見出し画像

「三國連太郎は僕に嫉妬した」俳優・佐藤浩市、亡父への思いを初めて語る。

日本映画史に燦然と輝く役者・三國連太郎。2013年に他界するまで30年近く家族同然に付き合ったノンフィクション作家の宇都宮直子氏が、4月8日、『三國連太郎、彷徨う魂へ』を上梓した。
9章のタイトルは「浩市」。今や日本を代表する俳優となった息子・佐藤浩市氏。これまで不仲とされていた父と息子の真実が描かれている。実は、宇都宮氏は『文藝春秋』2019年5月号で佐藤浩市氏に父・三國連太郎についてインタビューしていた。この章は、それをもとに書かれている。
今回、同書の刊行を記念して、『文藝春秋』に掲載された佐藤浩市のインタビューを全文公開する。

画像3

      『三國連太郎、彷徨う魂へ』(宇都宮直子著)

――お父さまの存在を思い出すのは、どんなときですか。

佐藤 家に仏壇があるのでね。あまり信心深い人間ではないですけれど、朝起きて、仏壇を開けて線香あげて、「親父、今日も家族みんなの健康を頼むよ」ってお願いするときには、思い出さざるを得ないです。

三國は散骨を希望していました。「なんで叶えてやらないんだ」と言われればそれまでだけど、なかなかできないものなんですよ。一緒にいる時間が少なかったから余計にそう思うのか、僕の中でもまだ答えが出ていないけれど、やはり自分の思いとして、墓を作ってあげたいなと。だから彼の散骨希望は、僕が勝手にやめにしました。

――三國さんは70代の後半から「僕はいい父親じゃなかったのに、お墓のことも、その後のことも浩市に頼まなければならないのが申し訳ない」とおっしゃっていました。

いま改めて、どういう父親だったとお思いですか?

佐藤 彼が「いい父親じゃない」と言うならその通りで、父親としての認識はほとんどないんです。僕が小学5年のときに彼は家を出たわけだけど、その前もそれほど家にいる人ではなかったし、生活を共有してるという意識はほとんどなかった。たまに彼が家にいると、食事を一緒にするのが苦痛、という親子の距離感でしたから。

ただ、そういう一般論なんて僕にとっては関係ないので、父親イコール役者で何が悪いのか、と思っていますよ。僕にとっては役者・三國連太郎が父親であるし、父親・三國連太郎というのは役者なんです。

俳優、三國連太郎(本名・佐藤政雄)は、2013年4月14日、90歳で亡くなった。生涯に4度結婚した。長男の俳優、佐藤浩市(58)は、3度めの結婚相手との間に生まれた子供だ。離婚後、三國が家を出てのち親子の深い交流はなく、佐藤が19歳で俳優デビューしたあとも確執が報じられたことがある。

この4月に七回忌を迎えるにあたり、佐藤が亡父の思い出を語った。関係の複雑さのためか、呼び方は「三國」「彼」「親父」が混在する。聞き手の宇都宮直子氏は、晩節の三國に20年以上も密着取材を続けたノンフィクション作家だ。

画像1

佐藤浩市氏

――三國連太郎の長男として生まれて、得したこと、損したことがあると思います。

佐藤 得したのは、デビューして最初からいい役が付いたことです。時代的にもちょうど、映画界の諸先輩のご子息たちがポツポツ役者として出始める頃で。そういう意味でとても恵まれていたし、それを勘違いした部分も当然ありました。

――「浩市の不都合にならないよう努めた」という言葉を三國さんから何度か聞きました。それを感じることはありましたか。

佐藤 まだ自分の力がないとき、親父の名前で仕事をもらっていたにもかかわらず、非常に不遜な思いでいたのは確かです。スタッフから「次の現場は息子さんと一緒なんです」と言われれば、三國は当然のごとく「浩市をよろしくお願いします」と返すわけでしょう。あとでそのスタッフから伝え聞いて、「あんなこと言わないでくれよ」って三國に当たったこともありましたね。

