコードといった複製技術には、多くの思想家による書物が残されていることにも顕著だろう。現在、インターネットや携帯電話といった情報技術およびその環境の変化によって、私たちはそれらからの影響を考えないわけにはいかない時代にいる。そうした「私たちの社会秩序にもたらしている変化」のあり方を考え、さらには「新たな社会秩序・制度・組織の可能性を構想」する。現代の思想のあるべき姿を提示した書物。


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Paramodel『Paramodel(パラモデル)』
 鉄道玩具のレール、塩化ビニール製のパイプなどを組み合わせて、展示室の壁、床、天井、空間を埋め尽くすインスタレーションで知られる東大阪発のふたり組アーティスト、パラモデル初の作品集。プラスティックの人工的な光沢感を持つ工業製品が素材ながら制作はすべて手作業で、会場で一から組み上げられる。平行して、日本画由来のつや消しの風合いを持つ、どこか未来的な風景の絵画も制作する。いきなり300ページ超の、その作品の多さは、展覧会場での圧倒的な密度に負けないインパクトを持っている。


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オウテカ『ムーヴ・オブ・テン』
 『Overstep』から間をおかずに発表されたEP。だが、収録時間はフル・アルバム並にある。それは同時期に制作され、「ハーモニーとメロディ」を重視したという前作から、選り分けられた作品のようにも見える。実際は、ライヴでのシステムを構築していく中で制作された、リズムを強調した作品が中心になっているそうだ。とはいえ、それは所謂ダンスのためのリズムというよりは、時間を分節化し、空間を変形させていくような作品となっている。どこかイーノの『Music for Films』を思い出させた。

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