ウイリアム・バシンスキー インタヴュー

2010年に行なったウイリアム・バシンスキーのインタヴュー。
もともとは某雑誌に掲載の予定だったが、結局それは発行されずに終わってしまったため、お蔵入りの憂き目にあっていた。


——まず、今回の公演でアントニーと共演することになった経緯を教えて下さい。


アントニーは古くからの友人で、90年代初頭にニューヨークでアントニーがやっていたブラック・リップスのカルトなパフォーマンスをピラミッドクラブに見に行ったのが最初かな。93、4年ころ、彼は実験演劇をやっていたんだ。そこで僕は驚くほど素晴らしいショーを見て、アントニーの歌をきいた。それが彼との最初の出会いだった。僕はとても感動して、楽屋に行って、彼と話をし、『君は自分の音楽に専念した方がいい。君の音楽は素晴らしいよ!』と言った。そして、僕のスタジオに来なよと誘ったんだ。次の日、アントニーは僕のスタジオに来て、一緒に話をして、意気投合して、彼の音楽を聴いたり、それから一緒にデモを作ったりして、親しい友人になった。僕は以前ニューヨークに、アルカディアというアンダーグラウンド・ミュージックのライヴ・スペースを持っていて、そこで彼と一緒にライヴをしたこともある。アントニーは何度もフィーチャーされて、彼の音楽を発展させていったよ。


——90年代初頭から今回に至るまで、形になった共演はありましたか。


アントニーと一緒に作った初期の作品はテープでまだ持っているよ。今入手できる初期のものだと、ジョンソンズの作品だね。その頃のたくさんのテープやライヴのアーカイヴが残っているけど、とにかく、僕らは親しい友人となり、お互い音楽的にインスパイアされるようになった。97年にくらいにアントニーがジョンソンズを始め、僕はジョンソンズのオリジナル・メンバーとして、3、4年の間、クラリネットとサックスを担当していたんだ。僕はジョンソンズの1枚目アルバムに参加しているよ。僕はアントニーを誇りに思っている。とても小さなグループからはじまったのに、今ではロンドン・シンフォニー・オーケストラや、他の世界中のオーケストラと競演するようになった。本当に素晴らしいことだよ。


——僕があなたの作品を始めて聴いたのは97年の『Shortwave Music』というラスターノトンから出ていたレコードなんですけど、プロフィールをみると、70年代の後半から、ブライアン・イーノとかスティーヴ・ライヒといった作曲家に影響を受けて作曲を始めたとありますね。


そう、大学の頃にとても影響を受けた。その頃の音楽大学は、まだセリー音楽や十二音音楽を教えていて、僕もそういう音楽を演奏して、数学的なテクニックの面白さをその中に発見したけど、それは自分のやりたいことではなかった。


——97年以前に作られた作品もあると思うんですが、それが新作の音源にもなっている古いテープといわれるものなのでしょうか? その当時に作曲されていた作品が、最近発表されている作品の元になっているのですか?


1978年に学校を卒業した後、サンフランシスコとニューヨークで実験音楽を作り始めた。その頃にはもうすでにテープの録音機は最新のテクノロジーではなく、中古屋でとても安く売っていた。だから僕は5ドルの古い大きなリール・トゥ・リール(オープン・リールのテープ・レコーダー)とたくさんのテープを買って家に帰り、テープを切ったりつなげたりして、身の回りのいろいろなものを録音して、どんなサウンドになるのか試していたんだ。


——トータル・セリエリズムとか十二音技法といった手法を使った作曲の後に辿り着いたのがそいういったテープコンポジションだったんですか?


いや、セリー音楽や十二音音楽には反抗していたよ。なぜなら共感できなかったし、追求したいものではなかったから。それで、そんな時代から外れた環境で自分が本当に好きなものをやろうとループを作り始めた。長いトーンで記憶のようにループする音楽。そして、サンフランシスコで2年間過ごした後、1980年にニューヨークに移って、それから本格的にたくさんのループを制作した。今でもそれを自分の作品に使っているんだ。


——それは発表を前提としないで、作りためていたんですか?


リリースしたいと思っていたんだけど、誰も買ってくれなかったよ(笑)。でも、その頃、ニューヨーク周辺のアート・ギャラリーとか小さな場所でのライブを5、6年やって、その後、友達のバンドに参加し始めた。もちろん自分自身の活動も続けていたけど、僕は訓練されたミュージシャンだったから、友達やニューヨークのたくさんのバンドとロックンロールをやったり、プロデュースみたいなことをしたり、キーボードやサックスを演奏していたんだ。僕はイギリスから来たロカッツというロカビリー・バンドに参加していた。君が覚えてるかわからないけど。1年間くらい彼らとニューヨークで一緒にプレイしていたよ。


——ロカッツ!知ってますよ!


