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南三陸を訪れて:前編(22歳春)

「はじめまして🌷」の投稿でもチラリと触れたのですが、私が自分が歳をとると共に考え方や感じ方が変わっていくんだと気づいたキッカケとなったエピソードをお話します。

「南三陸」というワードから連想する方も多いのではないでしょうか。そう、2011年3月に起きた東日本大震災に関連するお話になります。センシティブな内容ですので私のふとした一言で震災で傷ついた皆さんを嫌な気持ちにさせてしまう可能性もあるという思いと、この気持ちは共有したいという思いで投稿を迷いました。言葉選びを慎重に、一言一言に責任をもって発信しますが、この話題が苦手な方もいると思いますので無理してご覧にならなくて大丈夫です。もし私に興味を持っていただけたのなら、次回以降の投稿を待っていただけると嬉しいです。

南三陸は小さい頃から何度も訪れていました。祖母が宮城に住んでいるためです。遊びに行けば車で色んな場所に連れて行ってくれます。南三陸もその中の1つです。南三陸には「観洋」というホテルがあってそこで海を眺めながら南三陸キラキラ丼といういくらがたっぷりのった丼を食べさせてもらったり、南三陸さんさん商店街で地元グルメを楽しんだりします。震災当時11歳だったため震災以前の南三陸に関する記憶はなく、真新しい防波堤と不自然に更地と仮設の建物が広がる風景はまるでそれが南三陸のもともとの姿であるように無意識に捉えてしまっていました。それが自分の記憶の中の1番古い南三陸の姿でそれが当たり前になっていたんですね。だから、南三陸を訪れると純粋に「楽しい!また来たい!」と感じて、良くも悪くもそこが被災地であったことを意識しませんでした。

しかし、この春私はいつもと違うことを南三陸でしました。それは、防災対策庁舎を近くまで見に行く、というものです。ふと、近くまで行って見てみたいと考えたのです。南三陸の防災対策庁舎について知ってる方も多いのではないでしょうか。よく知らない方のために軽く説明しますね。防災対策庁舎は南三陸の被災地域に位置していて、今は鉄骨部分のみが残り、震災遺構として保存されています。この建物は3階建て+屋上でしたが、南三陸を襲った津波の高さは平均16.5mといわれ、屋上に避難した人も含め、職員及び地域住人43人が犠牲になりました。防災意識が高かった南三陸で多くの犠牲者が出た原因は、予想よりも遥かに高い津波が襲ってきたからだった、というのは今回調べてわかったことです。

では本題にもどりますね。当時ニュースでもよく取り上げられていた話で、防災対策庁舎の女性職員が最後まで南三陸の住人たちへ避難を促す放送を流し、そのまま津波に飲み込まれてしまったという話があります。この話は何度もニュースで取り上げられていたこともあり、当時から知っていました。知っていましたが、「すごいことをする人がいるんだなあ」と、尊敬の念を抱いたところで考えが止まっていました。

しかし、残されている防災対策庁舎を近くで見てその考えが変わったというか衝撃を受けました。防災対策庁舎の剥き出しにされた赤い鉄骨は、津波と瓦礫の圧力でほぼ90°曲げられている部分があり、鉄でできた外階段の手すりもぐにゃりと曲げられていました。それを目の当たりにして、金属さえもこんな姿にしてしまう威力の津波が生身の人間に襲いかかったのかと、信じられない気持ちになってしまい、涙が溢れそうになりました。そんな状況で自分の身の安全よりも避難を促した女性。最後まで放送をしながら冷たい海水に飲み込まれた。そんなことが、十数年前確かにここで起きたのかと私は呆然としました。震災から10年以上経ってやっと私はそれを理解出来たのです。祖母が近くにいなければ私は近くのベンチでしばらく泣いたことでしょう。ぐっと涙を堪えて防災対策庁舎の周りを1周しました。今はあんなに穏やかな海が、多くの命を飲み込んで連れ去ったのかと、観洋からみた美しい海を思い出しました。どんなに怖かっただろう、どんなに冷たかっただろう、どんなに苦しかっただろう、どんなに痛かっただろう。そんな目に合わなきゃならないなにかを、その人たちはしたのですか?どうしても、その人たちの人生の終わり方は、大好きな家族との別れ方はその方法じゃなきゃだめだったんですか?そんな怒りと疑問と悲しみとを抱いてもぶつける先はありません。相手は自然で人間の支配の外にあるものです。

後半に続く

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