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ジオウと十字架と神の許し 〜ジオウOQ適当考察備忘録〜

私は仮面ライダージオウに気を狂わされた人間なので2019年夏の劇場版「Over Quartzer」(以下「OQ」)についての話題もたびたびTwitterで垂れ流しているが、それについて以前こんな考察をしたことがあった。

上記のツイートではゲイツ=織田信長、ウォズ=ピエトロの立場として考察していたが、この記事はそこから派生して
・クララ=常磐ソウゴ
・ピエトロの十字架=「仮面ライダージオウ」というシンボル
・神=クォーツァー(常磐SOUGO)

として見ると、あらビックリ。戦国時代の恋愛模様と顛末はOQのストーリーとそれに伴うキャラクターの構造にピッタリ当てはめることができるのでは!? という瞬間瞬間を必死に生きながら思いついた幻覚系こじつけ考察のような何かである。
この時点で「お前の幻覚って醜くないか?」と思ったら引き返した方が吉だよ。あと真実かどうかなんて勿論分からないからね。
(ただ、この考察における「クララ=ソウゴ」に関しては他より要素としては強くない気がする。まあそれはそれで読んでくれるならば雰囲気でふわっと見てほしい)


※なお、大元としてこれを考えるきっかけとなった他の方の考察ツイートがあるので、参考文献としてリンクを貼っておきます。
その1
その2その3

「神」と「仕える者」の役割

ピエトロ曰く天罰(神の怒り)によって壊れ、その役目を奪われた十字架。ここで言う「神」を絶対の上位存在として世界を見下ろすクォーツァー=常磐SOUGOに置き換えると、常磐SOUGOという「神」は平成ライダーを醜いものと断じ、その歴史を収斂したジオウから仮面ライダーの役割を奪い取ったと言える。(十字架の破壊)
そしてこの時点では、まだピエトロの神は天上の存在。つまりウォズにとっての神も、本来の「我が魔王」だった常磐SOUGOである。
神に仕える役割を持つ者が普通の人間に囚われ、従っていた象徴を取り上げられ俗世から離れようとしたのだ。

2人とも奥底の本心としては既に愛する人と一緒にいたいという気持ちに傾いていて、抱えた役割(修道士・歴史の管理者)がそれを邪魔している状態だったのだろう。しかし、役割を捨ててまで彼らが本当に生きたい場所へ帰るにはそれを実行できるだけの理由…いわば「信ずる何か」からの刺激・後押しが必要だった。
というかお互い、クララとソウゴ(あとゲイツ)への説明に何となく言い訳というか未練がましさが垣間見える。どうにもならないと思ってる現状を、どうにか自分が納得できるようにしたかったのかもしれない。
迷える子羊。面倒くさいヤツだよ(身も蓋もない)

「神」の立場の変換

その後十字架は信長の手により蘭奢待を差し込まれ復活、ピエトロは(都合のいい)奇跡と神の許しという大義名分を得て真に愛するクララの手を取る決意をする。
この時ピエトロは十字架を直した目の前の信長をスルーし、神の許しを得たという端から見れば都合のいい変換を行った。だが、これは言うなればクララを導いてくれた信長を=神の立場として望み、置き換えたとも取れる。

ちなみにこのあたり、神=「救い主」という観点から見ると「救世主」と称されたゲイツと(ゲイツにとって)偽りの「神」に従うウォズの対決・説得シーンが少し面白くなると思う。(冒頭の引用ツイートも参照)
しかしゲイツはあくまで信長(魔王という「神」)の「影武者」だった。ウォズ自身を牽引するにはあと一歩足りなかったのだろう。(スルーされた信長) だが、その行動(蘭奢待を十字架に組み込む≒同じ立場から説得する)が心を揺らす切っ掛けだったのは間違いない。いちいち言い訳するな!面倒くさい奴!目の前の人間を好きになったのは神に従ったからじゃない、そいつと一緒にいた「お前自身」だろうが!!


閑話休題。
ここでの信長の立場、つまり「概念」がいわゆる神と同義にされたなら。壊れた十字架を元に戻した蘭奢待は主人公たる役割を失くしたジオウを新たな姿で蘇らせた「オーマジオウライドウォッチ」であり、それを与えた神とは「オーマジオウ」その人と考えられるのではないか?

