渚にて——ニューアルバム『花とおなじ』によせて


『図書新聞』2678号(2004年5月22日)

 いつ聴いてもどこかなつかしく、しかし、いつ聴いても新鮮な、あたらしい感じを与えてくれる「アルバム」がある。僕にとってのそれとは、たとえばフランク・ザッパの『ルーベン&ザ・ジェッツ』とかニック・ドレイクの『ブライター・ライター』、T-REXに改名してからのファースト・アルバム、ロキシー・ミュージックのファースト・アルバム、あるいはコックニー・レベルの『さかしま』、はたまたXTCの『スカイラーキング』などなどを思い出すことができる。しかし、ここでいう「なつかしさ」とは、それらのアルバムと僕との直接的な関係において、つまり個人的な追憶の対象として「なつかしい」のでも、「なつかしい」音楽スタイルとかいったある種のノスタルジックな表現といったものによるのでもない。どうもそれはむしろアルバムと直接的に関係のない個人的な記憶に属する自分の感情が刺激され、ひっかかりをもってしまうような何かであるようだ。

 音楽とはある時、記憶に属する過ぎ去った時間である「過去」や自分の脳裏にぼんやりと焼きついた「夢」のようなものと結びつき、ひとそれぞれの記憶として像を結ぶための触媒のような働きをするものかもしれない。たとえば水平線の広がる「海」を見たときに感じる郷愁のようなもの。それは体験としての記憶を超えて、よりもっと根源的なものと共鳴するような何かなのだろう。海から吹きつける風を頬に感じる時、川の流れに耳を澄ましている時、感情にさざなみが立つというような体験。そして、それはまたいつもはじめて出会ったかのように新鮮で、かつ、驚きや発見や刺激に満ちているものだ。

 「渚にて」は、柴山伸二と竹田雅子のふたりを中心としたグループである。九二年より制作を開始し、三年をかけて完成させたファースト・アルバムを九五年に柴山の自主レーベル「オルグ・レコード」より発表し(現在は原盤制作を「オルグ・レコード」で行ない、P-Vineより発売されている)、これまでに編集盤をのぞくオリジナル・アルバムを四枚発表している。そして、この五月に五枚目のアルバム『花とおなじ』を発表した。海外でもその評価は高く、ジム・オルークやパステルズのスティーヴン・パステルなど彼らにラブ・コールを送るミュージシャンも数多い。一時はオルークのバンドのドラマー、ティム・バーンズがドラムスで参加していたことがあるし、「渚にて」以前に柴山を中心としたグループ、ハレルヤズの音源を含む編集盤がパステルのレーベル「ジオグラフィック」からリリースされてもいる。

 前作から三年ぶりになるというこの新作は、おそらくたしかに作曲期間も含めた制作期間中の時間軸を含み込んだドキュメントとしての、スナップのような趣をもっているといえる。冒頭に僕は「アルバム」と書いたけれど(この「アルバム」という言葉は、果たして今どれだけ一般的に使われているのだろう)、先述した「なつかしさ」と「アルバム」という響きにはどこか通じるものがある、と思う。もちろん「アルバム」とは、「いくつかのシングル盤をまとめたもの」ということに由来するものだが、一曲一曲がある時間のスナップのようになって聞こえてくるとき、アルバム全体はより「記憶」つまり「なつかしさ」をたたえたものになるのではないだろうか。「渚にて」のアルバムも、そんな「なつかしさ」と「あたらしさ」を感じさせてくれる作品である。もちろんそれは収録された楽曲によるものであることは確実なのだが、たとえばアルバムをリリースするペースがゆっくりしていることも関係していることだろう。三年、それだけの時間がこの作品のなかに響いている、そしてそれが聞こえてくる。こんなにLP(というのも今や死語でしょうか)というものを「アルバム」と呼ぶことがしっくりくるバンドもいないのではないだろうか。

 「渚にて」の歌詞には「船」、「波」、「川」といった「海」を連想させるものが多く登場する。あるいは「太陽」、「山」、「花」、「草」など自然や季節にまつわる言葉が非常に簡潔な言葉によって紡がれている。たとえば、よく見知ったものの変わりようにはなかなか気づかずに、たまにその変わりように気がつき、ふと時間を意識させられることがあるように、季節の移り変わりなど、何かががらりと変化するというようなものではなく、感覚的に変わっていくことが認識させられるような、普遍的、永遠なように感じるものの移ろいがそこにはある。

 ロックというものがある種歳をとることを拒否する音楽だとするなら、「渚にて」の音楽とは、それが「いつか終わる」ということを知りながら、永遠を希求するものだ。渚に寄せては返す波が、その境界線をつねに揺らがせているように、そしてつねに侵食され続けているように、「渚にて」の音楽にはそんな不安定さのなかの真実とでもいうべきものが隠されているのだろう。

 こんなふうに、音楽それ自体を言葉で正確に記述することは不可能かもしれない。なぜなら音楽は言葉ではない。しかし、ある種の優れた音楽とは鏡のようなもので、聴き手である「私」を映し出してしまうことがままある。「渚にて」の音楽もそんな種類の音楽にちがいない。あらゆる表現は享受されることによって成就するとすれば、それを見た、聴いた「私」という要因を無視しては語れないということも事実だろう。では、「渚にて」の音楽をどう言葉にすればいいのか、もちろんある程度のロック愛好者に向けてならば、ジョン・ケールとかアンソニー・ムーアなどのような玄人向けのロックを思わせる、「大人のロック」であるなど、かろうじて説明することもできるだろう。しかし……

 「渚にて」の音楽は、ある時ふと届けられる手紙のようなものだ。花が毎年花を咲かせるように、それは届けられ、いつ聴いてもそれは「知ってる感じ」というどこか「なつかしさ」を喚起させる。今回のアルバムは、「渚にて」というバンドのひとつの「到達点」には違いない。しかし、それは波間をゆく船の蜃気楼のごとく、また遠くへ、そしてまた遠くへ、つねに遠くへ向かっていく。つまり、「渚にて」の音楽とはいつまでも到達せず、そのことによって「円熟」の境地へ達するようなことから逃れるものではないだろうか。

 柴山自身が前作である『こんな感じ』をスタンダードであり、この『花とおなじ』をデラックス・ヴァージョンであるというように、いつもの「知ってる感じ」の「渚にて」でありながら、今作がより音楽的な高みへと向かったことがよくわかる。いつにも増して言葉が音楽へと昇華しようとしているのが聞こえてくるのは、前作にも顕著だった歌のメロディが音楽と同化するように表情豊かに響いてくるからだろう。じつは本作では、最初に聴いた時には歌詞がよく頭に入ってこなかった。それは、たとえば「いばら」などに顕著な、メロディによって引き延ばされた言葉が、より演奏と音とに同化していたため意味を追うよりも先に音楽として認識されていたからかもしれない。また、「川」では、非常にシンプルなひとつのセンテンスが、幾重にも重なりながら、まるで川のせせらぎを聴いているような印象を与える。唯一のインストゥルメンタル曲である「妻」という曲には言葉が必要ではなかったのだろうということは、なんだかとてもよく分かる気がするのだ。

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