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原田マハさんの今月の「必読書」…『フィンセント・ファン・ゴッホの思い出』

ゴッホを世に出した義妹の記録

ルソー、ピカソ、モネなど、主に西洋近代美術史に名を残したアーティストたちにまつわる「史実をベースにしたフィクション」を私は創作してきた。しかし題材にするのを注意深く避けていた画家がいた。フィンセント・ファン・ゴッホである。

今や美術史上で最も知名度が高く、世界中の美術館に作品が収められているゴッホは、私にとっても長年気になる存在であったが、一度手を出すと深追いしてしまうだろうという予感があった。結局、ゴッホを主人公のひとりにした小説を上梓したのだが、予感は的中し、その後もゴッホを追いかけ続けることになった。

なぜゴッホがそれほどまでに強い磁力を保ち、いまなお私たちの関心を引き寄せ続けるのか。彼の作品の革新性や迫力、創作に込められた情熱など、作品そのものを通して伝わってくるものも多いが、37歳で自殺した(といわれている)画家の人生が、評伝、小説、映画、舞台等々、様々なメディアに転換され、再生されてきたことで、私たちは彼がどういう画家だったか、追体験してきた。それらのメディアで多様な角度から紹介されてきたゴッホの芸術への激しい希求、ほとばしる情熱、壮絶な人生。私たちに「もっと知りたい」気持ちにさせる多くの要素を、生前ほとんど評価されなかったこの画家は持ち合わせているのだ。

実のところ、私がゴッホについて現在最も関心があるのは、彼の作品や人生についてではなく、生前わずか一点しか作品が売れなかったのに、彼の死後、どのようにして世界で受容され得たのか、ということである。その背景にはひとりの女性の存在が欠かせなかった。ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル――ゴッホの弟・テオの未亡人、つまりゴッホの義理の妹が、恵まれなかったこの画家の存在を世界に知らしめたのだ。

本作はヨー自身による義理の兄の評伝である。ヨーとテオの結婚生活は2年ほどで、男の子を1人もうけたが、ゴッホの死の半年後、テオも後を追うように他界する。ヨーに残されたのは膨大な量の義理の兄の作品と兄弟間で交わされた手紙の分厚い束。絵が売れるあてもなく、幼子を抱えて路頭に迷うかと思いきや、彼女は亡き夫の遺志を継いで、ゴッホを世界に押し出すのである。――と、彼女がどうやってその偉業を成し遂げたか、それが本作の主題ではない。すでにゴッホの知名度が徐々に高まりつつあった1913年に著された本作は、画家ゴッホとは何者だったのか、そして断ち難い兄弟の深い絆について、ゴッホを世に出す使命を全うした著者が、その当事者として記録しようと思い立って書いたものである。ゴッホと間近に接した者しか知り得ない生々しいエピソードも含まれている。ゴッホ没後130年の今年、アートファンに読まれるべき貴重な一冊である。

(2020年6月号掲載)



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