三輪眞弘インタヴュー

『intoxicate』Vol.88(2010年10月)

たとえば、CDに記録された演奏を聴くことと実際の演奏を生で聴くことは同じ体験ではない、ということは比較的理解されやすい。にもかかわらず、それがどちらも同じ「音楽」と呼ばれているということに疑問を持つ人はあまりいないように思える。なぜなら、わたしたちは録音され、複製された「音楽」を、毎日のように放送やインターネット、あるいはCDやiPodといったメディアを介して耳にするという環境に慣らされてしまっているからだ。それが演奏者不在の、どこかで録音され、複製された「音楽」の再生である、ということなどを意識することなしにそれを日常的に享受しているということは、あらためて考えれば不思議なことではある。わたしたちが普段、特に疑問に思うことなくやり過ごしてしまっている、「演奏されるもの」と「再生されるもの」としてのふたつの「音楽」の現われ。聞こえてくるのはたしかに同じ(ように聴こえる)「音楽」であるはずなのだが、複製メディアによって、演奏の代理による音楽の聴取体験が生まれ、ある意味では実体を伴わない「音楽」が登場したことによって、その体験において、何がどのよう変わってしまったのか。

三輪眞弘は、アルゴリズミック・コンポジションと呼ばれる、コンピュータを用いた作曲の可能性を探求している作曲家である。また、現代のテクノロジーを援用して作曲を行なう三輪は、しかし、前述したような「メディアを介して聴かれる音楽」ではなく「人間によって演奏され、その場で聴かれる音楽」を制作する作曲家でもある。先頃上梓された三輪の著書『三輪眞弘音楽藝術 全思考1998—2010』(アルテスパブリッシング)に一貫して主張されていることも、「メディアを介した音楽」の趨勢の中で、現在、本来そうであった「人間によって演奏され、その場で聴かれる音楽」という表現がどのようにして可能であるのかという問題である。
「この10年以上前から基本的に繰り返しわき起こる疑問というのは、そもそも僕が音楽を志すきっかけになったレコードや放送による音楽体験が、はたして「音楽」だったのかどうかという根源的な疑問にまで行き着いてしまうということなんです」

それは「音楽とは何か?」という根源的な問いと重なり、「音楽」と呼び得なかったはずのものをどのように規定し、本来の「音楽」からどう区別していくのかを思考することへとつながる。そして、それは必然的に、メディア論へと発展していった。三輪は、この「録音したものを再生することによって聴かれる作品」を「音楽」ではないとする考えから、それを「録楽」と名付けることで、複製技術を基盤とした「装置による表現」そして、芸術ならざるものとしての「メディア・アート」へと接続することでさらに思考を展開しようとする。
「はっきりしていることは、永い音楽の歴史の中で、いま音楽で起きていることは現代音楽やポピュラー音楽も含めて、音楽史や音楽の知識ではまったく説明できないんです。それにはまったく違うカテゴリーの知識や思考が必要になる、という意味では、これ以上先はメディア・アートやテクノロジーを問題にしないと、それが何なのかということへの答えは出ないだろうということなんです」

12年という年月の間に書かれ、纏められたテキストは、そのまま三輪自身がそうした状況への対し方を模索するプロセスでもあった。その間には三輪の作風にも変化がみられる。しかし、実際にそれぞれのテキストにくりかえし登場する問題意識は、三輪が一貫して同じ問題をさまざまな個々の作品という側面から思考し続けていることのあらわれだろう。
「たとえば、最初に出てくる98年の《言葉の影、またはアレルヤ—Aのテクストによる》や2000年に作ったモノローグ・オペラ《新しい時代》などのテクノロジーを意識した作品を発表した後、そこから急に《またりさま》(2002)を作って、人力アンサンブルを始めたりしました。それは、僕にとっては非常に必然的で、作品の見かけは全然変わってしまっているけれど、次はこうなるしかないだろうという転機だったわけです。だけど、考えていることは基本的にまったく変わっていない」

