知覚の彼方に鳴り響く音

『図書新聞』2002年3月16日号

 周知のように、芸術とテクノロジーとは、相互の発展において密接な関係がある。音楽においては楽器の発明はもとより、「フォノグラフ」の発明に端を発する複製技術時代の到来と、それによる録音技術の発展、さらには電子技術の発展に伴うシンセサイザーなどの電子楽器、変調器、エフェクター類の登場は多くの作曲家、音楽家にとって表現の幅を格段に拡張させるものとなった。もちろん音楽とテクノロジーの関係はそれだけにとどまらず、複製技術による新たな聴衆の誕生や聴取の問題、ユース・カルチャーとの結びつきといった社会学的考察や文化論的考察、さらには、古典的な音楽理論の範囲を大きく逸脱する、音波レヴェルで人間の音楽認知を考察する音響心理学などまで幅広い領域にわたっている。

 そして二〇世紀の音楽はそうしたさまざまな要素を取り込みながら、テクノロジーの発展なくしては発想されえなかったであろう、特徴的で多様な音楽を生み出してきた。たとえばシェフェールによる磁気テープに録音された具体的な音響素材から構成されるミュージック・コンクレートや音を電子的に分析、合成したシュトックハウゼンによる電子音楽、さらにはポピュラー音楽の領域ではシンセサイザー、特にシーケンシャルなビートに特化された音楽としてのテクノの登場などが挙げられるだろう。それは新しい音楽スタイルには新しい素材としての音響が必要であるという考えに依拠するものであったといえる。翻ってそれはまさしくテクノロジー・ミュージックと呼びうるものなのである。

 もちろん現在のポピュラー音楽では制作に際しテクノロジーを使用していないものなどないといっても過言ではない。ミキシング卓はコンピュータ制御、レコーディングはハードディスクで、最終的なトラックダウンもコンピュータ上で行なわれる、というような製作過程はむしろアナログ感を強調するような作品においてもフル稼働されることになる。そのような状況のなかであえて意識的に批評的にテクノロジーを、コンピュータを使用した作品を作るということは一体どういうことなのだろうか。

 たとえば現在のテクノロジー・ミュージックにおける転換点はコンピュータの簡便化によって、「電子音楽を作るための大がかりな機械装置や設備の操作は、小さな装置を使った半ば趣味のような作業に置き換えられた。」(カーティス・ローズ『コンピュータ音楽——歴史・テクノロジー・アート』青柳龍也[ほか]訳、東京電機大学出版局、二〇〇一年)とカーティス・ローズの言うような、コンピュータ音楽の制作環境の変化であろう。そして、そうしたテクノロジー以降の音楽制作環境の変化は大きくその音楽自体にも影響を及ぼしている。

 昨年末テクノロジーと音楽に関する書物が二冊、時を同じくして出版された。佐々木敦による『テクノイズ・マテリアリズム』(青土社)と久保田晃弘の監修によるアンソロジー『ポスト・テクノ(ロジー)ミュージック』(大村書店)の二冊である。そしてもうひとつ、鈴木美幸によって主宰されている日本の即興音楽を紹介するウェブサイト、「Improvised Music from Japan」の開設五周年を記念して編纂されたCD十枚組ボックス・セット『Improvised Music from Japan』もやはり同時期にリリースされた。これら三点は、ここ数年のテクノロジー・ミュージックからサウンド・アートと呼ばれる分野、さらに即興音楽を横断する特徴的な諸動向、特にいわゆる「音響派」「テクノイズ」と呼ばれる一群の傾向に対する論考およびドキュメントであるということで共通しており、この三点は相互補完的に読み、聞くこともできる。

 『Improvised Music from Japan』に音源を提供したミュージシャンは三一名と三デュオで、それぞれにエレクトロニクス、アコースティック、邦楽、電子雑音、自作楽器と多様な傾向を持ち、年齢も二〇代から四〇代まで幅広く、かつ出自も異なる。このボックス・セットはそれ自体で、この二〇世紀末から二一世紀初頭の日本における即興音楽の優れたアーカイヴであり、もちろん部分的な要素を抽出して語られるべきではないかもしれない。日本の即興音楽がこうした多様な層をもつに到ったことに関してはまた別途詳細な考察が加えられるべきものであると思うが、このなかで顕著なことはこれら一群のミュージシャンのなかから「音響派」的傾向を持つミュージシャンたちが、特に若い世代から台頭してきていることだろう。佐々木による著書『テクノイズ・マテリアリズム』のなかの一章「二一世紀のフリー・インプロヴィゼーション」の中で論じられていること、特に大友良英のグループ、グラウンド・ゼロの「演奏」から「音響」への重心の移行が、そのままこのCDボックスのなかにも表れているといってもいいかもしれない。