その頃、ニューヨークのソーホーにある洋服屋で働いていたんだけど、電話があって、『ロカッツから電話があって、デヴィッド・ボウイの前座に決まったから、君にも出てほしいって!』と言われた。もう、「わあああああああ!」って感じだったよ。そしてペンシルバニアの大きなスタジアムで、3万人を前にデヴィッド・ボウイの前座をつとめた。シリアス・ムーンライトツアー。自分のアイドルに会えて、幸せだったよ。


——80年代の初頭に日本で、スネークマンショーというコメディ・レコードが出たのですが、そのレコードの中にロカッツが入っていて、僕はリアルタイムで聴いています。知らないと思いますが(笑)。


スネークマンショーの事は知らないんだけど、、、(ロカッツが収録されていた事に対して)うそでしょ!?本当?
でも、僕がロカッツに参加したのは、レコード契約が台無しになったちょっと前で、、、ロカッツはロックスターすぎたんだ(みんなドラッグでやんちゃだった)。デヴィッド・ボウイの前座の後、そのドラッグがらみで、RCAをクビになり、レコード契約をだめにしてしまった。


——ということは、80年代を通じてそういうバンド活動をしていて、97年の『Shortwave Music』がいわゆるエクスペリメンタルな作品としては最初のアルバムですか?


「Shortwave Music」を作っていた頃もまだロカッツや他のバンドと演奏していた。とても真剣に制作した作品だったし、リリースしたかったけど、自分の作品に興味を持ってくれる人に出会えなかった。カールステン・ニコライがニューヨークに来るまで、リリースは実現しなかった。彼は僕の住んでいた下の階にしばらく住んでいて、彼に出会い、友達になった。僕が古いテープをCDに移す作業をしながら、その古いテープを聴いていたら、カールステンがとても気に入ってくれたんだ。僕も長い事聴いていなかったものだったので、改めて素晴らしいと思った。そしてカールステンが僕の音楽をリリースしたいと言ってくれた。それまで誰も言ってくれなかった言葉だったよ。


——その最初のリリース作品『Shortwave Music』ですが、CDではなくレコードだったのはカールステンのアイデアですか?


そう、カールステンのアイデアだ。(ラスターノトンの)彼らは美しいオブジェクトが好きだし、世界一のグラフィック・デザイナーだし、みんなアーティストでミュージシャンだ。彼らは透明のアルバムを作りたかった。(あんみつが乗っている透明のおぼんを指して)これみたいにね。持ってるの?それはとてもレアだよ!


——今度は制作プロセスについてお聞きしたいのですが、一貫してアナログの機材を使われているのですか? 


ほとんどアナログ機材を使っているけど、マスタリングにはデジタル機器も使っている。アーカイヴの中から、古い作品をリリースしたいと思った時に、修正不可能だったミスをデジタルで修正する事はある。でも、そのミスをそのまま残すべきなのか、それとも取り去るべきなのかは良く見きわめなければいけない。通常、僕はできる限り寛大になって、ありのままの姿を残している。ライヴをする時にループをコンピュータに入れておいて、テープデッキでやっているみたいにコンピュータ上でミックスすることもある。でも、テープデッキをステージで使う方が好きなんだ。その方が全然楽しいし、お客さんも『彼は何をしているんだ?』って思うでしょ?(笑)。


——さきほど古いアーカイヴをデジタル化するという話があったのですが、その過程で生まれたのが『Disintegration Loops』という作品でしたね。


そう。2001年の夏にテープループのアーカイヴをデジタル化する作業をしていた時、NYのロフトの奥の方にある倉庫で、大きなコンテナを見つけたんだ。もうなくしてしまったと思っていたものだったので、とても興味深く思って、それをテープが朽ちる前にCDに移して、何が入ってるのか聴いてみようと思った。最初のループを再生したとき、それは本当に美しくて、とても厳粛で、「素晴らしい!これはすごいぞ!これで新しい作品を作るぞ!」と、ただただ感動した。そして、Voyetra シンセサイザーを立ち上げて、フレンチホルンのような音色で、アルペジオのランダムなオブリガードを弾いてみたら、そのサウンドがとても美しかった。そうやって、新しい作品を作っていたんだけど、15分くらいたった後、テープの磁性体がところどころ剥がれ落ちていることに気がついた。これが、音量が小さくなったり、無音の部分を作り出していた。これは偶然に起こった事だとわかっていたんだけど、それ録音していたのでとてもハッピーだったよ。そして翌日から数日間、他の5つのループを使って制作をしたんだけど、それぞれがそれぞれの崩壊の仕方をしていた。そして、この5時間に及ぶ大作ができあがって、そのサウンドに陶酔したよ。それから友達みんなに「信じられないくらいすごい作品ができたから、今すぐきて!!」って電話をしたんだ。


——そういうテープのループをたくさんお持ちなのだと思うのですが、それはデジタイズしていかないと聴けなくなってしまいますね。


そう、テープは古いものだから。だけど、それらを手に入れた時からテープは中古だったんだよね。他のテープより状態がいいテープを見つけて使っていた。ちょっと見せてあげるよ。(カバンからテープの入っているケースをとりだして)これが持ってきたいくつかのループなんだけど、今日、コンサートで使う機材のテストをするので持っていたんだ。これはツアー中に崩壊したテープだよ。この作品は"trail of tears"という作品。ほら、光が透けて見えるでしょう?そこが磁性体が剥がれているところだよ。これはメインテーマだからもちろん使うよ(笑)。


——そのループも使っているうちに、また剥げていってしまうわけですよね?