《またりさま》は、「人力による演算システムとしてのアンサンブル」として、「コンピュータ空間の中で考え出されたアルゴリズムを現実空間の中で人間たちが実際に行なう」、「逆シミュレーション音楽」という新しい作曲技法の根本となる方向性を示した作品である。そこから、三輪の作品は「人間によって演奏される」という側面と、たとえ演奏に電子楽器などを使用していなくとも、それがテクノロジーがなければ発想し得なかった音楽のあり方、形態を提示する作品であるということに対して、さらにテクノロジー音楽としての批評的な側面を強めていくようになる。
「そして、その《またりさま》以後の展開がこの本の中心になっている「逆シミュレーション音楽」というアイデアです。そして、その次になにをやるかといった時に、今考えているのはICCでも発表した「新調性主義」という方向性で、これは来年オーケストラ曲を書く予定です。それと同時に積年の疑問にいよいよ真正面から取り組むという意味でメディア・アートというキーワードがあります。そこで自分に何ができるかを考えた時に、僕にとってはそれまで地道にひっそりと活動していたフォルマント兄弟の活動しかないだろうということで、佐近田展康さんに相談したんです。それが僕自身のここ1、2年の活動の変遷なのですが、とにかく「逆シミュレーション音楽」までを形にしておこうとして纏めたのがこの本ということになります」

フォルマント兄弟とは、「父親ちがいの異母兄弟」三輪と佐近田が結成した「作曲・思索のユニット」であり、「テクノロジーと芸術の今日的問題を「声」を機軸にしながら哲学的、美学的、音楽的、技術的に探求し、21世紀の「歌」を機械に歌わせること」を目指すものである。2009年に《フレディの墓/インターナショナル》が、リンツで開催されるメディア・アートの祭典、アルス・エレクトロニカにおいて入賞し、その基盤となるテクノロジー論、芸術論へも言及していくなどの活動を展開している。
先にあげたように、この本は、三輪のこれまでの音楽的な思考をまとめたものであるが、次なるフェイズであるメディア・アートは、「録楽」を「音楽」と区別することで、むしろメディア・アートの側の問題として考えることで展開していこうとするものだ。

「それを音楽と呼ぼうが呼ぶまいが、録楽というものが、人々の心に刻まれ、人々の意識に多大な影響を与えるようなマスに訴えかける力を持っている。それを自分なりに理解したいという素朴な欲求と、それは「録楽」なのだから自分とは関係ないという態度は現代に生きる作曲家として、やはり不自然ではないかということなんです」
まったく異なる成り立ちを持つ「音楽」と「録楽」では、それが生み出される環境、享受され継承されるシステムそのものも異なる。かつて「音楽」はどのようにして生まれ、どのように継承されてきたのか。かつて「音楽」は、わたしたちの生活により身近なものとしてあり、それを必要とする人たちの間で演奏され続けてきた。そのような「生きられた音楽」をどのように作ることができるのか。たとえば、「逆シミュレーション音楽」では、架空の伝統芸能、民俗芸能を作る、というもうひとつの重要なコンセプトがある。

「いま僕らが問題にしなければいけないのは、伝統や文化がテクノロジーによって駆逐されているということで、それが単に時代とともにゆっくりと変わっていくものだとは、この100年来の変化を思うと到底言えなくなっているということだと思います」
それは、架空の由来を捏造することで「音楽」が存在する根拠を仮構し、「メタ音楽」化することで、もういちど本来の「音楽」のあり方を提示してみせるものだろう。しかし、それは現状の「音楽」を継続することによってでは、実現することが難しいということを仄めかすものでもある。

先頃、三輪はモノローグ・オペラ《新しい時代》を作っていた時期に制作された「布教放送」を再開した。それは、ネットワーク上に流れ続ける不思議な旋律を神からのメッセージと信じる信仰集団《新しい時代》の布教放送であり、永遠に音を生成し続けるコンピュータからの出力を「電気文明が続くかぎり」インターネットを通じてストリーミング放送するという、メディアを介した作品である。(rtsp://neuezeit.org:554/nz.sdp)
「アルゴリズミック・コンポジションでは、乱数を使って無限に組み合わせを作ることができますが、コンサートなどの時間の中では、その一部を切り取ったものでしかなく、乱数を使う意味がなくなってしまうというアンビバレントな問題がいつも付きまといます。だとしたら延々と音楽を流せる放送ならば、それがもっとも表現形態として正しいものに違いない。結局、誰も聴かないので長い間やめていましたが、この本を作っているうちに、「いや、誰も聴かなくてもやろう」と思って再開しました。それを「音楽」と呼ぶかは別にして、そういうものの中でしか成立しない超体験みたいなものとか、あんな素朴なものが聴かれるために、ネットワーク技術から電力供給網まで、どれだけの途方もないプロセスがこの世界の中で成立しているのか・・・現代の社会で現実に起きていることを感じつつ、自分の作品として位置づけようと思っています。あくまでも、人力とかコミュニティの中で成立する作品だけに音楽を限定して考えることはもはや「逃げ」でしかないんだと思うんです」

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