 コンピュータを使用したミュージシャンたちの音楽に対するアプローチにも興味深いものがある。たとえば大谷安宏による「Music for 50 iMacs」はタイトルどおり五〇台のiMacによるインスタレーション/パフォーマンスであり、「リアルタイムにサウンドを構築、演奏を実現する」いわば自律的システムによる演奏なのだが、コンピュータによる自律的システムという制御不可能なシステムの介在によって、ミュージシャン自身はむしろオブザーヴァーとしての役割を担うようなあり方が提示されている。また安永哲郎はコンピュータを「楽器としての将来性・オルタナティヴィティ」を保持したものであるとし、「即興演奏時における反応即時性の脆弱さと身体性の欠落」といった制約を「新たなメソッド開発の端緒たりうる」と書いている。あるいは「作品として初めてPro Toolsを使いましたが、とてもそうとは思えないlo-fiな音になってしまいました」というユタカワサキなど、まさしくテクノロジー以降の即興音楽の様相が色濃く表れているのが伺える。

 『ポスト・テクノ(ロジー)ミュージック』はこうしたテクノロジーの進歩と発展が及ぼした現在の状況から、さらには音楽とそれを取り巻く、社会的、文化的状況について言及したドキュメントとして重要なある期間を記録したアンソロジーである。その「重要なある期間」とは、本書が企画された一九九八年から二〇〇一年にいたる期間においてあらわになったテクノ(ロジー)・ミュージックの様相がコンピュータ・テクノロジーを支点として、ポスト・テクノ(ロジー)・ミュージックへと転回、変節を遂げるための移行期ともほぼ等しい。それはたとえば本書の構成について、前半が九八年に開催されたシンポジウム「テクノカルチャー/ネットカルチャー」を発端とした「テクノ・ミュージック」を軸とした社会的、文化的な考察によって展開されているのに対して、後半は性質を異にし「テクノロジー」を軸として音楽、すなわちポスト・テクノ(ロジー)・ミュージックへと変節する過程を巡る議論、論考で構成されていることからも明らかである。ちなみにその期間には筆者が企画した展覧会「サウンド・アート——音というメディア」(NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]、二〇〇〇年)も含まれており批評の俎上に載っている。

 『ポスト・テクノ(ロジー)〜』において久保田は、ポスト・テクノ(ロジー)・ミュージックとは「制作のみならず、パッケージや配信を含め、すべての操作や処理がコンピュータ上のデジタル・ドメインで行なわれ、そこで数字列としての音が生成される」ものと定義している。あるいはテクノロジーが自明である環境以後の音楽制作をポスト・テクノ(ロジー)ミュージックと呼ぶこともできるだろう。たとえば久保田が「一見理路整然としたインターフェイスを被せることによってコンピュータを道具のように見せかけ(中略)コンピュータの内側に潜む豊穣なまでの可能性」を、コンピュータを単に「道具」と矮小化することで覆い隠されてしまうことを危惧し、「デジタル・マテリアリズム」と呼ぶ「コンピュータをコンピュータそのものとして」デジタル表現の「素材」として捉えることを提案しているように、ポスト・テクノ(ロジー)・ミュージックにおいてはたとえばマニュアルに書かれているようなコンシューマー・レヴェルでの使用法とは発想を異にする要素が楽曲に取り込まれることになった。いわゆる「グリッチ」とよばれるデジタル処理上のエラーが使用されることはその特徴となっている。

 しかし、制作環境、音楽配信などのインフラストラクチャーの革新や作家や音楽の消滅を仄めかすオヴァル(マーカス・ポップ)、椹木野衣らのテクストも刺激的ではあるが、それとは別に後半の、テクノロジーが音楽を、ひいてはそれを享受する人間をどこへ導こうとしているのかを未知の位相に飛躍させるかのような展開は非常に示唆的である。たとえば道具としてのテクノロジーが「身体の拡張」を意味するものであるのに対して、かつての電子音楽は「知覚の拡張」を目論むものだったはずである。それは、この種の音楽が再生装置の能力や特性、その環境に強く依存し、テクノロジーが音楽の内部に浸透し、その重要な構成要素となるにまで到っているように、人間の知覚のポテンシャルを凌駕するような音楽の可能性について示唆されたものでもある。巻末に収録された佐々木による論考「「サイレンス」の解析——「小文字の音」をめぐって」(これは『テクノイズ・マテリアリズム』から連続して読まれるべきテクストである)において論述されている*0こと坂田能成によるCDでは人間の聴取可能な周波数帯域を超える二〇Hz以下と二〇〇〇〇Hz以上のサイン波を使用した楽曲が収録されている。とはいえ、ここにはどのような楽曲が収録されているのかを聞くことはできない。ただレヴェルメーターの振幅によってそこに収録された音の存在を確認することができるだけである。空気、あるいは物質の振動にまで還元された音のありようを知覚するまでに到る、テクノロジーが人間のポテンシャルを凌駕するというヴィジョンは、われわれを、そして音楽のありようをどのように変容させるのか。テクノロジーが孕む可能性、限界を美学的にどのように回収していくのか。「ポスト・テクノ(ロジー)ミュージック」とはそれを問うことで始められるものであろう。

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