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新連載「記者は天国に行けない②」清武英利

いち、にのさん、でドアを開けた瞬間……支局時代に見た記者たちの原点。/文・清武英利(ノンフィクション作家)

★前回を読む。

1

そのころの青森警察署は、庁舎のあちこちが古びて、陸奥湾から吹きつける潮風に浸食され始めていた。変色したそのビルの2階に、強行犯や盗犯を相手にする刑事たちの大部屋があった。

奥の窓際に陣取るのが、ねぶたの関羽のように大頭の刑事一課長である。逆光に包まれると、赤ら顔はひどく黒く見えた。記者たちがデカ部屋に自由に出入りできる時代で、彼の机の前の、くたびれたソファの端が、駆け出しの私の居場所だった。

ソファの後ろでは、ひっきりなしに黒電話や警察電話が鳴る。強面の刑事たちがその電話にくぐもった津軽弁でささやいたり、大声を上げたり、関係者から調書を取ったりして、せわしない喧騒のなかで不思議な秩序が保たれていた。課長は思い出したように、

「若ぇ者がそごでなにやっちゅんずや」

とソファの私に向かって濁声で脅し、追い払いにかかる。そのときに「すっすっ」という言葉が歯の間から漏れた。「犬じゃねえですよ」。宮崎なまりの私がつぶやくと、「まいね、まいね」。ダメだダメだと不機嫌そうな顔を作った。

青森署から約250メートルのところには、無機質な青森県警本部のビルディングがあり、そこに警察担当者が詰める記者クラブがあった。そちらは地元新聞三紙とブロック紙の河北新報、中央紙や通信社、NHK、地方民放局の記者たちがたむろしていて、息苦しいのである。先輩記者たちが小銭を賭けて花札に興じたり、脇の畳の部屋で雑誌を読んだり、発表記事を書いたりしていた。

その記者クラブの中にいる限り、私は新参者でしかない。だが、事件の最前線である青森署のデカ部屋に、古参記者が顔を出すことはまずなかった。ここは報道企業の末端者に過ぎない自分が、曲がりなりにも1個の記者として位置を占めることができる場所だった。

そして、くだんのねぶた課長は頑固そうに口を引き結んでいるのだが、意外に話し好きなのである。居心地は悪くなかった。

みちのくの人は概して口が重いとされている。朝日新聞で名文家としての誉れ高かった疋田ひきた桂一郎は、「新・人国記」の連載企画で青森県を担当し、次のように書いている。新聞連載の中でも秀逸とされる書き出しである。

〈雪の道を角巻きの影がふたつ。

「どサ」「ゆサ」

出会いがしらに暗号のような短い会話だ。それで用は足り、女たちは急ぐ。

みちのくの方言は、ひとつは冬の厳しさに由来するという。心も表情もくちびるまでこわばって「ああらどちらまで」が「どサ」「ちょっとお湯へ」が「ゆサ」。ぺらぺら、くちばしだけを操る漫才みたいなのは、何よりも苦手だ〉

だが一方で、冬の長いこの地では、ストーブの周りで巧みに座談を司る者こそが一目置かれる。特に艶笑話の語り部は座の真ん中を占めた。猥談好きな土地柄である。

ユーモアと哀愁で練り上げた小話集『津軽艶笑譚えんしょうたん』(津軽書房)シリーズが、地元で20万部以上を売るロングセラーになっていたのは、そんな根があるためだ。それは本屋だけでなく旅館や駅売店、喫茶店など青森県内のどこに行っても置いてあって、ページを読み進めると、津軽への旅情と感傷はやすやすと裏切られ、土の匂いのする明るいエロチシズムに包まれる。

著者の平井信作は、浪岡町(現・青森市)のリンゴ移出商を兼ねる直木賞候補作家だ。元陸軍中尉だが座談の名手でもあった。私は津軽弁の刑事一課長に抗弁するために、毎晩寝床でニヤニヤしながらシリーズを読んだ。作家の佐藤愛子だって、この『津軽艶笑譚』を何度も読んで、小説『院長の恋』を書いたのだ。

ちなみに、息子の平井鏡太郎は読売新聞社会部時代の、気のいい先輩である。後年、写真部長に就いたが、新宿のゴールデン街に連日連れて行かれ、社会部記者のたたずまい——あるべき姿という意味らしい——とウイスキーの牛乳割りを教えてもらった。

さて、ねぶた課長の話に戻る。

彼は捜査の進展について差しさわりのない範囲で語り、そのサービスタイムが終わると、ソファにたむろする新米記者をからかい始める。最後はたいてい艶笑話で、そのついでに記者を試しにかかった。あるときは、新人記者が女体の神秘にまるっきり無知であることをずばり見抜いて、