十国峠の別れ


――三國さんが佐藤さんのお母さまと離婚したのは、小学校5年生のときですね。三國さんによると、佐藤さんと2人で伊豆の十国峠に出かけて話をしたと。「今日限りでお前とは他人になる。一人で一生懸命生きてくれ」と言って、佐藤さんを車から降ろしたが、佐藤さんは取り乱すことがなかった。後年、三國さんがいろいろなところで披露している有名なお話ですが、事実ですか。

佐藤 三國はそう言いますけれどね。実際そうだったかな(苦笑)。

――そのあと十国峠で佐藤さんはどうしたんですかと訊いたら、一緒に来ていた関係者の車に乗って帰ったのだと。

佐藤 下田へはよく行ったので、何度も親父の車で十国峠を通りました。けれど、そこに別の車で関係者が来たことなんて、ありませんよ。

まあ、実の息子が言うのも大変心苦しいんですけど、いろんなお話をなさる方だったので、話しているうちに本当になっちゃうんでしょう。

――デビューの経緯にしても、銀座を歩いていたら松竹のプロデューサーにスカウトされたという話がある一方で、鳥取にいるときニューフェイスに応募写真を出したともおっしゃるので、「銀座じゃないんですか」と尋ねたら、不自然に話がそれたことがありました(笑)。

佐藤 嘘ということではないんです。小さな話を大きく広げて、相手をどう楽しませるか。話を作ると言うと語弊があるけど、彼の中でイメージが膨らむんじゃないですか。

――三國さんの中には、さまざまな事実が存在しているのですね。ただ「戦争中に爆弾が落ちたとき、自分はお腹を壊して厠(かわや)で便器にまたがっていた。気が付いたら厠ごと川の向こうへ飛ばされていて」というお話を伺ったときは、「いくらなんでも、それはあり得ないんじゃないですか」と言ってしまいました。

佐藤 彼がよくする話に「満州へ出征する前、女郎屋さんに行くと、朝、女性が玄関まで見送りに来た。靴を履きながらパッと振り向いたときに見たお女郎さんの脚が、透けるように白くて忘れられない」というのがあるんですけど、脚の白さが目に浮かぶようでしょう? 要は、その映像を愛せるか愛せないかで、本当か嘘かは大した問題じゃない。

彼が作ったストーリーは、なかなかエスプリが効いていて、楽しいんですよ。いろんな方からその手の話が新しく出てくるたびに、僕は楽しくてしょうがないんです(笑)。

役者なんて嫉妬の塊ですよ。

画像5

日本を代表する名優だった

――佐藤さんのことを、お仕事ぶりを含めて三國さんはとても気にしてらしたと思いますけど、ご自身ではどうお感じでしたか。

佐藤 演者としては、分身だったんでしょうね。だから三國は僕に、安っぽい仕事を生業(なりわい)としてこなさないでほしいという思いがあったと思います。逆に僕が、「いまこういう仕事をやってて面白いんだよ」っていう話をすると、嫉妬するんです。「ああ、そう」って聞きながら、明らかに「羨ましい、自分もそういう場所に立ちたい」と思っているのがわかる。だから、僕がふがいない仕事をすれば腹立たしいだろうし、やりがいのある仕事をやってると羨ましいんでしょう。自分の分身には、複雑な感情があると思います。

――あの三國連太郎が嫉妬するなんて! 「僕は人に嫉妬したことがありません」とおっしゃっていましたけれど。

佐藤 それは三國さんの嘘だと思う。役者なんて嫉妬の塊ですよ。緒形拳さんと『魚影の群れ』(1983年)でご一緒したあと何年かして、撮影所ですれ違ったことがあります。緒形さんは僕が撮っている作品をご存じで、「面白そうなことやってるな、浩市」ってひと言。あの緒形拳でも同じなんですよ。嫉妬を美しくない感情だとは、僕は一概に括れないと思っています。

