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いっしょにしないでほしい。どんな昔の体験とも、どんな痛みとも。

Cover Photo by name_ gravity on Unsplash

綿矢りさ「大地のゲーム」を読了しました。もう10年近く前に、図書館で借りて読了していたのを、改めてKindleで買い直しての再読でした。
この作品のある部分、かなり長い部分を、私は自分のノートに書き写したことを覚えています。まだKindleで読書することも、こうしてnoteを書くこともやっていなかったころでした。忘れていませんでした。次の箇所です。

「うん。でも、母親が〝私たちの親世代が子どものころ経験した地震災害も同じくらい規模が大きかった。地震のあとに津波が襲ってきた分、もっと悲惨だったといってもいい。でもあのときからも立ち直れたから、今回も絶対に大丈夫〟って書いて送ってきたの。私、それに腹が立って」
「分かる。すごくよく分かる」
 男子学生が屋上の外縁のぎりぎりの部分に立った。だれも彼を止めず、彼のシャツが風に吹かれてはためくのと、水平に伸ばした両腕が暗闇のなかおぼろげに見えた。地震が起こるまえなら、私や他の子も、危なすぎると青くなって止めただろう。でも私たちは、世界の割れる音を聞いてしまった。「いっしょにしないでほしい。どんな昔の体験とも、どんな痛みとも」
 強烈な罪悪感を身体の裏で感じながらも、私たちは生きのびたことを誇っていた。消えた街の明かりの分、私たちは自分たちが強烈な光源だと強く意識していた。

綿矢りさ.大地のゲーム(新潮文庫)(Kindleの位置No.710-718).新潮社.Kindle版.

その頃のノートはPDFにして残っていて、見てみると、2015年の1月のようです。9年前ですね。

「大地のゲーム」は、現在よりも数十年未来の日本(とは書いていないけれど)が舞台になっていて、大地震にみまわれた数か月後の、とある大学に通う学生たちが主人公です。引用した場面はその地震の数日後、日が暮れてから建物の屋上にのぼり、街の様子を眺めているときに、たまたま近くにいた女子学生と、やはり女子学生である主人公との会話です。
「いっしょにしないでほしい。どんな昔の体験とも、どんな痛みとも」
という一文が、心に残ったのです。

生き残った人たちは、時として「強烈な罪悪感」を抱くことがあります。東日本大震災で被災し生き延びた方々を取材した番組を通して、時折聞かれる言葉でもあります。もっとできたことがあるのではないか。自分が生き残ってしまってよかったのか。

生き残って良かったのだ。そこに理由なんか必要ない。

この作品全体を通して、私はそんなメッセージを受け取っていたのかもしれません。
ああ、ちっともうまく書けません。
もっと思っていることはあるはずなのに。