「おめ、童貞だな。どうだ!」

と言い放った。

「おなごの秘境はそうはなっていねぞ。本の勉強ばかりすてらはんで」

そして私たちの目を見て、頑張らねばまいねじゃ、とニヤリ笑った。女体一つ知らない、お前たちは世間知らずなのだぞ、と言いたかったのだ。

2

1975年春。赴任した青森の街にも、

〽港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカぁ~

「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」
作詞:阿木燿子 作曲:宇崎竜童

というダウン・タウン・ブギウギ・バンドの低く、やさぐれた唄が流れている。

ここは横浜の虚飾を取り払った本州最果ての地だ。マサカリの形をした下北半島と西側の津軽半島がぶつかる真ん中の付け根、その港町の署回りが私の最初の仕事である。

しょいなげを食らうような日々だった。同期生と2人、上野から一夜かけてたどりついた職場がお粗末なしもた屋風だったり、社員寮が荒れ果てた倉庫のようであったりしたが、落胆の中に何か愉快なことを見つけようと努めた。どうしようもないことや、昨日嫌だったことのために考え込むのが、私は嫌いだった。

同期生は牛乳瓶の底のように度の強い眼鏡をかけ、酒場好きで「福ちゃん」と呼ばれた。「ひかりは西へ」のキャッチフレーズで、山陽新幹線岡山−博多間が華々しく開業したばかりだったが、上野駅から北へ向かう夜汽車は超満員で暗かった。座席を一つしか確保できなかった私たちは、通路に敷いた新聞紙に座って一晩を過ごした。そのとき福ちゃんは座席に腰掛ける番になっても、「僕はいいよ、いいよ」と言って通路で寝ようとした。

——これは無類の好人物だ。

私は嬉しくなった。

もう5月だというのに、早朝の青森駅頭に人気はなく、寒々と曇り空に沈んでいる。私は出かけるときに読んだ太宰治の『津軽』を思い出した。1944(昭和19)年に津軽風土記の執筆を依頼された太宰が序編に記した通りだったのだ。

〈旅人にとって、市の中心部はどこか、さっぱり見当がつかない様子である。奇妙にすすけた無表情の家々が立ち並び、何事も旅人に呼びかけようとはしないようである。旅人は、落ちつかぬ気持で、そそくさとこの町を通り抜ける。けれども私は、この青森市に4年いた〉

——太宰よりもっと長くここにいるだろう。

と私は思っていた。本社で「5、6年は覚悟しておけ」と告げられていたのだった。私は24歳だったから、20代の残りはここで使い尽くすのだ。

駅前の食堂は朝から開いていた。迷った末にカツ丼を選んだが、刺身を切った包丁でカツを切ったのか、カツのどこを口に入れても生臭く、歯にキンキンと沁みた。記念すべき港町の朝飯は、やはり刺身定食にすべきだったのだ。

それから私たちの職場を探しに海風の街に出た。念のためにタクシーに乗ったのだが、「駅前から5分、青森県庁脇の表通り」と聞かされていたのに、新聞社らしき建物は見当たらず、運転手も首をひねった。「東奥日報でねですか」と地元紙の名を挙げる。行きつ戻りつ、とうとうペンキのはげ落ちかけた木造事務所の前に立った。看板には確かに「読売新聞青森支局」とある。

「うーん? これは新聞販売店じゃないか」

「まあ、聞いてみようよ」

と2人で恐る恐るドアを引いた。板張りのうす暗い事務所だった。

新聞が散乱した部屋の真ん中に、大きなダルマストーブが据えてある。その奥の年代物のソファにボサボサ髪の男がくたびれた格好で座っていた。暗がりから「ヨオ!」と声を掛けてきた。泊り明けの記者だった。

浮き立った風船はたちまちしぼみ、ぶら下げていたバッグを落としかけた。

支局の奥に住む支局長がしばらくして、私たちに支局改築の必要を語ったほどだから、老朽の度合いは無残なものだったのだろう。ある日、支局長は私にモップの柄を持たせ、「あそこの破れかけた天井めがけて突け。どんどん突け」と命じた。天井の穴を広げさせて写真に撮り、それを本社の管財に送り付けたらしい。いまはもちろん立派なビルになっているが。

私たちは2日ほど大歓迎を受けた。先輩の1人は、「お前たちは真っ直ぐにやってきたんだな」と笑っている。「真っ直ぐとはどういうことですか」と尋ねると、5年上の先輩たちは青森駅の手前の浅虫温泉で途中下車し、芸者を呼んで一晩遊んでから乗り込んできたという。

——しまった。そんな手もあったか!