――三國さんは「演じられなくなったら、生きている意味がない」と繰り返しおっしゃってました。そのお気持ちを理解できますか。

佐藤 これは、考え方が二通りあるんですよ。三國には、自分が演ずる作品なり役なりの選択において、普通の役者さんよりかなり高いハードルがありました。僕自身は、三國ほどハードルを高くしているつもりはないですし、人間関係でお受けする仕事も当然あります。

ただそれでも、こうして60歳を前にして、あと何年できるか。つまり、自分がある程度納得できる状態で何年芝居できるかと考えたとき、だからこそ作品や役を選ぶべきだと思うか。それとも、あと何年あるかわからないのだから、できるだけ仕事の数をこなしていくべきだと思うか。その二択があったとすれば、僕は前者なんです。三國も当然そうだったと思います。

――たしかに、「僕ほど素晴らしい作品に出られた役者は珍しい」とおっしゃっていました。

佐藤 人との出会い、作品との出会い、これは運なんです。「自分は作品に恵まれていた」という三國の言い方は、運がよかったということです。もしかしたら、先に決まっていた人が断わったから自分にその役が回って来たのかもしれない。進んでいた企画が途中でなくなって、暇になったから出た作品や、そこで出会えた人間が、自分にとって非常に感謝する存在になる場合もある。そういう役者の運というものがあるんです。僕自身も、役者業を選んで、なおかつ何とか40年やってこられたのは、ものすごい強運があったからですよ。

――一方で、三國さんは「まだ、やり足りない」とも。

佐藤 それも本音だと思います。何が彼から光を奪うかというと、「演じられない」という一点だけなのです。“役者業(ごう)”というものを持っていた人ですからね。

死ぬ間際、撮影でニューヨークに行くからしばらく会えないなと思って、親父が入院していた病院にちょっと顔を出したことがあるんです。そしたら彼の顔が本当に寂しそうに見えてね。「もっとやっておけばよかった」とまでは言わないまでも、またカメラの前に立ちたいというニュアンスの話をしたので、「俺も年をとれば絶対こうなるんだな」と思いました。いまは偉そうに仕事をチョイスしてるけど、自分も老いたら「ああ、あれもやっておけばよかった。あれも受けておけばよかった」と絶対に思うんだろうなと。思うんだろうけれど、でも、この生き方しかできないっていうのは、やっぱり親子で変わらないんですよね。

――「人間関係には何ひとつ未棟はありませんが、演じることには未練たらしく生きていたいですね」というお言葉もありました。

佐藤 あるとき「三國のセリフ覚えが悪くなった。カンペを出しても上手くいかない」と聞いて心配になって、スタジオに忍び込んで非常階段の後ろからそっと現場を覗いたことがあります(笑)。そのときは、なんとかやれていると思って、そのまま帰りましたけどね。

画像5

「釣りバカ日誌」の撮影で(文藝春秋1994年7月号「日本の顔」より)          

――最後のテレビドラマになった『鬼平犯科帳スペシャル』(2011年)の撮影現場を拝見しましたが、目の輝きが違ってましたよ。脚本を見て「このセリフは江戸弁じゃないからおかしい。誰か江戸弁がわかる人はいませんか」とこだわって。

佐藤 体調もよかったんでしょうけど、やっぱり現場にいられる嬉しさじゃないですかね。

――とても寒い京都の野外撮影で、鼻水がダラダラ出てるのに、「はい、スタート」の声がかかると鼻水がピタッと止まるんです。

佐藤 変なものでね。僕ら世代から上の役者は「汗かくな」と言われると、首から上だけ汗かかないんですよ。いまの人は駄目ですけどね。

役者の死、肉体の死


佐藤 僕らが仕事を始めた頃は、役者という世界の中にまだアウトロー気質なところが残っていて、原田芳雄さんしかり、松田優作さんしかり、まさに三國連太郎しかり。ちょっと偏った人間観というか、一匹狼を気取るというか、人に対して超えられない轍(わだち)を勝手に作るんです。あの時代の役者さんは皆そうですよ。