蘇るシンボルとしての「ジオウ」とウォズが望む「神」

OQ中盤、常磐ソウゴが「自分」との対話の果てに見出した夢。そして「全ての平成ライダー」を受け継いで誕生した新たなるジオウの姿。
ベルトによりオーマジオウになるのではなく、ウォッチによってオーマジオウを継承するという選択。それは「未来におけるオーマジオウ」が「現在にして過去の常磐ソウゴ」と「ソウゴ自身の未来」を認めた証であり、オーマジオウという「現在の世界を統べる神」が与えた許しに他ならない。
ライドウォッチとは剛が語ったように、レジェンド達がソウゴを認め自らの歴史を託した印でもあるのだから。

クララが別れを経ても諦めず異国に渡り、信長の協力を得ながらピエトロとの再会を目指したように。ソウゴも多くの出逢いの末に自ら夢のルーツを思い出し、王たる証明のジオウと再会を果たした。
信長の持っていた蘭奢待のおかげで、本来とは少し形を変えて蘇った十字架がスタインベルト家の家宝となったように。「仮面ライダージオウ」というシンボルはここに未来を変えて再び蘇り、新たな時代へ受け継がれることとなったのである。

その時ウォズが自分の中の神である「我が魔王」は元鞘の主人である常磐SOUGOではなく、ずっと共にいた本に書かれているオーマジオウ≒仮面ライダージオウ/常磐ソウゴだと「望んだ」(変換した)……のだとしたら。
それは今まで従ってきた決められた未来など関係なく、自分の思うように生きるための第一歩である。後は皆さんご存知の通りだね。

まとめ & ウォズに必要だった「許し」

ここまでの構造を整理すると
・SOUGO(神)に奪われていたジオウの力(十字架)は
・魔王の名を冠されるもう一人の神・オーマジオウ(織田信長)の手によって復活し
・(ピエトロが『神』を置き換えたように)ウォズが仕える神は「常磐SOUGO」という“天上の絶対存在”から「常磐ソウゴ」という“地上の人間”へと変換され

・自分のための奇跡と許しを得て、思う通りに生きる選択をしたウォズ(ピエトロ)はソウゴ(クララ)と共に生きると決め
・ソウゴの元に戻ったジオウの力は未来へ受け継がれた(ピエトロの十字架は現代まで続くスタインベルト家の家宝となった)

ということになる。先述したようにこじつけ臭くはあるが、それなりに繋がってはいるんじゃなかろうか?

きっと、ウォズに必要だった許しとは本になど収まらない歴史。与えられた役割にだけ従わずともいい、思うままに生きてもいい未来もあるのだということだったのかもしれない。
ジオウの世界に復活した主人公であるオーマフォームとは神の許したる力で蘇った十字架であり、常磐ソウゴが至った時代を壊す『最終王者』の姿はまさしくウォズが奥底で望んでいた本心を「許し賜う」最後の後押しになったのだ。


なっが…結論に至るまでなっが…何コイツ……

都合のいい許しは悪ではない

本心を無視してあるべき役割に従うのは正しいことかもしれないが、それが幸せとは限らない。どうせ選ぶなら「やるべき」ではなく「やりたい」道に進んでしまう方がよっぽど幸福な可能性だってある。
だけどそれを一人で決めるには勇気が足りない。そんな時の後押しとして、心の中に信じるべき「都合のいい神」がいたっていい。

ピエトロとウォズが描いた都合のいい許しは、決して「悪」ではない。それは結局自分がこの先どう動くかを決めるために、自分が考えたことに過ぎないのである。最終的には自分自身の心を、意志を自覚して動くことが大事であり、何をするか決めるのは誰でもない自分なのだ。
エンジョイしなきゃもったいない、だって人生は一回なんだから。


かくして迷える子羊は神の奇跡とお許しを得て、無事に愛する者の元へ戻ることができたのである。めでたしめでたし。



(こう考えてみたら、逢魔降臨暦ってずっとオーマジオウという神を主体として書かれた聖書のようにも思えるかもね)

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