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北村薫「揺籠と編集長」

「本誌の賑やかし」で芥川賞を制定した。/文・北村薫(作家)

菊池が眉を吊り上げている相手は…

文藝春秋のこととなれば菊池寛。その『半自叙伝』から始める。読んだのは半世紀も前だが、次の箇所はよく覚えている。

一高を思いがけずやめねばならなくなった菊池は、〈「三越」が、「文芸の三越」と云ふ宣伝文芸の募集をし〉ていることに気づく。そこで、論文の〈「流行の将来」と云ふ課題に応募し、三等に当選して五十円を貰つた〉。助かった。まさに、干天の慈雨だった。

募集された何部門もの当選作は、大正3年、1冊の『文芸の三越』(三越呉服店発行)にまとめられる。それについて語るのが、ミスター神保町、八木福次郎。『書国彷徨』(日本古書通信社)に、こうある。

論文部門は1等しか活字化されていない。菊池は〈三等で五十円貰ったと書いているが、五十円なら二等で、三等は三十円だった。丁度その頃、寛の妹が結婚したので、半分の二十五円を送ってやった、と書いているので二等だったのだろう〉。

実に細かい。

菊池は記憶で書き、八木は現物を持っている。八木の方が強い。

で、――面白いのはその先だ。『半自叙伝』の続きは、こうなっている。『菊池寛全集 第23巻』から引く。

川柳に「駿河町畳の上の人通り」と云ふのが一等だつた。名作だと思つて、自分は感心してゐた。ところが、一昨年であつたか、誰かの「川柳評釈」と云ふ本を見てゐると、この句を徳川時代のものとし得々として、評釈してゐるのだ。自分は嘲笑したい気持だつた。何と云ふ馬鹿な奴だらうと思つた。自分は、何かに書いて嘲つてやりたいと思ひながら、そのまゝになつてゐたのである。所が去年「川柳やなぎだる」を見てゐると、あにはからんや。この「駿河町畳の上の人通り」の句が、歴然として載つてゐるのである。この句は、まさしく江戸時代の三井呉服店のスケッチなのだ。「文藝の三越」の1等当選はまさしく泥棒なのである。それとは知らず、「川柳評釈」の著者をやつゝけようものなら、とんだ恥をかくのであつた。「やなぎだる」にある相当の名句を当選させた選者の失態は勿論だが、その当時誰にも気づかれずまんまと賞金をせしめたにしろ、十幾年かの後に僕にその悪業を見つけられるところを見ると、天網恢々疎にして洩さずである。しかし、この誰だか分らない不徳漢のために、自分は危く恥を掻くところだつた。

怒りを隠さない。まことに菊池らしい。息遣いが伝わって来る。

ところで、この『文芸の三越』の川柳で一等となった、〈駿河町……〉の作者は誰か。解けない謎としか思えない――ところが、入手困難な『文芸の三越』を持っていれば分かる。八木福次郎が教えてくれる。

菊池がきりきり眉を吊り上げている相手は、何と菊池のよく知っている人物だった。

――吉川英治。

〈つひ不正確な記憶のまゝ〉

驚かれるだろう。しかし、吉川が着たのは濡れ衣なのだ。八木の文章の題は「菊池寛の勘違い――応募川柳」。

どういうことか。

八木が、『文芸の三越』を求めたのは〈吉川英治が無名時代に懸賞募集に応募して川柳が入選した作品がこの本に入っているということを何かで読んで記憶していた〉からだった。1等になった句は吉川独活居の「駿河町地を掘り空へ伸してゆき」。独活居、即ち吉川英治。

となれば、ことは明らかだ。菊池は一等の句を〈駿河町ナントカカントカ〉と記憶し、『川柳評釈』を見た。その途端、おぼろだった中七下五の記憶が〈畳の上の人通り〉と入れ替わったのだ。こういうことは普通にある。

吉川と話している時、ふと『文芸の三越』の話になり、菊池が腕を振り、

――あの、不徳漢っ!

と、声を荒らげるところを想像すると、何ともおかしい。わけの分からぬ、吉川英治の顔も見たい。

『半自叙伝』は『文藝春秋』連載だったが、菊池自身、昭和4年11月号の「編輯後記」で、

どうも、記憶がたしかでなく、と云つて、一々しらべて書く程のものではないので、つひ不正確な記憶のまゝ、書いてゐるのである。

といっている。

確かめることなく、ただひたすらに怒る菊池寛。そこに、よくいえば真っすぐであり、率直な人間像が浮かんで来る。

古書の神様の「勘違い」

この件は、八木の、よりポピュラーな『古本蘊蓄』(平凡社)にも出て来る。八木のコラム傑作選だが、1992年に書いた「吉川英治の本」、2001年の『文芸の三越』と並んでいる。おかげで、八木自身の誤りもすぐに分かる。

前者には〈明治四十年の末頃、三越呉服店(三越百貨店の前身)が、小説や論文、歌や俳句、川柳など十二種の文芸に総額三千円の賞金をかけて作品を募集したことがあった。英治は吉川独活居の名で、川柳“駿河町地を掘り空へ伸してゆき”を投じて第一等になり、賞金二十円を得た。明治四十年は英治十五歳の時であった〉となっている。これが間違い。

後者には、〈大正三年(一九一四)一月、三越呉服店は『文芸の三越』という四六判二五四ページの本をだしている。三越では明治四十年にも十二種の文芸作品に賞金千円をかけて募集したことがあって、大正二年は二回めであった〉となっている。