だから当時の演者は、僕も含め、現場でかなり激しく監督とやりあいました。「生身の人間がこんなことを言うはずないだろ」って、すごく居丈高にね(笑)。何とかして監督の発想を飛び越えた演技をしてやろうって、誰もが思ってましたから。

ただ、いまはもう、それは現場でやることじゃないと思っています。あるとき大ベテランのスクリプター(記録係)のおばちゃんに、一言ぽつんと、こう言われたんです。

「あんたは勝ったつもりでいるかもしれないけど、負けてるのは監督だけじゃない。あんたが現場で監督をやり込めると、スタッフ全員が屈辱感にまみれるんだよ」

 ハッと思い至りました。監督と、事前に「このシーンは、こういう演じ方もあるんじゃないですか」と話し合っておけば、現場で無用な波風を立てる必要なんてないんだと。でも、それに気づけたのが、僕も40を超えてからですから。

――三國さんは最後まで、「他人のことはどうでもいい」とおっしゃってました。だから、佐藤さんはお父さまより大人ですね(笑)。

佐藤 ハハハ。いまの現場は、そうしないと回っていかない面がありますからね。別に、自分が仕事を得るためにそうするのではなくて、余分な時間を節約するという意味で。

――「浩市から『親父、時代が違うんだよ』ってよく言われました」ともおっしゃっていましたが、ご記憶ありますか?

佐藤 それはあります(笑)。いま思い出す三國の言葉もいくつかあるけど、「(声色を真似て)僕らの時代は10年に一本でよかったけど、君たちの時代は5年に一本これっていう作品をやらないと、次の5年、残れませんねえ」。

――似てますねえ。ビックリするぐらいそっくりです。

佐藤 似てるんです。どうしても似ちゃうんです(笑)。

――佐藤さんは、三國さんの迫りくる死を感じておられましたか。

佐藤 演者として立てなくなった時点で、三國は半分死んでいるんですよね。そのとき半分、彼を看取っているので。あとは肉体的な部分が退行していく彼をいくら見ても、逆に、リアルな死というものを感じ得なくなっていったというか……。

だから、亡くなった知らせを受けたときは「そうか、わかった。じゃあ行こう」と。人には「なんて冷たい息子だろう」と見えたかもしれません。でも、それはそれで、病室のベッドに横たわる三國を見て、「ああ、病院にいる彼は、(本名の)佐藤政雄だったんだな」と、そんなことを思ったりもしましたね。

亡くなった翌々日、僕は撮影に行ったんですよ。親が死んで、事務所も配慮してくれたんですけど、「いや、俺行くから」って。みんな驚いていました。でも、「休むな」って親父は絶対言ってると思ってね。

三國連太郎

佐藤家三代の役者道

――三國さんが逝かれて6年ですけれども、いま、どんなことを思ってらっしゃいますか。

佐藤 うちの坊主(息子)の映画を見せてやりたかったな、という気持ちが一番にあります。「結局、三代続いちまったよ」ってことを、彼はどう思うだろうな……。たぶん報告しても、「そうか」と、ひと言、言うだけだろうし、それは僕のときも変わりませんでしたけどね。

佐藤の息子、寛一郎(22)は、2017年に俳優デビューした。『ナミヤ雑貨店の奇蹟』(2017年)で、第27回日本映画批評家大賞の新人男優賞、『菊とギロチン』(2018年)で、第92回キネマ旬報ベスト・テン新人男優賞を受賞するなど、高い評価を得ている。

――三國さんのお家には、佐藤さんや寛一郎さんの写真がたくさん飾ってあって、嬉しそうに「これはこういうときでね」って説明してくださいました。

佐藤 三國さんにはなかった――と言ったら彼に申し訳ないけれど、僕がひとつの家族という形態を作って、それをちゃんと見せてあげられたのは、よかったんじゃないかと思っています。三國のせいではないにせよ、僕も一回作った夫婦という関係を簡単に壊すことを、過去にしてますからね。僕自身の考えが浅はかだったんだけど、変なロジックとして「役者はそれでいいんだ」という甘えた勘違いをしていた自分が過去にいたことも確かなんです。

