【展示補足】年表解説

①…町人の多くは長屋住まいであり、食べ物を作る土地を持っていないため、商品を担いで売り歩く「振売」や一定の場所で販売をおこなう「立売」から食材を購入していました。

②…外食文化の発展には「振売」のような流通を担う人々や、魚や野菜の煮物を売る「煮売屋」や移動可能な店である「屋台」をおこなう人々の登場が影響しています。また、明暦の大火以降、復興のため江戸への単身男性が多く流入したのもその一因です。

③…明暦の大火直後、浅草・金龍山で茶飯・豆腐汁・煮染・煮豆などを提供する奈良茶飯屋が開店します。酒を置き、調理した食べもの(※)や食事を出す茶店は煮売茶屋(または料理茶屋)と呼ばれるようになっていきます。

※前時代までに上級層で発展した料理様式まではいかぬようなものであった

江戸前期は「振売」や「煮売」、「煮売り茶屋」といった外食文化が徐々に登場します。
しかし高度な料理文化は武家・公家や僧侶・神宮に加え上層町人といった少数の人々のみが担い手であり、享受者でした。

④…さらに高級料理屋へと延長していくものもあります。江戸前期から存在した「振売」や「屋台」は徐々に屋台が固定化した「小屋掛」、小規模な「見世」などの食事処になる場合も増え、代金を払えば誰もが自由に飲食することが可能となりました。

⑤…中世までは秘伝・口伝であった料理技術に関する料理本が、江戸時代になってから出版されるようになりました。しかし、江戸前期の料理書の内容は編著者としても読者も料理人にむけたものが多く、大衆へは広まりませんでした。江戸後期になると百珍物をはじめとして料理や素材の知識をひけらかし、食談義を愉しむ内容が増加し、執筆者や読者も大衆へと変化しました。

⑥…高級料理屋の客筋の多くは富裕層であったと考えられていますが、全く世間離れした空間ではなかったといわれています。高級料理屋は会席料理を提供する場所が多く、季節感をとりいれたコース料理を宴席で楽しみ、雰囲気を重視した点が煮売り茶屋との大きな違いとなっています。

⑦…この頃は庶民層まで料理文化は浸透していますが、水野忠邦による天保の改革により奢侈をただす精神論が優越し、華やかな料理文化は次第に沈黙することとなりました。幕末においても料理本や料理屋に目新しいものは出現せず、料理文化は停滞していったのです。

江戸後期に入ると三大改革が起こり、百姓一揆の発生件数の増加や、その規模の広域化と社会不安が増大する時期になります。ですがその一方で、料理文化は質的な転換を遂げ、社会の中・下層にも浸透しました。18 世紀には、貨幣経済を推奨した商人たちにより日本の経済が動いていることが明白となり、江戸の食文化は商人や職人によって支えられ発展を遂げていきます。

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