「けれども私は此処にいる」

『図書新聞』2001年10月6日号

 この九月末、PHEW関連の作品が三種ほぼ同時に発表された。ひとつはボアダムス、羅針盤の山本精一と結成したパンク・バンド、MOSTのCD。さらに映画音楽家、DOWSERの長嶌寛幸とのプロジェクト、BIG PICTUREのCD。そして、アーント・サリー、PHEW BAND、そして前述のMOST、BIG PICTUREのライヴ映像を映画監督青山真治、映画評論家樋口泰人が編集、構成したヴィデオ『Phew Video』である。

 PHEWは、一九七八年にバンド、アーント・サリーとして活動を開始し、七九年バンド解散後ソロへ、八〇年代間断的に活動を続け、九〇年代、特に後半以降現在にいたるまでさまざまなコラボレーションを含め、今までになく旺盛な活動を行なっている。また、たとえば今回の共演者、制作者たちがそうであるように、デビュー以来、つねに同時代の感性、才能と呼応した活動を続ける稀有なアーティストでもある。

 本人たちの言によれば「パンク・バンド」であるMOSTは、実際に歪みまくったギターのカッティング、性急でハイ・テンションな演奏、エモーショナルなヴォーカル、レコーディングは一日、全十二曲三五分、ほぼ一曲あたり三分と、いわゆる「パンク」のフォーマットにもしっかり基づいている。先立って発表されたアーント・サリーの未発表ライヴ『LIVE 1978-1979』においてもバンド最初期の荒削りなサウンドを聞くことができたが、アーント・サリーの残した唯一のスタジオ録音作品はむしろポスト・パンク的な、サイケデリックな浮遊感漂う楽曲が多く収録されていたから、こうした「パンク」な作品をPHEWが発表するのは初めてのことになるのかもしれない。しかし、ここに聞かれる楽曲は、本人たちの意図はどうあれ、七〇年代末のいわゆる「パンク」の再現を目論むものとは一線を画するもののように思える。もちろん二〇年以上もの時を隔てたこの作品が当時とまったく同じ感性を共有する訳もなく、そこからはPHEWの、そして山本精一の現在形の「パンク」がしっかりと聞こえてくる。あるいはそれはまさに字義どおりの意味での「ハード・ロック」だといってもいいかもしれない。言葉とその言葉が必要とした音が、あるいはその逆が、まるで鋭利な刃物のように突きつけられているようなのだ、聞く者の心に。それは一曲目「ないないない」に端的に表されている。「なにもすることがない/けれど/いてもたってもいられない」と歌われる、この「けれど」で繋がれたふたつの相反する「ない」の振幅がこの作品を通しての原動力となっているように思える。かつてアーント・サリーで「どうでもいいわ」と歌ったPHEWは、ここでは無関心を装う余裕はない、とでもいうかのように矢継ぎ早に言葉を繰り出している。こうした焦燥感を表現するのに「パンク」は最適な方法だ。

 しかしMOSTで歌われる言葉は「パンク」的なアジテーションではなく、むしろPHEWにとっての「歌わないではいられない」「叫ばないではいられない」ということの表明、決意のように聞こえないだろうか。必然的な音と言葉の絡まり。「なにもしていないのに/時間がない」「何も/起こらなかったことを/惜しんでばかりいる」など、ひりひりと傷口に染むような実感を伴ったフレーズが次々と投げつけられてくる。これらの言葉はPHEWの口から一体どこへ向けられたものだろうか、僕たちに、そしてほかならぬPHEW自身に。決して発散されることなく心に澱のように溜まりつづける言葉。僕は彼らのライヴにはまだ足を運んだことがないが、ライヴにおいてこそ、この痛みと真正面から向き合いそれを燃焼させることができるのかもしれない。それこそが彼らの言う「パンク・ロック」にほかならないだろう。

 BIG PICTUREは以前にライヴを見たことがある。じつはそのときに楽屋で本人と挨拶を交わしたことがある、PHEWは全然覚えていないかもしれないが。ライヴ前の神経質そうに緊張した面持ちがとても印象的だった。ひとりサンプラーを操作し、曲間にデータを入れ替えながら歌っていた、その時のライヴでは打ち込みのバックトラックが硬質なテクスチャーを作っていたように記憶しているが、今回の作品は千野秀一、近藤達郎らさまざまなゲストを迎え、エレクトロニクスと生楽器とを併用することで、むしろそこに有機的な印象を与え、ときに暖かささえ湛えた作品に仕上がっている。PHEWのヴォーカルは、その凝縮されたイメージの奔流のような歌詞、断片的な情景を綴ったような言葉から大きなイマジネーションの広がりを感じさせるものだが、時折MOST同様聞き手の懐に滑り込んでくるようなフレーズが潜んでいる。いつもPHEWのヴォーカリゼーションには自然な音程的、フレーズ的「はずし」が含まれているのが特徴だが、ここでの素直な歌い方は山本精一とのデュオとして発表された『幸福のすみか』での「シンプルなうた」を継承しているようだ。歌というよりは「うた」というのがふさわしい感じ。またよく聞き入ると演奏に点描的に、漂うように配された電子音がとても心地よい。BIG PICTUREにおける表現は前述したMOSTでの直情的な表現とは対極にあるように聞こえる。MOSTが世界と自分との違和感に対する表現だとすれば、BIG PICTUREはまさしくその世界の描写とでもいえるだろうか。その意味ではこの二枚が同時期に発表されることには必然がある。最終曲である「子供のように」はつい情動的になることを禁じ得ないほどの名曲だと僕は確信しているし、こんな無垢な「うた」をMOSTと同次元で表現することができるPHEWをほんとうに素晴らしいアーティストだと思う。それはPHEWがMOSTのような「パンク」的なパトスを内在させているからこそ到達することができる強度だと思えるのだ。よってこの二枚は同時に聴かれなければならない。「走る子供のように/一心不乱に」PHEWは大きな絵を描く、そこにはあらゆる日常、感情が塗り込められているはずだ。

 そしてPHEWの二〇年以上にわたる歩みを追ったヴィデオ。それぞれのロケーションで収録された映像は時系列に沿っては編集されていない。アーント・サリーとPHEW BANDの映像は素材自体が古く、またこのような形での発表を前提とされていなかったと思われるものだからか、だがこの構成がこのヴィデオを単なる貴重映像を収録したヒストリー物とは異なる作品として成立させている。まるで鏡像のような対応関係を見せるアーント・サリーとMOSTは、PHEWの熱い、しかし醒めたパフォーマンスにおいて通底しているように見える。そしてインタヴューを受ける素のままのPHEWが、そこには二〇年以上前に「けれども私は此処にいる」と歌った、凛としたPHEWが確実にいる。

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