だから最終的に、家族というものをちゃんと見せてあげられてよかった。そういう孝行はできたのかな。

――寛一郎さんのことを三國さんは、「あの子は愛されて育っているから、役者に向くのかな」と心配していました。佐藤さんについては、「浩市を傷つけた。人間不信にしてしまった」と。けれど、「傷が深い分、あいつはいい役者になれる」ともおっしゃっていた。

佐藤 僕も似たようなことを坊主に言ったことがあったらしいです。「お前は愛情を受けてるから無理かもな」って。その言葉に彼はすごく傷ついて、「役者をやる」とギリギリまで僕に言えなかったらしい。

そういう意味では申し訳なかったと思うけど、我々は偏屈な商売のせいか、愛情に恵まれているより恵まれていないほうが、足りているより何かが枯渇している人間のほうが、愛情という表現を深くできるんじゃないかと考えがちなのでね。三國が思ったことと同じなんです。

――寛一郎さんは、苦しい道を選ばれましたね。

佐藤 変な話、僕は両方の気持ちがわかるんです。三國も僕に対して、同じように思ったことがあっただろうと思うから。

だから、よかったですよ。息子の立場として、何をされたら嫌かもわかるので「こうなんだぞ」という決めつけた言い方は、坊主にはしないです。「こんな考え方もあるんじゃないか。俺はこんなふうにしたけどな」って、話すようにしています。

――佐藤家三代の役者つながりといったことをどうお考えですか。

佐藤 三國と僕は、一緒の作品に出ることに対してハードルを上げすぎました。結局、共演作が『人間の約束』(1986年)、『美味しんぼ』(1996年)、『釣りバカ日誌19』(2008年)、『大鹿村騒動記』(2011年)の4つしかなくて、2人は仲が悪いと決めつけられました。でも、現実問題として距離感はあったにせよ、それほど仲が悪いわけではなかったです。芝居の話は、お互いよくしましたしね。

だから坊主との関係では、できるだけハードルを上げないで、しょっちゅう共演するわけじゃなくても、何年かに一本、お互いの立ち位置を見るだけでもいいので、一緒の現場にいることは必要だなと思っています。親父との関係から、反面教師として学ばせてもらったことです。

――三國さんは、寛一郎さんが病室へお見舞いに来ると、本当に嬉しそうでした。手を握って「お前はしっかり生きるんだぞ。頑張って生きるんだぞ」って。それはやっぱり家族愛なのでしょうか。

佐藤 自分の血ということなんでしょう。そういったものと一番縁遠かったはずの親父が、なぜ晩年になって血に執着するんだと、僕なんか逆に不思議なぐらいです。三國がもし寛一郎の演じている姿を見ることがあったら、感じるものは僕以上に強かったことでしょう。

――そうかもしれません。血の話をされたとき、「僕は無になりたくない」ともおっしゃっていました。

佐藤 残したいんですよ。だから映画が好きなんです。映像の役者は映画の中でずっと生きていけます。自分の思いを残せるというこだわりは、僕の中にも幾ばくかある。親父も同じなんだろうと思います。

(文藝春秋 2019年5月号掲載)

【編集部よりお知らせ】
文藝春秋は、皆さんの投稿を募集しています。「#みんなの文藝春秋」で、文藝春秋に掲載された記事への感想・疑問・要望、または記事(に取り上げられたテーマ)を題材としたエッセイ、コラム、小説……などをぜひお書きください。投稿形式は「文章」であれば何でもOKです。編集部が「これは面白い!」と思った記事は、無料マガジン「#みんなの文藝春秋」に掲載させていただきます。皆さんの投稿、お待ちしています!

▼月額900円で『文藝春秋』最新号のコンテンツや過去記事アーカイブ、オリジナル記事が読み放題!『文藝春秋digital』の購読はこちらから!

★2020年4月号(3月配信)記事の目次はこちら