私たち2人は赴任先を告げられると、研修担当者の指示通りにその夜に旅立っている。後で聞くと、複数の我々の同期生が研修終了のその夜は東京で楽しみ、翌日に出発したという。こき使おうと先輩たちが手ぐすね引いて待ち構えているところに、バカ正直に飛び込むことはなかったのだ。

支局の年長者によると、新人が複数配属されるとき、気が大きくなるのか、よく珍事を起こしたという。「お前たちはつまらんな」とも言われた。

3年上の2人の先輩は青森駅でタクシーを拾い、読売支局を通り越して、ライバルの朝日新聞青森支局に飛び込んだ。本人の弁によると、

「ただいま着任しました」

張り切って挨拶をすると、偉そうな男が言葉を返した。

「ご苦労さん。しかし、うちにはもうとっくに新人が来ているよ」

それから悠然と電話をとり、読売の支局に伝えた。

「おたくの新人が2人も迷い込んできてるぞ。うん、ここにいる」

朝日の支局は鉄筋コンクリート造りだ。木造の読売と比べると、童話の「三匹の子豚」に出てくるレンガの家と木の枝の家ほどの違いがあった。

読売の支局長は腹の出た大人風の人で、朝日に強い対抗意識を燃やしており、酒に酔うと、2人の迷子の出来事を「まったくなあ、どうしようもないよ」と漏らした。ただ、さっぱりした酒豪で、私たちにはさほど期待していなかったのだろう、訓示はあっさりしたものだった。

「朝日には負けるな。新聞はもちろん、朝日と名の付くものはビールでも保険でもだめだ。結婚はな、社会面トップで特ダネを取らないと認めないぞ」

その言葉通り、支局長は、3年先輩が朝日生命勤務の女性と結婚する際、「一緒になるのなら、先方にはまず朝日を辞めてもらえ」と告げたらしい。

これは後日のことだが、老練の地元記者は酒臭い息をしながら、私たちに言った。

「俺が死んだら、俺の棺桶は読売の旗で覆ってもらいたいもんだな」

酒の勢いと会社への忠誠心、それに支局長への追従もあっただろう。だが、当時の新聞社の躍進が本社や販売の努力だけでなく、こうした地方記者たちの献身によって支えられていたことは確かだった。読売新聞社は私が入社した1975年に念願の中部読売を創刊し、その2年後、朝日(715万6000部)を抜いて、720万1000部の発行部数日本一を達成している。

初出勤の夕方、連れて行かれた社員寮は支局から歩いて7、8分、東北本線沿いにあった。木造でトタン張り、管理人はおらず、犬や猫が潜り込んでいた。私の万年床に野良猫がぬくぬくと丸まっていたこともある。一台分の車庫の隣に薄い仕切りの3人部屋があり、寮費は安かったが、暖房はない。暖かい時期だけ風呂や便所が使えた。冬は水道が凍り付き、汲み取り式の便所は糞尿が凍って満杯になるのだ。

「ここでは……」先輩はもったい付けて言った。

「結婚をしない限り、2年間は寮から出られないしきたりなんだ」

「タコ部屋みたいですね」

「そうだな。でも初年兵は忙しくて、寮に寝に帰るだけだからいいじゃないか。呼び出されても支局は近いしな」

確かに、試用期間中の福ちゃんと私は毎朝7時過ぎに寮を出て、午前零時過ぎに帰宅した。京都や福井の飯場暮らしを私は思い出した。カネがなくて、大学の休みに短期の鉄筋工として働いた時期があった。そこには体だけでなく眉にまで刺青を彫った男たちがいた。ヘマをして型枠大工に脳震盪を起こすほど殴打されたこともある。

ここで殴られることはないだろう。私は心の中で舌を出していた。

——なあに、ここが嫌になったら結婚すればいいんだ。

そして8か月後、そのようにして寮から出た。

3

少し堪えたのは、我々を束ねる警察担当キャップの言葉である。その記者ははっきりと宣言した。

「俺は警察が好きじゃない。だから俺は基本的に警察を回らないので、お前たちでやってくれ」

私は福ちゃんと顔を見合わせた。私たちに教えたり、一緒に汗をかいたりすることはないということだ。冗談じゃない。

——じゃあ、キャップのあんたは何やるの?

彼は外報部志望のスマートな記者で、青森署の刑事課長あたりにいじられやすいタイプである。警察を1年間担当してすっかり嫌になったようだった。彼の一言で、私と福ちゃんは警察組織のただなかに放り出された。ネタ元の引継ぎらしいことも、警察官の住所を記した「ヤサ帳」もなかった。

新聞社は入社したての新人を全国に配置し、政治部志望であろうと、経済部志望であろうと、情報の前線である警察を担当させる。新聞社の手前勝手な都合からすれば、新米記者の手っ取り早い実践教育、「On the Job Training」の場である。

一方でそこは人間の生き死にを扱う社会の覗き窓であり、死に対し人が顔を背けることはできない以上、報じる者の原点とならざるを得ないのである。

元読売新聞大阪社会部長の黒田清が「新聞記者と死」という文章を残している。かつての読売大阪社会部がまとめた『あるOLの死』という本のあとがきである。

〈新聞記者の仕事は、人の死にかかわりが深い。それも自然ではない不慮の死、自殺、他殺、過失死、事故死といった変死事件に、日常的に直面していかなければならない。もちろん人間の生にかかわるニュースも多いのだが、なんと云っても、突然襲ってくる生の終焉しゅうえんというものは、その周辺の人たちにとって、なにより強い衝撃を与える。それだけ、ニュースになる要素を持っている〉

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