古書の神様のような八木だが、誤ることはある。1992年のコラムでは、明治40年の募集しか頭になかった。吉川がそれに応募したというのは、八木の〈勘違い〉。

大正3年の『文芸の三越』は前年の当選作を載せたものだった。どういうわけか、賞金総額も違っている。

明治40年には、菊池はまだ高松中学にいた。菊池や吉川が応募したのは、大正2年、2回目の時であった。

後者の文章では、きちんと直っている。前だけ見たら間違う。神様の文章でも、引用する時には気をつけないといけない。いずれにしても『古本蘊蓄』ではさらりと書かれているので、菊池の怒りの印象は薄い。

さて、漱石や芥川なら文章の細かいところにまで注釈がつけられる。『半自叙伝』は菊池の知られた作だが、『菊池寛全集』や岩波文庫版でも、この〈勘違い〉には触れられていないようだ。ここを読んで『文芸の三越』を探し、〈不徳漢〉を見つける探偵読者は、まずいないだろう。

たまたま『書国彷徨』を読んだところで、昔、読んだ『半自叙伝』を思い出し、

――そうだったのか!

と膝を打つ者も少なかろう。わたしは、打った。

となれば、この機会に、八木の指摘を紹介するのも、意味あることと思う。

武者小路実篤の菊池評

いかにも菊池らしい誤りだ。こういう感情に正直なところは、多くの人が語っているが、武者小路実篤の、河盛好蔵、亀井勝一郎との鼎談「私の歩いた道」(『武者小路実篤 対談 鼎談集』芳賀書店所収)における言葉など、比較的知られていないのではないか。

武者小路は、菊池寛とはこういう人物だったという。

人が困っていると思うと慰めたくなる性質らしくて、こっちが世間から新聞なんかで悪くいわれていると、手紙をよこして、自分はあなたの方に同感しているとか、そういうことを知らしてきたり、僕が一番初めの娘を始終抱いて寝かせているんで骨が折れると白樺に書いたら、すぐ揺籃を送ってきた。親しくしているわけではないが、いきなりそういうものを送ってくる。そういう実行力をもっていたんだね。

――揺籠(ゆりかご)!

こういう人物が出したのが『文藝春秋』であり、毎号、読者に親しまれていた短文が、芥川龍之介の『侏儒の言葉』であり、菊池の『話の屑籠』だった。

芥川も逝き、さらに直木三十五までも失った菊池は、昭和9年4月号にこう書く。

身辺うたゝ荒涼たる思ひである。直木を紀念するために、社で直木賞金と云ふやうなものを制定し、大衆文芸の新進作家に贈らうかと思つてゐる。それと同時に芥川賞金と云ふものを制定し、純文芸の新進作家に贈らうかと思つてゐる。これは、その賞金に依つて、亡友を紀念すると云ふ意味よりも、芥川直木を失つた本誌の賑やかしに亡友の名前を使はうと云ふのである。もつとも、まだ定まつてゐないが。

広く知られた言葉だが、いかにも、その人らしい。雑誌のため〈芥川直木を失つた本誌の賑やかし〉になるのは、客観的事実である。

――事実なら、そう書くのがフェアだ。

と思う。嘘をつきたくない。それが、菊池寛なのだ。〈亡友を紀念すると云ふ意味より〉と菊池は書く。〈本誌の賑やかし〉という。

しかし芥川賞直木賞が、菊池の荒涼たる心を乗せる揺籠だったこともまた、確かだ。

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菊池寛

〈僕は美男に写つてゐる〉

芥川の死を受けて、『文藝春秋』は『芥川龍之介追悼号』(昭和2年9月号)を出した。

後に何度も引かれることになる、諸家の、芥川をしのぶ文章が並んでいる。巻頭には〈書斎に於ける芥川龍之介氏〉という写真。まだ痩せが目立たぬ頃であり、目元涼やか、穏やかな表情だ。

写真は追悼号としてあるべきものだが、ページをめくって行くと、広告欄に、

本誌巻頭に掲載せる故芥川氏の肖像は南部修太郎氏が大正十年三月十日撮影したものであります。御希望の方には銀座資生堂写真部に依頼し、四つ切大に引き延ばしたる上、

実費送料共 一枚 三 円

で頒布することに致しました。(書斎に掲載するには四つ切大が尤も適当です)御賛成の諸君がありましたら、郵便小為替にて御送金下されば、送金後十日以内にお送り致します。但し送金は絶対に小為替の事

と書かれている。

撮影者の南部修太郎は、穏やかな人柄で芥川に受け入れられ、親しまれた。

芥川の南部宛て葉書を見ると、大正9年7月3日、〈難有うあの位君が好い男に写るなら僕も映してくれ〉と書いている。

大正10年、5月4日には〈写真を難有う〉、7月12日の〈写真中書斎に於ける僕は美男に写つてゐるから貸してやつても好い〉とある。その前に南部の妹のことが書かれているから、妹に貸してもいい、という意味であろうか。

これが、その写真に違いない。

実費であろうとも、販売という形に現代なら嫌な反応があるのではないか。しかし、『文藝春秋』は動じない。

――芥川自身が気に入っていた元気な頃の姿を、多くの人の心にとどめてほしい。

そういう思いが、この写真販売にはある。儲かりなどせず、ただ手間のかかることだ。しかし、世間の口はうるさい。

――亡くなったばかりの芥川の写真で、金を取るのか。

という声もあろう。

そんなことなど歯牙にもかけない。敢然と、なすべきことをする。この辺に、会社の〈人格〉を感じる。

芥川

芥川龍之介(撮影:南部修太郎)

菊池が名編集長と評した男

その『追悼号』で、芥川の死の連絡を受けた日のことを語っているのが佐佐木茂索だ。「心覚えなど」という文章に、届いた至急電報が引かれている。

『キトク スグオイデマツ アクタガワ』

汽車に乗り、同行したのが久米正雄であり、そして菅忠雄だった。

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