そうだね。どうなるだろうね(笑)


——大丈夫なんですか(笑)?


テープが壊れる可能性もあるし、悪くなることもある。だから、念のためにコンピュータにバックアップをとってあるんだ。もしかしたら、ループを飛行機の中に忘れてしまうかもしれないし。僕のかばんはとても変なものに見えるみたいで、いつも(空港で)あけられるんだ。こんなの(テープが入っているプラスチックのケース)が入っていたり、変な小さなラジオが入っていたり。(笑)


——新作『Vivian & Ondine』(2062)についてもお話を伺いたいのですが、あなたの作品には、何かきっかけになる出来事というものがよくありますね。そういった制作される上でのエピソードや、その作品を作るきっかけになるような出来事について伺いたいと思います。例えば今回の作品で言えば、弟さんの奥さんに子供が産まれるとか。例えば『Disintegration Loops』だったら、9.11の現場に居合わせてしまったということ。あなたの作品には、そういうある種の運命的な動機付けみたいなものが色々ありますね。


弟の赤ちゃんはなかなか出てこなかったね。(笑)僕はNYでコンサートの予定があって、でも"trail of tears"を1年の間ツアーでずっとプレイしていたことに気がついたんだ。また同じ会場でライヴをすることになった時、同じことをしたくなかったから、新しい作品を作らなくてはと思った。そのとき偶然に弟の赤ちゃんの話を聞いたんだけど、その時にまたランチボックスみたいな箱に入ったテープを発見して、再生して、なにが入っているのか聴いてみた。最初の一本目に再生したものが、”vivian & ondine” のメインテーマになった。そのサウンドがとても羊水を彷彿させるものだったんだ。


——どうしてそんな偶然が起こるのでしょう?


わからない、たぶんラッキーなんだよ。誰かにバシンスキーという言葉はポーランド語でおとぎ話を語源に持つと父親が言っていたんだ。だからこういう人生になるのかな(笑)。
9.11は本当に強烈だった・・・。とても怖かったし、ショッキングだっだし、そのことは本当は二度と考えたくない。その時、『disintegration loops』(となる曲)は既に完成していて、そして9.11が起きた。僕は本当に現場の近くに住んでいて、川向いだったから、あの光景が全部ベッドルームから見えたんだけど、空の色も変わって、とてもショックを受けた。その後数週間、いや数ヶ月はカオス状態が続いた。あの日は、とても大きな音で音楽をかけながら、一体何が起きたのか理解しようとしていた。近所の人たちは迷惑がっていたかもしれないけれど(笑)。そして、あの日、お昼から夜までにかけてずっと、同一視点のカメラを自分の住んでいる家の屋上に設置して、もくもくと立ち上がる煙をずっと撮影しいたんだけど、夜、そのヴィデオを作った。そして、翌日、その映像と最初の『disintegration loops』を一緒に再生してみた。そして、「ああ、これは哀歌(エレジー)だ」と思ったんだ。だから、『disintegration loops』の4つのアルバムのジャケットにも9.11の映像からの画像を使った。この作品はエレジーにしようと決めたんだ。やらなきゃと思ってやったプロジェクトではなく、それがそのとき必要なプロセスだったんだ。創らなきゃいけなかった。HeadzがそのDVD『disintegration loops 1.1』をリリースしてくれたね、とても素晴らしい作品になったよ。


——昔、そのDVDのレビューでも書いたのですが、DVDの最後に暗転するわけですが。段々と日が暮れていって、真っ暗になっていくんだけど、それがまた翌日、朝が来ることを、ほのめかしているんじゃないか?と。それがある種の希望に向けたものなのではないか?ということを書いたのですが。新作では誕生ということで、そういう希望を表そうとしたのかなと思ったりしました。


そういうふうにも見えるよね。(笑)ただ、自分の中にあるものを出しているだけなんだよ。
『Vivian & Ondine』のOndineは日本人のハーフなんだ。VivianもOndineもとてもかわいいよ。僕の従兄弟のTerenceはバットホール・サーファーズのオリジナル・メンバーだったんだ。バンドがとても有名になる前にやめてしまって、その後軍隊にはいった。20年くらい軍隊にいて、奥さんが日本人なんだ。子供が2人いて、一番若い18歳の娘がOndineを産んだ。とても若いお母さんとかわいいかわいい赤ちゃんだよ。彼らはハワイに住んでいる。

*Ondineの曽祖父は、太平洋戦争時の大日本帝国海軍の零戦のエース・パイロットだった坂井三郎だということです。(驚)

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